坂元栄 双子
「あ、目が覚めました?」
栄は、目覚めた顕彦に声を掛けた。
―よく、こんな粋な着流しで眠りこけていられるなぁ。具合が悪い時も、こんな良い着物を着ているなんて、感心してしまう。
暗藍色と藍色の細かい市松模様という、さり気無い柄行の着流しは、顕彦に、実によく似合っていた。
様子を見に訪れた栄が納戸に入ると、敷いた布団の端に、更に、畳んだ布団が重ねてあって、顕彦は、其の重ねた布団に寄り掛かる様にして、敷いた布団の上に座った儘、スヤスヤと寝ていたのである。
「おや。来てくれたのか。…何だか、十年くらい昔の夢を見ていた気がするなぁ」
顕彦は、そう言って目を擦ると、傍らに座した栄の顔を見た。
其処等中に本が積み重ねてある。本の種類は実に多岐に渡り、独逸語の物まで有った。膝には、質の良さそうな薄掛けが一枚掛けてあった。絹かもしれない。
昔からだが、顕彦の持ち物は、いちいち高価そうである。
しかし、何故か、持ち物の上質さの持つ印象に反して、あどけなく見える、其の寝起きの顔を見て、栄は、微笑んで言った。
「ええ、御客さんと一緒に」
「客?」
其の時、納戸の戸から、チョコチョコと、就学したて、という感じの、白張を着た男児が二人出てきて、先生、と言った。
「綜。周」
此の愛らしい二人は、長の息子で、双子なのである。
顕彦は、双子の姿を見るなり破顔した。
双子の後ろから、引詰め髪にして、珍しく野良着に前掛け姿の初が顔を出し、更に其の後ろから、白張姿の長身の男が一人現れた。
「ハナちゃん。荻平さんも」
皆、口々に顕彦に挨拶した。
瀬原衆の瀬原荻平は、瀬原八次と並び、長の外向きの仕事の補佐役をしている。
里でも一目置かれる存在だ。
荻平といい、八次といい、頭も良いが、外向きの仕事の為になのか、見栄えの良い人間が選ばれている、というのが里での評価である。
実は先程、表座敷で、荻平と、荻平の連れてきた双子に御茶を出したところだったのである。
長の息子のオマケとはいえ、上方限の本家屋敷の表座敷に通されるとは俺も出世したね、と、此の長の補佐役は、明るく笑って言った。
何と無く爽やかな人である。
「先生、大丈夫ですか?」
双子の弟の方、周が、チョロチョロと顕彦の方まで走ってきた。
「大丈夫だよ、周。来てくれたのかい、二人共」
兄の綜は、ペコリと丁寧に一礼して、三本の見事な白百合が束ねてあるものを差し出した。丁寧に花粉が取ってある。
「父からの御見舞いです」
「有難う、綜」
双子だが、対照的な、動と静、と言った印象を受ける二人である。
そっくりだが、見分けは直ぐつく。
幼いながらに、思惟する、という言葉を体現したかの様な、凛々しい顔をして、殆ど表情を変えない、父親譲りの麗しい淡褐色の瞳をしているのが、兄の瀬原綜一。
弟は、瀬原周二という。
此方は泣き虫の甘えん坊で、栗鼠か子犬か、という様な、黒っぽい愛らしい目をしていて、表情がコロコロ変わる。
如何にも双子、という感じで、よく似た二人だが、栄は、其の点を以て、二卵性双生児なのではないか、と考えている。
長の息子だが、母方の祖母が男女の双子だったと聞いたので、有り得そうな話である。
遺伝とは不思議なものである。
これまた、二人共、顔から髪の色まで、驚く程父親似なのである。
綜に至っては、性格も少し長に似ているのではないか、と栄は思う。
初は、何時もの様に華やかに微笑んで、顕彦から白百合を受け取って、炊事場に向かった。花を生けてくれる心算らしい。周は、キャーッと笑いながら、初の後に付いて行った。
初にとって、綜一と周二は親友、周の忘れ形見である。何かしら構って、家に上げたり、おやつをあげたりして可愛がっているので、二人共、よく懐いている。
「親御さんが、百合を?」
顕彦が、少し驚いた様子で、綜に尋ねた。
栄も同感だった。
―確かに少し驚いた。九月に珍しいよね。
「父が育てております」
綜の返答に、栄は驚いた。
園芸の類をする長が想像出来なかったからである。
しかし顕彦は、そうかい、と言って、綜に微笑みかけた。
栄の隣に胡坐を掻いた荻平も、館の庭、なかなか見事なもんですよ、と言って微笑んだ。
「有難うと言っていた、と、宜しく御伝えください」
顕彦は、穏やかに微笑みながら、そう言って、綜の肩に、そっと手を置いた。
綜は、硬い表情で、はい、と言った。
如何やら微笑みたいらしいのだが、此の綜一は、上手く微笑めない不器用さを持っているのである。
顕彦は、微笑むと、おいで、と言って、綜の方に両手を向けた。
綜は、戸惑った様子で、顕彦を見詰めて、珍しく、小さな声で言った。
「先生は皆の先生だから、抱っこは駄目」
普段表情の乏しい綜が、眉を八の字にして、そう言うのが愛らしく、栄は、とても可笑しかった。
―多分『抱っこ』してほしいんだろうなぁ。
顕彦は、微笑んだ儘、言った。
「もう先生辞めちゃったよ。綜達が最後の生徒だったんだぞ」
綜が、少し迷った様子で、珍しく上目遣いをしている。
顕彦は、追い打ちをかけるかの様に、御道化て言った。
「ああ、寒いなぁ。膝が冷たくて風邪を引くなぁ。何か乗せないと」
綜は、珍しく、酷く驚いた顔をして、慌てて顕彦の膝に座った。
足首は避けているのを見て、斯くも甘え下手で、よく気の付く子供であるとは、と、栄は感心した。
顕彦は、ははは、と笑った。
荻平が、少し心配そうに言った。
「…子供に、そんな言い方して、言う事聞かせて大丈夫?」
栄も、其れには同感であるが、普段なら顕彦は、そんな言い方をしない。
だから栄は、何も言わなかった。多分、顕彦は、綜の甘え下手を見抜いて、そんな言い方をして『抱っこ』しようとしたのであろう。綜には『止むを得ず』という状況が必要なのである。
―寂しがりなのに甘え下手、か。
双子の母、周は、御産で亡くなっている。
長の家は現在父子家庭なのだ。
栄の母、勢もまた、栄の出産が遠因で亡くなっている。
其れ以来、糺が再婚もせず、ずっと父子家庭だったので、栄は此の双子に親近感を覚えている。
「先生、百合、御好きですか?」
綜は、顕彦の膝の上で、顕彦の顔を見上げながら尋ねた。
「御見舞いに行きたい、と言ったら、父が、大事な百合を切ってくれたのですが。御花が御好きか如何か分からないのに、と思って」
顕彦は明るく、好きだよ、と言った。
「白い花は何でも。香りが有ると尚良いな。有難う。今、ハナ子おばちゃんが生けて、持って来てくれるからな」
綜は、硬い表情の儘、はい、と言った。笑いたいらしかった。
ハナ子おばちゃん、というのは、子供達の間での、初の呼称である。
初は、親しい者からはハナと呼ばれているせいか、初の甥、俊顕の息子の辰顕が、何故か初の本名をハナ子だと勘違いしていたのだ。
初が面白がって、其れで良い、と言って、其の呼称が定着し、初を知る子は、初を、ハナ子おばちゃん、と呼ぶのである。
「え、白い花が好きとか、意外」
荻平が、本当に意外そうに、そう言った。
顕彦は、ふふ、と笑った。
「ああ、白梅とか?」
栄が、そう言うと、顕彦は、そうそう、と軽く言った。
綜は、顕彦の膝が落ち着くらしく、膝に乗った儘、ジッとしている。
―何か、こういう猫、見た事有るな。可愛い。
見舞いの品が気に入ってもらえてホッとした様子が、何故かジンワリ伝わってくるのだが、綜の表情自体はほぼ無表情だった。
荻平は、へぇ、と言った。
「花が好きっていうも意外だけど。好きなら、どぎつい赤い花とか好きなのかと思ってた」
荻平の言葉に、顕彦は吹き出して、言った。
「何それ。牡丹とか?躑躅?」
「何だろ。何か、白じゃないやつ」
荻平も、そう言って笑った。
栄には意外だったが、こうして話しているのを見ると、割と仲が良い二人らしい。
―考えてみれば、此の二人、同い年だっけ。
「あー!」
突然、納戸の戸の方から、高い子供の声がしたので、振り返ると、白百合の生けられた花瓶を持って微笑んでいる初の後ろから、周が顔を出していた。
「おにいちゃま、ずるい、ずるい!しゅうも!だっこ!」
周が、そう抗議しながら、ピュッ、と走って顕彦の傍に来た。
「周。学校に入ったら、自分の事を名前で呼ばないのであろう?そして俺の事も、兄上、だ」
綜が、静かに、そう窘めると、周は、シュンとした顔をした。
―何か、こういう子犬、見た事有るな。可愛い。
顕彦は、周に、おいで、と言って微笑んだ。
「膝は二つだからな。片方ずつ座れば解決だ。ああ、足首は避けておくれな」
顕彦の二つの膝の真ん中に座っていた綜が、無言で右膝に移動した。
周が、もう既に楽しそうに、キャッキャと笑って左膝に座った。
栄には、顕彦が、ほんの一瞬、重そうな顔をした様に見えた。
数えで八つの男児二人が膝に乗ると、膝の上がギッシリと子供で埋まっていて、顕彦の顔が殆ど見えないくらいだった。
―其れにしても顕彦さんに懐いているよねぇ。
長には思うところの有る筈の顕彦だが、双子に対しては、そんな素振りを一切見せない。
―確かに、子供には罪が無い。
「先生、どうして学校やめちゃったの?」
周が、そう言って、顔を上に向けて、バァー、という感じで顕彦を見た。
綜が、横を向けば済むのでは?という様な疑問を周に対して抱いた顔をした。
顕彦は、笑って言った。
「もう年寄りだからなぁ。引き時だったのよ」
顕彦の言葉に、双子が一瞬硬直した。
周が、首を元の位置に戻して、綜と顔を見合わせた。
此の人また言ってるよ、と栄は思ったが、何も言わなかった。
多分、双子の考える年寄りの姿と、顕彦の見た目が一致しないのだ。
「ちょっと、ちょっと。俺と同じ年だろう、顕彦さん」
荻平が、そう言って笑うと、双子は、揃って首を動かし、顕彦と荻平の顔を見比べた。
如何して、こんなに同じ動きをするのだろう、と、栄が思わず笑ってしまいそうになるくらい、動きが揃っていた。
兎に角、双子には顕彦と荻平が同い年に見えないのであろう事は察せられた。
「悪かったね、老けてて」
荻平は、そう言って、また笑ったが、正直、荻平は別に老けて見えるわけでは無い。
寧ろ年より若い。
ただ、顕彦の外見が実年齢より下に見え過ぎるのである。
「先生何さいなの」
周が、不思議そうな顔をして、顕彦に問うた。
「何歳だと思ってたんだ?」
これまた顕彦が不思議そうに聞き返すのが、栄には不思議だった。
―少なくとも年寄りとは思ってなかったでしょうよ。此れだもの。
徒に子供を混乱させる程、見た目と、実年齢と、自己像の年齢に齟齬が有る。
周が、首を傾げながら言った。
「あぱち?」
出し抜けに、子供の口から謎の単語が飛び出したので、其の場に居た大人三人で、ん?と聞き返してしまった。
綜が、やれやれ、という感じで補足した。
「二十歳の事です」
「ああ、二十歳か」
顕彦と荻平は、そう言って、ゲラゲラ笑った。
栄も思わず吹き出した。
「は、た、ち」
綜が、周二に向かって、一音ずつ、ハッキリと、そう言った。
「は、ぱ、ち」
周は復唱し損ねている。
顕彦は笑って、双子の頭を撫でて、言った。
「あぱち、で良いよ、何でも良い」
双子の愛らしい様子に、栄は微笑んで、言った。
「其の人、長と同い年だよ」
双子は、納得した様に、ああ、と声を揃えた。
長も年齢不詳の美貌を誇っているである。
「え?如何いう事?俺の事は何歳だと思っていたの?」
荻平が、少し狼狽えて、そう言った。
「あ…二十歳?」
綜が、戸惑いながら、そう言った。
気の毒なくらい気を遣う子だな、と思うと、栄は可笑しくて堪らなかった。既に長子の苦労を抱え込んでいるかの様な佇まいをしている。
荻平は、申し訳なさそうに言った。
「あ、気を遣わせて、ごめんね…」
其処へ、花瓶を持って来て直ぐ、再び炊事場に引っ込んでいた初が戻って来た。
「あら、御膝、良いわねぇ。でも、彦兄ったら、足を悪くしていらっしゃるのに」
初が、そう言ってクスクス笑う。
ハナ子おばちゃん、と、言って周が喜んだ。
「二人とも、いらっしゃい。おばちゃんの御家で、おやつをあげましょうね」
わーい、と、周が初の方に、ピョンと向かっていった。
綜は、おずおずと、顕彦の方を見た。
「綜、俺にも一つ貰って来てくれないか?」
顕彦が微笑んで、そう言うと、はい、と言って、綜は顕彦の膝から退いた。
顕彦が、頼んだぞ、と言うと、初がまた、ふふ、と笑った。
双子は、初を真ん中にして、手を繋いだ。三人でトコトコと、楽しそうに玄関に向かって歩いて行く。
「栄殿、申し訳ないが、双子に付いて行ってやってくれないか」
荻平が、済まなさそうに言った。
顕彦と話がしたいらしい。
暗に席を外せと言われている事を栄は察した。
栄が、はい、と言うと、荻平は爽やかに笑って、有難う、と言った。
「いやぁ、良い香りだね」
顕彦が、傍らに置かれた白百合を見て、言った。
「こうして、枕元に花が有って、寝ている所を皆に囲まれていると」
ふふ、と笑って、顕彦は続けた。
「臨終みたいだ」
思っても言わなかったのに、と思って、栄は笑いを噛み殺した。
「思っても言わなかったのにさぁ」
荻平が、そう言って、ゲラゲラ笑った。
仲が良いな、と思い、栄は微笑んで、言った。
「其れでは後程。また、双子を連れて戻りますから」
顕彦と荻平が、有難う、と言った。
「今日は、じぃじ、いないの?」
周は、栄の家に来るなり、広間でキョロキョロと糺の姿を探している。
綜も、キョロキョロと、囲炉裏端を見渡していた。
「ごめんね。御仕事で一ヶ月戻らないから、来月、また会いに来てくれるかな?」
栄が、そう言うと、双子は、はい、と声を揃えて言った。
糺が、顔に似合わず、相当な子供好きなので、かなり懐いている。長とは色々あった家なのだが、こうして見ると、不思議な関係である。
―坂元本家に長の子が入り浸っているよ、と、昔の自分に教えてやっても、信じないだろうな。…尤も、此の双子は、父上の大事な人の孫だから、可愛いのは仕方が無い事だけど。そうでなくても父上は、父子家庭で寂しい思いをしている子供が居たら、放っておける様な性格をしていないからな。
「じぃじの真似」
出し抜けに、周が、梅干を食べた様な顔をして、そう言ったので、栄は思わず笑ってしまった。思ったより似ていたのである。
―全く、何時も苦虫を噛み潰した様な顔をして。子供にくらい、微笑んであげても良いのにね。其れでも子供が懐くのだから、不思議と言えば不思議な人だけど。
子供って面白いな、と思い、栄は、微笑みながら双子を見た。
―そうだよな。母親を亡くしている、というだけで、俺も、此の子達に凄く親近感を持ってしまうのだもの。長と何かあっても、父上や顕彦さんが、此の双子を可愛がってしまうのが、分かってしまう。此の子達が、俺達に何かしたわけじゃない。…此れからも、此の子達には、長と、此の家の確執は隠さなければ。
「見事な百合だったねぇ。良い香りだって、先生、褒めていらしたよ」
栄の言葉に、周が、ニカッと笑った。
綜は、唇を真一文字に引き結んだ。笑いたいらしい、と栄は察した。
「栄さん、あれ、母上なの、綺麗でしょう」
周は、微笑んで、そう言った。
綜は黙って、周を見ていた。
炊事場から御盆を持ってやって来た初が、驚いた顔をして、言った。
「よく知っているわね。旧暦の七夕生まれの人だったせいか、其の頃咲く、あの花が大好きだったのよ。御香だって百合で」
「ううん」
母上なの、と、周は主張した。
初は、戸惑った顔をして、御盆を囲炉裏端に置くと、屈んで、周の顔を見た。
周は、語彙が、伝えたい内容に追い付かないらしく、違うの、と何度も言ったが、初は、意図を掴みかねて、困った顔をした。
大好きな初に上手く言葉を伝えられないのが悔しいのか、周が、泣きべそを掻き始めた。
綜が、見兼ねたらしく、口を開いた。
「ハナ子おばちゃん、今から俺が遣る事を内緒にして頂けますか」
「え?はい」
初は、そう言いながら頷いて、綜を見た。
「栄さんも」
「…はい」
栄も、綜に頷いて見せた。
初も栄も、囲炉裏端で、綜に向かって正座した。
周は、初の肩に、チョコンと手を置いて、初の傍らに立ち、綜をジッと見詰めているが、未だ泣いている。
「ハナ子おばちゃん、母上は百合が好きでしたか?」
「ええ、そうよ」
「周、百合だぞ」
周は、涙を拭って綜を見た。
綜はスラスラと呪文を暗唱した。
「葛、楮、藤蔓、天の蚕を敷き紡ぎ結い績み織り纏いて、強き子を増やせ。田は米、海は魚得て、禍去る。姿見えぬは山の神也、姿得て、田の神となる。山の神は海の神。火を噴く山はまた神也、龍神也。地震ふる山に霾晦、霾は稲なり、霾程実る、神の田よ。月の神は山の神也、山の神は田の神也。神の田を耕せ」
―あ、もう術が使えるのか。
栄は驚いた。
綜は続けて、和歌を諳んじた。
「さ百合花 ゆりも逢はむと 思へこそ 今のまさかも 愛しみすれ」
高度である。
万葉集の和歌を用い、百合の印象を、術を受ける者に強く喚起させる為の引き金にしているのだ。
綜の発案ではあるまい。
長から習ったのかもしれない、と栄は思ったが、習ったにしても、数えで八つの子供が遣る事とは信じられなかった。
周が、わぁ、っと、歓喜の声を出した。初が、嘘、嘘、と小さく呟きながら泣いている。
栄には術が効いていない。
多分、双子と初には、百合の花と、双子の母親が見えているのである。
―成程、『百合』が『母上』になる様な何かがあった、というのを、上手く言えなかった、という事なのかな。…まぁ、普通、此れを言語化出来ないよな。綜が賢過ぎるんだ。
其れくらいにしなさい、と栄は言った。
「其れは、綜が思っているより、体が疲れるんだ」
栄の言葉を契機に、綜が座り込んだ。術も切れたらしい。
栄は、綜を抱えた。
健気にも、綜は、大丈夫です、と言った。
分かった、と栄は言った。
「今日の事は誰にも言わないから。もう術が使えるんだね、綜は」
綜は、栄に向かって頷いた。
額に汗を掻いている。
周が、綜に寄ってきて、ビットリと抱き付いた。
「おにいちゃま」
「周。学校に入ったら、兄上、と呼ぶのであろう?」
綜が、大丈夫だ、と言う様に、そう言って、周を抱き締め返した。
周は、またベソをかいている。
綜は、こういう訳です、と、小さい声で言った。
「ハナ子おばちゃん、百合が母だ、と言うのは、こういう訳です」
大丈夫だよ、と栄は言った。
「其のうち体力がついて、平気になるから。体が小さい時には重かった鞄が、大きくなったら平気になるみたいに。今日は先ず、座って、おやつを食べようね」
栄の言葉に、双子は頷いた。
栄は初を見た。酷く戸惑っている様子だった。
ハナさん、と、栄は声を掛けた。
「後で、二人になった時に説明しますから。今日の事は秘密にしておいて頂けませんか?此の子は頑張ったんです」
初は、気を取り直した様子で、ええ、と言ってくれた。
「分かりました」
「其れと、何か、直ぐ、二人に飲む物を。あと、綜に少し多めに食べさせてやって頂けませんか?」
「はい」
初は、慌てて、おやつの用意を再開した。
栄は、懐から手拭いを出し、綜の額の汗を拭いてやった。
哀れにも、周が綜から離れない。栄は、自分の方が泣きそうになりながら、同じ手拭いで、周の涙も拭いてやった。
大丈夫だよ、と栄は言った。
「ハナ子おばちゃんは分かってくれたからね。おやつを食べたら、少し遊んでから、先生に、おやつを持って行こうね。泣きべそだと、何かあったって思われるから」
双子は、また揃って、はい、と言った。
おやつの後、周は、栄に借りた鉛筆で、囲炉裏端に寝そべって、初に貰った雑紙の裏に絵を描いていた。綜は、其れを、ジッと見ていた。
別々に遊ぶか、一緒に絵を描くか、何方かにしたら?と栄は思ったが、其の様子が、如何にも可愛らしかったので、どれどれ、と近寄って、周の絵を見た。
「え?」
―幾ら何でも上手過ぎない?
数えで八つでしょう?と、栄が問い質したくなるくらい、周の絵は上手かった。
雑紙に、短くなってきた鉛筆で、器用に描かれているのは、顕彦の顔だった。
何も知らないで見たら、絵の達者な十四、五くらいの生徒が描いたと思う筈である。しかも今、周は、顕彦の顔を見ないで此の絵を描いているのだ。
栄に気付くと、周は、屈託無く笑って、如何にも愛らしい様子で言った。
「先生にあげるの」
「あー、凄いね。先生、腰を抜かすと思うよ」
栄が、心から、そう言うと、周は、ニカッと笑った。
前歯が一本抜けている。此れから大人の歯が生えるのだ。
―うん、如何見ても、数えで八つだよね、やっぱり。
不思議だな、と思いながらも、栄は、其の無邪気な顔に微笑み返し、もう一度、周の絵を見た。
「凄く似てる」
栄は、思わず、もう一度周を褒めた。
えへへ、と周は言った。
「先生はねぇ、目が、とっても綺麗なんだよ。はなこばちゃんに似てるの」
未だ『ハナ子おばちゃん』と発音出来ない様子が、何とも微笑ましく、そう、と言って、栄は再び微笑んだ。
それでねぇ、と周は続けた。
「先生は髪の毛が真っ黒なんだ」
いいな、と周は言った。
綜は何も言わなかった。
髪?と栄は問うた。うん、と周は言った。
「赤くないでしょ」
其の言葉に、栄は胸を衝かれた。
「誰かに何か言われたの?」
栄の問いに、双子は返事をしない。
そうか、と栄は思った。
此の双子は、父に似た赤毛を気にしていたらしい。
しかし、周は、いいの、と言った。
「みんなとちがってもいいの。父上と、おにいちゃまと一緒だもん」
周の言葉に、綜は、今度は、兄上と呼べ、とは言わずに黙っていた。
如何してこうなるんだろう、と栄は辛くなった。
そうなのだ。
長の子なのに、里で、そう良い立場に居ない坂元家に頻繁に出入りしているという事は、捨て育しに近いのである。
里に友達は居るのだろうか、と、栄は心配になった。
長も忙しい。ずっと双子を構ってはいられまい。
仮にも、あの美貌の長の息子達である。
今も愛らしいが、父親に似ているのだから、長じれば、きっと素晴らしい容姿を持つ筈である。
綜は賢いし、周にしても、此の特技が有る。
其れなのに、此の愛らしい双子は、母親の不在を寂しがり、他人と違う容姿を気にして、まるで里に家族三人きり、という様に過ごしている。
其れは確かに、長が坂元家にした事を忘れてはいない栄であるが、如何しても、此の双子に肩入れしてしまう。
周は未だ、絵を描いている。綜は、黙って、其れを、ただ見詰めている。
絵を描くのは好き?と栄が問うと、周は、返事の代わりに、ニカッと笑った。
其の笑顔に、栄は少しホッとした。
稍あって、初が炊事場から戻ってきた。
初は、あらあら、と言いながら、ニコニコして周の絵を見に寄ってきて、そして、え?と言った。
捨て育し 放任育児、くらいの意味を持つ方言。




