実方顕彦 若衆小屋
「変な話をして悪かったね。でも顕彦さんが来てくれて良かった。長、楽しそうだったし」
「うん?」
聞き違いかな?と顕彦は思ったが、其の荻平の言葉に、三郎次も頷いていた。
「え?荻平さん。長、楽しそうだったかな?」
「俺は、そう思ったよ。弥五郎と居たところで、あんな、分析を交えた高尚な話は出来ないから」
荻兵の言葉に、三郎次も頷いた。
顕彦は、二人が婉曲に、弥五郎の頭が悪い、と言っている様な気がしたが、気付かぬ振りをして、言った。
「高尚だったけ?何処の家が金を持っているか、みたいな話だった様な?其れより…長、嬉しそうだった?俺には分からなかったけど」
「弥五郎が居ると殆ど女の話しかしないからさ。長は、あんまり、そういう話はしないし」
確かに、と顕彦は言った。
「…猥談も苦手そう。何と無く、上品っていうか…」
「…俺も付き合いが長いけど、猥談が平気な長なんていうのは、想像も出来ないね」
―一体何の話をすれば盛り上がるのか、と俺は思っていたけど、もしかして、取り巻きの弥五郎とも、其れ程話していても盛り上がっていないとか?…もしかして、聞き役で満足する性格とか?まさか、本当に?
顕彦は、俄かには信じ難い気持ちで、続く荻平の言葉を聞いた。
「長、顕彦さんの事を気に入っているのかもしれないよ。誰かを飲みに誘うなんて今まで無かったから」
「…気に入られる様な事をした心当たりが無いなぁ。怒らせたとばかり思っていた」
「顕彦さんって、長に気に入られようとしてないだろ?」
「あ、やっぱり分かるかな?怒らせたいわけじゃ無いけど、別に、敢えて喜ばせようとも思わない。そういうのは俺に向いていないから」
「美辞麗句より逆に信用出来るのかもしれないよ。御世辞を言う人は沢山居るから」
「まぁ…別に長を騙そうとも思わないけど」
「顕彦さんって、皆に同じ態度を取るよね。だから新鮮なのかも」
「新鮮?…周りに居ない様な奴って事かな?」
分からん、と思い、顕彦は首を傾げた。
―気に入られようとしないと気に入られる、って事かな?
「後は、俺が教員だから気を遣われているとか?」
「ああ、其れも有るかも」
里唯一の教員と里の長なので、如何しても仕事の話はしなければならない間柄である。
同僚では無いが、ある程度気を遣われている可能性は有る。
「顕彦さんみたいに頭の良い人の方が、南瓜頭の、あの弥五郎より、長と話が合うだろうし」
―何だろうなぁ、長と俺を持ち上げる為に、態々、此の場に居ない弥五郎さんが下げられている、っていう感じがして、ちょっと複雑だな。陰口じゃないけど。…そりゃ、弥五郎さんは単なる長の取り巻きかもしれないけど、長が、弥五郎さんと一緒に居るのが嫌じゃないから、自分の周りに侍らせているのかも、と俺は思っていたからさ。弥五郎さんと俺と、どっちが長と話が合う、とか、そういうのは、実は、友達だったら、関係無かったりするものだけどな。…いや、取り巻き、って、友達じゃないのかな。取り巻きには、こうして持ち上げられているわけだ。何時も長の周りに侍っている人間達は、長と対等の場所に立ってくれないわけだ。仮に、そうだとしたら、其れは孤独だ。…そんなに奉って、其れを、長が負担に思っていたら?気に入られようとしないと気に入られる、って話なら、荻平さんだって、もっと、長と対等に話をしてみようって思わないのかな。…思わないか。結局、こういう、下方限の人達の方が持っている被支配層意識、みたいな遜りも、状況の変革を邪魔している気がするけど。
荻平の言葉に、顕彦は溜息をついて言った。
「…いや、俺は、誰の頭が良いって話だったら、実は、長こそ頭が良かったと思っている。何時も、何でも一番だったじゃないか。特に、暗記が必要な科目は全然敵わなかった。長こそ、遣ろうと思えば何でも出来る資質を持っている人で、教師向きなのではないか、と」
一緒に教え処に通っていた時から、顕彦は、長の方が、自分より成績が良いと思っていた。
今も、子供に体術を教える時も丁寧で、実は自分より、他人に何かを教授するなら適任なのかもしれない、と思う事が有るのである。
其れを顕彦は、時折勿体無く感じるのだった。
「…長を褒めてくれるのは嬉しいけど、長に、長以外の仕事に就かれるのも困るし。長の学業の成績が悪くても外聞が悪いし。里としては、頭が良い長、というだけで構わないからさ」
荻平は、少し困った様に、そう言った。
其れもそうだね、と顕彦は言った。
―でも、何でも出来そうなのに、他の職業が選べない、って、どんな気持ちだろう。…もしも、自分が長だったら。もしも、長以外の、他の事を、長が遣りたいと思っていたら?長が、長以外の何かになりたいと思っていたら?…其れは、叶わない夢なのかな。奉られていても、結局、一番不自由を強いられている人間、という事にならないか?
顕彦は、長の言葉を思い出していた。
『其れは、持っている人間が、そう思うだけなのでは無いか?元々多くを持っている幸福な人間だから、手持ちのもので満足出来るのではないか?』
―もし、長が、自分を『持たざる者』だと思っているのだとしたら?俺は単に、運良く師範学校に行けただけで…。
そうだとしたら、顕彦は、自分が、なりたかった教員になれた、という事に、もっと心から感謝すべきだと感じた。
勉強とは、誠に贅沢な行為なのである。
学校かぁ、と荻平は言った。
「俺も、もっと通いたかったかも」
「荻平さん頭良かったよね。八次さんも。昔は、そんなに俺と成績が変わらなかった」
そういう意味では、荻平も勿体無い、と顕彦は思っている。
いやぁ、と荻平は言った。
「勉強するのは好きだったけど、自分の家の金銭の状況じゃ現実的ではないからなぁ。でも今の学校の前に、上方限の人達が私財で教え処を作ってくれただろう?あれには感謝している。昔は、そんな、学べる所も無かったのだぞ、って大人の人達に、よく言われた。贅沢だって」
「そっか…」
顕彦は、荻平の言葉を聞いて、切ない気持ちになったが、荻平は、当時を懐かしむ様な顔をして微笑んで、言った。
「あの頃は、操殿や、忠顕殿も教えてくれる事が有ったなぁ。今思うと、大人の人達がわざわざ時間を割いてくださっていた筈だ。有難い」
「ああ、そうだったね」
教員という存在が特別に居なかった頃は、各家の本家当主が教員役をしていてくれた時期も有ったのだった。
尤も、顕彦は、自分の父親に教わりたくなくて逃げ回っていたのだが。
其れでも成績は良かったものだから、忠顕からは、要領の良い奴だと言われたものである。
「習いたての頃、弥五郎が操殿に、如何して勉強するのかって質問していたなぁ」
「…弥五郎さん、言いそう。勉強させてもらえる、っていう事は特別で贅沢な事でも、里の男児全員となると、強制されている様に感じたり、優劣が付けられたりするから。其れを面白く思わない子とか、勉強は嫌いだ、とか言い出す子は出るよね。弥五郎さん、勉強、好きじゃなかったのかな」
顕彦の言葉に、そうそう、と言って荻平は笑った。
優しい笑顔だった。
顕彦は、荻平も、別段弥五郎を貶める意図で言っているのではない事を察した。荻平が続けた。
「あいつは、勉強が嫌い、とかいう段階を越していたよ」
「ん?」
顕彦が眼を瞬かせると、三郎次が、俺も他人の事は言えないけど、と前置きして、言った。
「六の方が九より大きい、って言って聞かなくて、足し算の計算を習って半年くらい其の儘だった」
三郎次に向かって、荻平が、な、と言った。
「操殿、困っていらしたよな」
「え?そんな事が有ったかな?」
同じ教室に居た筈の顕彦だったが、其の事についての記憶が全く無かった。
大体、顕彦は、既に俊顕に、字と足し算引き算、九九は習ってから教え処に行っていたので、当時は全く真面目に学習する気は無かった。
既に知っていて、出来る事に、然したる興味が無かったのである。
当時成績が良かったのは俊顕の御蔭だった、という事を、顕彦は思い出してしまった。
続く荻平の話は、なかなか興味深かった。
「弥五郎の名誉の為に言うと、数は数えられたよ、当時も。一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、って。ただ、六の方が九より大きい、って言うの。で、また、弥五郎が書く六の字が大きいの。拳くらいあるの。で、九は小さいの。ちと発想が違う、と言うか。もう、苦手とか嫌い、じゃなくて、思い込みが激しいの。理由は分からないけど、何か九が好きでなかったらしい。操殿が団栗か何か並べて、一生懸命教えていた」
「おお」
顕彦は、何となく、弥五郎の、其の発想の自由さは大切にしてあげたい気はしたが、足し算で躓かせるというのも気の毒な気がして、操の努力を尊敬した。
―教師役の努力は身につまされるものが有るなぁ。
「で、弥五郎がさ、如何して此れが出来ないといけないのかって言うわけ。操殿に」
荻平が楽しそうに、そう言う言葉に、顕彦は、荻平なりの、弥五郎への親愛の情を感じた。
恐らく、荻平達、長の取り巻きの四人は、本当に対等な、幼馴染の友達なのだろう。
「教員としては興味が有る話だねぇ。操殿は、何と?」
「騙されないように遣るのだぞ、って」
「成程」
「出来なくても死にはしないいが、字が読めなかったり、計算が出来なかったりすると騙される事が有る。変な証文に拇印を押させられるとか。一週間、七日働いたのに、五日分しか給金を貰えなくても気付かなかったら損をするぞ、って」
荻平が、操の話し方を真似て語る言葉が案外上手かったので、操の語ったとされる内容にも感心した顕彦だったが、荻平の多才さにも感心しつつ、へぇ、と言った。荻平は続けた。
「勉強せずとも構わんが、読み書きと計算だけは出来る様になりなさい、って」
「おお。其れで?」
「其れで弥五郎は六と九に対する拘りを無くして、何とか、読み書きと九九と、割り算までは出来る様になったよ」
「おお、良かった」
「だから、有難いよ。顕彦さん、里に学校作ってくれて有難う。上方限の人達が、私財で、そんな事をしてくれる事が、俺は嬉しい。疲れるだろうけど、先生、続けてくれな」
「…うん。そんな言ってもらえると報われるなぁ」
美しくない現実と戦う顕彦には、其の言葉は、何にも勝る褒美であった。
顕彦は微笑んだ。
「…あれ?三郎次さん?」
ふと見ると、三郎次が荻平の傍らで丸くなって眠っていた。
荻平が、あれ?と言って揺すったが、起きない。
「しまった。三郎次子供みたいに行き成り寝るからな。一度寝ると起きないし。…泊まるか」
荻平は、三郎次を少し囲炉裏端から離して寝かせ直した。
顕彦は、三郎次の傍に行き、藁筵を掛けてやった。
「顕彦さん、そろそろ夜回りが戻って来るよ。如何する?御開きにするかい?泊るかい?」
「酒の肴は?」
「空」
顕彦と荻平は三郎次を起こさぬ様に、小さな声で笑い合った。
酒の肴だけ食べた集まりは初めてである。
荻平が、御重を片付けてくれた。
「じゃ、帰るわ」
「うん」
荻平は、三郎次を指し示して、送って行けなくて悪いね、と、囁く様に言った。
「いや。可哀想だから起こさないでおいて。火の付いた囲炉裏端に一人で置いて行くのも気が引けるし。此れから夜回り当番が戻って来るのに、火が消えていても寒かろうし」
顕彦が、小さな声で、そう言って微笑むと、荻平も微笑んで、綺麗に風呂敷で包んだ御重を、そっと手渡してくれた。
顕彦は荻平に礼を言って、若衆小屋を辞した。
※南瓜頭 頭でっかちで脳味噌が足りない、というニュアンスの方言。




