実方顕彦 共同風呂
顕彦が木戸の音で目を覚ますと、荻平と三郎次が、御重の中身を抓みながら、若衆小屋の囲炉裏を囲んでいた。
顕彦は、上半身を起こして、辺りを見渡した。
小屋から、夜回り当番の男が一人出て行った音だったらしく、小屋には三人しか居なかった。
「お、起きたね、顕彦さん。先に頂いているよ」
荻平が、顕彦に声を掛けてきた。
三郎次も、口をモグモグと動かしながら、顕彦に右手を上げた。
「悪いね。もう夜?」
「そうそう」
「長は?」
「実は下方限で通夜が入って。常助さんの家の御婆さんが老衰で」
「成程」
長は気の毒にも、酒を飲む前に仕事で呼び出されたらしい。
「誘っておいて、済まないね。何か長に悪くて、酒ではなくて水を飲んでいた」
「ああ、構わないよ」
ノソッと起き上った顕彦は、自分の体に藁筵が掛けてある事に気付いた。
「あ、掛物。有難う」
「ああ、其の辺に置いといて」
荻平が、其の辺、と、顕彦の枕元を指で示したので、顕彦は藁筵を丁寧に巻いて、そっと其処に置いた。
下方限だと、此れを布団として使う家が多いのである。
急に来たというのに、持て成しとしては、かなり上級だと言えた。
―若衆小屋に来るの、久し振りだな。
里は火事を嫌う。
延焼したら里全焼の恐れも有るからだ。
だから喫煙は禁じられているし、若者が一人ずつ夜回りの当番をして、火の用心をするのである。
若衆小屋は、其の為の待機小屋なのだが、大体は若者が集まって飲む為に使われる掘立小屋で、下方限に幾つか在る。
慣習として、近くに住む下方限の御婆さんが、若衆小屋に居る夜回り当番の若者の食事の世話をしてくれる。
其処に、夜回りの若者の友人達等が集まって夜通し飲むのである。
夜回り当番自体は、数えで十六の春から参加する事になっているのだが、精々年二、三回、回ってくるか来ないか、というところなので、友達の少ない顕彦は、若衆小屋に来る事自体が久方振りなのである。
酒の肴の乾物と思われる匂いと、埃っぽい藁の臭いと、囲炉裏で薪が焼ける臭いがする。
別に顕彦は、若衆小屋が好きでも嫌いでも無いが、単純に、冬は寒そうだな、と思っている。
―あ、夜回りが出て行ったって事は三時間近く寝てしまったかも。
悪い事をしたな、と顕彦が思っていると、三郎次が、笑顔で話し掛けてきた。
「顕彦さん、四時間も寝ていたよ」
「え?」
道理で頭がスッキリしたわ、と顕彦が思っていると、荻平が心配そうに言った。
「顕彦さん、自分で思っているより疲れているのではないの?よく寝ていたけど。記憶が無いでしょう。一度、息をしているか確認してしまったわ」
「そうかも。全く起きないで寝ていた。…俺も水で。こんなに疲れていたら悪酔いしそう。ごめん、誘ってもらっておいて」
「いや、飲みに誘っておいて、水だしね、こっちも。ごめん」
顕彦と荻平は、そう言って笑い合った。
三郎次が、再びモグモグと酒の肴を食べてから、此れ有難う、と言った。
如何致しまして、と顕彦が言って、御重を見ると、未だ中身は殆ど食べられていなかった。
「今日の夜回り当番が居なくなるまで隠していたの。今開けた」
荻平の言葉に、顕彦は、成程、と言った。
酒好きの父親が居る御蔭で、酒の肴が常備されている家ではあるが、どの程度の量が御重の中に入っているか、顕彦は見ていない。
大勢で分ける程、酒の肴が有るか分からないので、吝嗇臭いかもしれないが、荻平の判断は賢明と言えた。
顕彦は、囲炉裏端の脇に避けられた、御重を包んできた風呂敷の傍に行き、座った。
左隣に荻平、更に荻平の左隣に三郎次が座っている。
荻平が、自分と三郎次の間に置いてあった御重を、自身の前に置き、三人で酒の肴が抓める様にしてくれた。
三郎次が言った。
「如何する?顕彦さん。食べるかい?それとも先、風呂?共同風呂だけど」
「ああ、風呂?良さそうだね」
眠気が勝って、全く腹が減っていないのである。
顕彦が、手拭いは有るしなぁ、と言うと、じゃあ行こう、と荻平が言った。
―夜回りが出て行った、という事は、そろそろ火を落とす家が出るからな。夜回りは、上方限から回って戻って来るから、行くなら今のうちかも。御言葉に甘えて、入らせてもらおう。でも、下方限の共同風呂は初めてだな。
里の外で経験済みなので、共同風呂には全く抵抗が無い顕彦だが、下方限の共同風呂は初めてだった。どんな場所か、単純に興味が湧いた。
提灯を持って、三人で共同風呂に行くと、もう顕彦達で最後だったので、風呂焚き当番の人に火を落としてもらって、湯が冷めないうちに、と時間勝負で、三人で代わる代わる入った。
雨避けの屋根が付いているが、ほぼ露天、と言っても良いくらいの造りである。
しかし顕彦は、風呂釜や湯屋に対しては、上方限の内風呂と、そう変わらない印象を受けた。
最後とあって、御湯は其処まで綺麗とは言えなかったが、誰かが、上がり湯用に、釜とは別に、大きな盥に湯を張っていてくれた。
其れ程不快では無いが、露天風呂で行水をしている様な、よく分からない感じがして、顕彦は、何時もの倍くらい忙しい風呂だ、と思った。
何ヶ所かに洋灯が置いてあるので、持って来た提灯は、蝋燭が勿体無いので灯を消してある。
薄暗い場所で、最後風呂の三人が、ボンヤリと橙色に照らされている。
男三人、身の丈どころか体格まで横並びで、親しみの持てる感じはする。
無論、とても妹達を連れて来られる様な上品な風呂ではないが、顕彦の様な、独り者の冷や飯食いには充分、という気もした。
―男湯に相応しい雑さ、と言うか。こう、急に来ても、風呂を貸してくれる様な、受け入れの間口が広い感じ、と言うかね。忙しないけど、其れ以外は、其処まで気にならないな。
もう一度、白張を着た顕彦が手鏡と櫛を使っていると、先に白張に着替えていた荻平が、手拭いで頭を拭きながら、話し掛けてきた。
「共同風呂、平気だったかい?」
「平気も何も。里の外じゃ風呂無しの宿も有るだろう。上等な風呂じゃないか」
荻平は、少し心配そうに、そう?と言った。
「そんなに御坊っちゃんだと思われているのかね」
顕彦は、そう言って笑ったが、家では若様だとか呼ばれているのを見られているのだから、無理も無い話では有った。
荻平は、少し含みの有る笑みを浮かべてから、櫛を使っているの?と言った。
顕彦は、不思議に思って聞き返した。
「荻平さんは使わないの?」
「あんまり」
「え?使わないで其れなの?」
顕彦の言葉に、荻平は、キョトンとした顔で、うん、と言った。
荻平の頭は、何だか何時もサラリと整っているので、如何手入れしているのかと思っていた顕彦だったが、まさかの手入れ無しの様である。
荻平が不思議そうに、なんで櫛を使っているの?と尋ねてきたので、顕彦は説明した。
「俺は使わないと変になるからさ。最初に前髪の形を作ってさ、其れから乾かしていかないと。髪が全部右側に跳ねるの」
多分顕彦は、旋毛から右回りに髪が生えているのだ。
生え方に癖が有るのだろう。
荻平は、よく分からない、と言った様子で、そうなの?と言った。
何か腹立つなぁ、と顕彦が思っていると、珍しく三郎次が、着替えながら、ジットリした視線を荻平に送っている事に気付いた。
羨ましいらしい。
顕彦は黙る事に決めた。
髪の話題は、やはり難しいのだ。
片付けや掃除は明日、掃除当番が遣るので、釜は其の儘で良いと言われた。
作業で湯冷めする者が出るから、と荻平が説明してくれた。
「残り湯も、畑やら洗濯やらに使っているの。だから、其の儘で」
「成程」
其の辺りの事情は、上方限の内風呂も、そう変わらないな、と顕彦は思った。
「有難う、風呂」
「うん、顕彦さん、疲れていたみたいだし、入りたいだろ、と思って」
「荻平さん、気の利く人だねぇ」
顕彦は、散髪の後は、切った髪が未だ体の何処かに付いている様な気がするから入りたいし、墨も落としたかったので、素直に荻平の気遣いに感謝した。
―今から家に戻っても、風呂の火が落としてあるだろうし、助かったなぁ。
今日は半ドンで、髪を切って、寝て、風呂にも入った、となると、顕彦は、かなりスッキリした気分になった。
そして、何となく空腹を覚えてきた。
自分は最近、本当に疲れていたらしい、と、顕彦は、しみじみと思った。
しかし荻平は、言い難そうに言った。
「いや、実は、少し事情が有って。此の時間になるまで風呂に誘わなかったの」
「え?」
顕彦が聞き返すと、荻平と三郎次は、若衆小屋に戻る道すがら、気不味そうに俯いた。
稍あって、荻平が口を開いた。
「男衆の共同風呂は、明治二四、五年くらいに出来たみたいなのだけど」
「へぇ。其れで?」
里では比較的新しい物だと顕彦は思う。
何なら、顕彦の家の風呂よりも新しいかもしれない。
顕彦が続きを促すと、荻平は、言い難そうに言った。
「其の頃は上方限の若け衆も、あの風呂に来ていたらしい」
「へぇ」
うちの父親くらいの世代かな、などと思いながら、顕彦は相槌を打った。
荻平は続けた。
「明治に出来たとなると、もう混浴、って頃でも無いし、女湯の方は、掘立小屋のの中に風呂が別に在るの。だけど、男湯は殆ど露天だろう。…えーとね」
「うん?」
「上方限の若け衆が来なくなった理由、っていうのが」
「うん」
「出歯亀と盗難…が理由みたいなの」
「え?」
顕彦は思わず懐の財布を確かめたが、有難い事に、盗られてはいなかった。
いや、と荻平は、もっと言い難そうに言った。
「財布では無くて」
「え?他に何が有るかな」
荻平は黙ってしまった。
三郎次がボソッと、手拭い、と言った。
「え?手拭い?」
「…そう。持ち主が体洗ったり、拭いたりした、手拭い」
荻平は、小さな声で、そう言った。
顕彦は、聞き違いかな、と思って、言った。
「え?何でよ?誰が、そんな事を」
「ねぇ?誰だったのかね…」
困った様に、そう言う荻平に、顕彦は更に尋ねた。
「え?あと…先刻、出歯亀とか言わなかったか?男風呂をわざわざ覗いている奴が居るの?」
「昔は…」
若衆小屋に戻ってから、酒の肴を突きつつ聞いた話を纏めると、こうである。
荻平の伝え聞いた話によると、上方限の、ある特定の若者達が、下方限の共同風呂に来ると、風呂の周りに人だかりが出来ていたらしい。
其れが、時間を選んで行っても、絶対に混むのだという。
そして、何時の間にか、置いておいた手拭いが、新品と交換されている、というのである。
気味が悪くなったらしく、其の若者達は風呂に来なくなり、次第に、上方限の他の若者も来なくなった、という。
「つまり…糺殿達が若け衆だった頃」
荻平は、言い淀みながらも、そう言った。
顕彦も理解してしまった。
「…そして、既に混浴という時代ではなくなっていた、と」
顕彦は、思わず、荻平に合わせて方言を使う事も忘れて、そう言った。
荻平は、うん、と言って肯定した。
つまり、見目好い若者達が風呂に入るのを見たい男や、其の若者達が使った手拭いが欲しい男が居た、という事である。
態々、混浴ではない、と前置きする、という事は、其の場には男性しか居なかった事を示しているのである。
荻平は言い難そうに続けた。
「そんな事、今まで思い出しもしなかったのに。今日、糺殿の息子を見て。あと、実方衆の子とか。理顕か?あれで十四?」
「うん」
「昔は糺殿も、ああいう感じだったのかな、って。…何か間違いが起きそうな感じの、綺麗な…」
「待って、待って、待って、待って。怖い、怖い、怖い、怖い」
顕彦は、荻平の言葉に激しく動揺した。
そう言えば、栄吉を見た荻平は『何か間違いが起きそうな感じ』と言っていたが、今にして思えば、栄吉の容姿の良さに対する心配や、警告の含まれた言葉だったのだろう。
―妹どころか、俺に弟が居ても連れて来られない様な風呂だって言うのかい?
顕彦は鳥肌が立った。
荻平が、怖いだろ、と言った。
顕彦は、うー、と呻いてから言った。
「待って、使った後の手拭いなんて盗って如何するの?」
「…俺にも分からないけど、分からない方が、まともかもしれないら、深く考えない事にしている」
顕彦は、急に知らない国に来てしまった様な気がして、身震いした。
他人の手拭いを欲しがる事自体が、顕彦には未知の感覚だった。
荻平は、取り成す様に、まぁ、と言った。
「其れを思い出したものだから。顕彦さんを誘うなら万が一の事を考えて最後風呂にしようかな、って、思って。まぁ昔の事だけど、万が一、ね。流石に誰も居ないだろ、って」
「…荻平さんって、凄く気の利く人だね…有難う」
顕彦は、心から荻平に感謝しながら、鳥肌の立った腕を掌で擦った。
「だから、共同風呂に行ったなんて知られると、顕彦さん、親御さんに叱られないかね、って」
「あ、其れで、下方限の風呂が平気だったかと聞いたのか。有難う」
「うん。長は絶対来ないし。まぁ…来なくて正解なのかもしれないし」
「…本当に難しい話題だね」
「そうだねぇ。ほら、俺達は慣れているし、他に風呂が無いけど。自分の家に内風呂が有るなら、普段は、そっちにした方が良いのではないかな」
「うん…」
顕彦は、内風呂が在る、という自分の環境と、其れを与えてくれる親に深く感謝した。
荻平は、更に言い難そうに続けた。
「女湯も糠袋とか盗まれていたみたいだけど」
「え…」
糠袋は、身体を洗う為に米糠を入れておく袋で、其れを、身体を擦って洗う道具にするのである。手拭いと同じ話であろう。
「だから女湯は、覗き対策も兼ねて女同士で交代に見張りしているの。でも男湯は、普段は、そんな事、別に無いから、見張りも、居なくて…えーっと」
「うーん。…何て言い様も無いね」
荻平が言い淀む気持ちが、顕彦には何となく察せられた。
其れでさ、と荻平は言った。
「糺殿は元々几帳面だったみたいだけど、其の件以降、物を使ったら定位置に戻さないと、気が済まなくなったらしいよ。無くなっているか、交換されているかもしれないから、って」
「うーん…」
以前から、糺が物を定位置に戻す癖の話は聞いていた顕彦だったが、結構重い理由が有ったらしい。
唸るしか無いわ、と思いながら、顕彦は言った。
「いや…出歯亀って言っても…。人だかりって。そんなに見たいのかな?」
「俺は、其の気持ちは分からないけど…実際、凄い美男子だったってさ」
顕彦は、何とも言えない気分になったが、取り敢えず、そう、とだけ言った。
過去の事例として記憶に留めるだけにして、理解や分析は保留にしよう、と思い、顕彦は、三郎次が湯呑に入れて出してくれた水を一口飲んだ。
硝子や内風呂同様、布団も高級品でした。
江戸の銭湯では、女性が糠袋を盗まれる、という被害があったらしいです。
郷中を調べると、結構、男性同士の性の問題が出てきます(真偽の程は定かではないですが)。
男性同士の話は、江戸時代までは結構出て来るので、不自然な事は無いのですが、郷中の場合、噓か誠か、朝鮮半島の花郎文化の影響を受けているという説を読んだ事も有ります。
曰く、美少年を神聖視して敬うとか、稚児の文化みたいなところに共通点が有るそうです。
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花郎 新羅時代、貴族の子弟からなる青年集団が奉戴した美少年。またそうした習俗。
6世紀の真興王代に美少年2人を粧飾して花郎とよび、それを中心に貴族の子弟を二分し、互いに対立して道義、歌舞、武技などを磨かせたのが始まりとされる戦士団であり、教育機関であり、弥勒信仰を奉ずる宗教的集会でもあり、新羅の発展に大きく寄与した。
しかし高麗時代以降は変質し、李朝時代には男覡、倡優などの呼称となった。




