プロローグ
昭和十年。
囲炉裏端の広間に義弟の坂元栄と二人で座っていると、端正な横顔が自然と目に付く。
此の義弟を見る度に、実方顕彦は、時の流れの恐ろしさを実感する。
自分より六つも下で、幼いと思っていた此の義弟は、今では二児の父で、身長も疾うに抜かれている。
「あの、映画の『有りがたうさん』っていう。あれに出てくるバスの運転手役だった、あの俳優。御前に似ているよな。よく言われないか?」
顕彦の言葉に、栄は苦笑いした。
よく言われるのであろう。
休日だと言うのに、青っぽい着流しを着た凛々しい姿には、見苦しい所は一つも無い。
栄の父、糺は、とんでもない男前なので、常々、大人になったら栄も、さぞ見栄えが良くなるであろうな、などと思っていた顕彦であったが、流石に此処まで良くなるとは予想していなかった。
俳優、というのも、特に冗談ではなく、実際栄は数年前、学友に、悪戯で、勝手に映画会社に写真を送られて、採用されてしまい、あわや就職か、という騒ぎになったのを、顕彦は知っている。
栄自身は特に、俳優を志す様な性格ではない。
何方かと言えば控え目な、目立つ事を好まない、真面目な人間なのに、全く隠れる事が出来ない容姿と身長に成長してしまっただけなのである。人目に付く職業に向いた容姿、というだけで、性格は、皮肉なくらい、全く違う。顕彦は、時に其れが気の毒でも有った。
「これ。止めんか」
何処からか、糺の声がした。
顕彦と栄が、声のする方に向かうと、下座敷の障子の前に、糺が、おかっぱ頭の孫娘と座っているのが見えた。
孫娘は顕彦の姪で、栄と、顕彦の妹の初との間に生まれた上の娘、成子である。
「ごえんなあい」
成子は、口の中に指を入れながら、ペコリと御辞儀をして謝った。
察するに、ごめんなさい、と言っているらしい。
「分かれば良い」
「あい」
成子は、可愛らしい返事をした。
ぷちゅん。
糺が目を逸らす度に、成子は口の中に入れて湿らせておいた指を、障子に刺して穴を開ける。
また糺が言った。
「これ。止めんか」
「ごめんなあい」
「分かれば良い」
「あい」
ぷちゅん。
成子が、また障子に、指で穴を開けた。
顕彦は、暫く、栄と一緒に、襖を開けて、其の様子を観察していたが、二人は、ずっと、其の遣り取りを続けていた。
糺が障子の穴を塞ごうと、紅葉の葉の様な形に切った障子紙を貼るのだが、此れが、驚く程下手くそである。
切るのも貼るのも下手で、如何して、あんなに器用に折り紙を折る人なのに、障子の修繕は、こんなに下手なのだろう、と、顕彦が不思議に思うくらいだった。
顕彦は栄に囁いた。
「なぁ、栄。あれさ、成ちゃんを障子の前から移動させないと、延々繰り返すぞ」
「ああ、多分そうだと思います。でも、父から成子を離す勇気が無くて」
「あー、其れは困難だな」
糺は、生まれた女の子の孫二人を猫可愛がりしているのだ。
栄は苦笑いして囁いた。
「あの遣り取りを父が楽しんでいる可能性が有るので、成子を障子の前から退かせと言われるまで静観してみようかな、と」
「ああ、成程ね」
糺は、苦み走った容貌に似合わず、かなりの子供好きなのである。
そして、生まれた孫二人の可愛がり様と言ったら無い。
孫は二人共、人形の様に愛らしい。
糺は、成子の事を、あれ以上は叱らないだろう、と顕彦は思った。
顕彦は、青竹色の着流しの袖を少し捲って、腕組みして、言った。
「困難だなぁ」
ええ、と言って、栄が同意した。
「本来なら、障子は破ってはいけない、と、躾なければならないところなのですが。どの辺で割って入るか、と最初は思っていたのですが、途中から、もう、どうせ全部貼り替えだから放っておいても良いかな、と思う様になって」
確かに、糺の修繕のせいで、障子が更にグズグズになっているのが、遠くからでも見えた。
「…うん、貼り替えだな」
「貼り替えですね」
其処に、次女の逸枝を抱いた初がやって来た。
地味な絣を着ているが、何時見ても若々しく、束髪の襟足は我が妹ながら美しい、と顕彦は思った。
「御二人で、何を御覧になっていらっしゃるの?」
小柄な初は、ヒョイ、と、栄と顕彦の隙間から、下座敷の様子を見て、まぁ、と言って、糺と成子の方に行った。
「成ちゃん!何をしているの?」
「あい」
「あい、じゃ、ありません!御義父様、申し訳ございません」
糺はボソッと、いや、なに、と言った。
急に初が来たせいか、気不味そうにしている。
やはり、成子との遣り取りを楽しんでいたのかもしれない、と顕彦は思った。
「良い事?成ちゃん。障子を破ってはいけません」
初は、逸枝を抱いた儘屈んで、成子に言い聞かせる様に言った後、此方を振り返った。
「御二人して、御覧になっていらしたのなら注意なさってくださいな。成ちゃんを障子の前に居させたら延々悪戯を続けますよ。止めてくださらないと」
初の言葉に、顕彦と栄は、素直に、ごめんなさい、と言った。
糺が成子を抱いて、栄に渡しに来た。
そして、初の所まで戻ると、逸枝を抱き取り、囲炉裏端に来て、家長の場所にドカリと座り込んだ。
初が、テキパキと、下座敷の障子紙や鋏を片付けている。
糺が、下座敷の方を見ない様にしているのが、顕彦にも分かった。
あの、成子との遣り取りを、糺が実は楽しんでいたらしい事は、今や明白だったが、糺本人は認める気が無さそうである。
初が中断させなければ、何時まで、あの遣り取りを続けたか、少し知りたい気持ちになった顕彦である。
顕彦も、囲炉裏端の下座に座って、逸枝に優しく声を掛けた。
「よう、逸ちゃん。気持ち良さそうだな」
逸枝は返事をせず、ダラリと力を抜いて糺に凭れ掛かりながら、顕彦に向かって微笑んだ。
孫娘二人は、糺に懐いている。
また、糺は、矢鱈と孫を構うのだ。
以前は糺が、歩き始めた成子の後ろに付いて回って、背中に手を当てながら歩き回っているのを、成子が暫く、其の糺の手を当てにして、態と後ろに倒れて糺に受け止めてもらう遊びをしていた程の構い様だった。
尤も、成子が其処で歩く練習を止めてしまい、顕彦にも同じ遊びを期待して、後ろにバタンと倒れて瘤を作って大泣きして、やっと発覚した事柄なのであるが。
糺と、何故か顕彦も一緒に、初に叱られた。
当時、歩かない子になったら如何するのです、という、至極尤もな意見を頂戴したので、よく覚えている。
逸枝は糺の膝でニコニコしていて、まるで退く気は無いらしい。
顕彦は感心した。
―こんな、とんでもない男前なのに、孫の椅子になっちまったのかぁ。
灰色の着流しを着た糺は、何事も無かったかの様に、澄ました顔で胡坐を掻いている。
顕彦は、微笑んで、逸枝を褒めた。
「逸ちゃん、今日も、おかっぱ頭が可愛いね。抱っこで御座りして御機嫌だね」
逸枝は、顕彦の言葉に、ニカッと笑った。
孫が褒められている時は何時も、無表情の糺が、何故か満足そうに見えるのが、顕彦には面白いのだった。
顕彦は、次に、自分の隣に座った栄の膝に座る成子の方を見た。
成子は、初そっくりの美しい双眸を此方に向け、顕彦をジッと見返してきた。
此れは叱り難い愛らしさだ、と思い、顕彦は微笑んで、言った。
「成ちゃん、もう障子破かないな?」
「あい」
成子は右手をビシッと挙げ、顕彦に返事をした。
「そうだな、成ちゃんは御利口だからな」
「あい」
あまりにも返事が良かったので、また破りそうだな、と思いながらも、顕彦は笑って、そうかい、と言った。
成子は、ビシッと挙げていた手を、またビシッと下ろした。
「成ちゃんは、良い挙手をするねぇ」
顕彦が成子を褒めると、成子もニカッと笑った。
此方も栄の膝から降りる気は無さそうである。
栄が、クスッと笑って言った。
「挙手まで褒めるなんて、甘やかしますねぇ」
「いや、学校で出来ないのは良くないからな。今のうちに出来る方が良い」
「其れはそうですが」
「何、自分が娘を甘やかさなかった様な事を言うじゃないか」
顕彦が笑って、そう言うと、栄も、少し気不味そうに笑った。
昨日、成子に御菓子を与え過ぎだと言って、栄は初に叱られていたのである。
男ばかりが続いて育った家に、女の子が二人も生まれて、甘やかすな、と言う方が難しい話なのだろう、と顕彦は思った。
『瀬原集落聞書』シリーズ、『山行かば』前日譚です。御付き合い頂けますと幸いです。