【読み切り熟女クエスト外伝①】オルガ(16)の秘密の物語
朝――。
外のざわめきで、オルガは自分が選ばれたということをすぐに悟った。
感覚が敏感になっている。
家の周りには人だかりができているのだろう。見なくても、気配で分かった。
目覚めたら、すぐに開けるはずの窓とカーテンはそのままに、オルガは身支度を整えた。
「お母さん。私が選ばれたみたい」
オルガは、まだベッドで寝ぼけている母親に声をかける。
「ええー……? なにがー……?」
「創造主様の巫女に」
「へっ?」
母はずいぶんと間の抜けた声を上げた。信じられなかったのだろう。自分のたった一人の家族が、創造主に仕える巫女になるということが。
「お母さん……ひとりぼっちになっちゃうね……ごめん……」
オルガのわずかに震える声で、母親もようやく事態が飲み込めた。冗談ではないということに。
「ああ、オルガ……! こんな光栄なことがあるもんか! アンタは私の自慢の娘だよ! 立派にお役目を務めるんだよ!」
泣きながら親子で抱き合った。
・・・・・
創造主が巫女を召喚するというお告げがあった。
巫女に選ばれた女性は、創造主より永遠の若さを賜わり、天上界で暮らせるのだという。
お告げを国中に広めたのは、まだ齢10歳足らずの聖女ローラだった。
『創造主に仕える巫女の素質をもつ女性の元に、白き羽根が舞い降りるであろう』
聖女ローラの予言通り、オルガの家の屋根には真っ白い羽根が降り積もっていた。
創造主が降らせたその珍しい羽根を、記念に持ち帰ろうとした者もたくさんいたが、不思議なことに人の手に触れると、その羽根は跡形もなく消え失せてしまうのであった。
「オルガ……」
恋人のキリルが仕事を終えて訪ねてきたのは、その日の夜遅くなってからだった。
キリルはオルガの姿を見て、目を見張った。
オルガの背中から、純白の翼が生えかけていたからだ。
「……すごく、きれいだ……。天使みたいに……」
きっと恋人からそのように褒められたら、嬉しいと思うのだろう。
だがオルガは、悲しげな顔でうなだれた。
「……屋根に積もった羽根が消えてきたと思ったら、私の背中に羽が生えてきたの。
……見て。私の指……だんだん透けてきているの……。きっと羽がすべて生えたら、私、消えちゃうんだわ……」
「オルガ……」
キリルはオルガに駆け寄り、強く抱きしめた。
「なんで……どうして君なんだ……! 他の誰だって良かったじゃないか……! どうして……! 創造主はなんて残酷なんだ……」
「ダメよキリル。創造主様のことを悪く言わないで。
これはとても光栄なことなの……。それに、創造主様は最後に一人だけ……大切な人の願いを叶えてくれるっておっしゃったわ。お母さんは、その願いはあなたに譲るって……」
キリルはすぐに願いを口にした。
「なら、巫女にならないでって願いは……!」
オルガは静かに首を横に振った。それは許されない願いだ。
「なら……せめて……1年に1回だけ……きみに会いたい……」
「……わかった……きっと、叶うと思うわ……」
その晩、オルガは母とキリルと朝までずっと語り合った。
オルガが朝日に溶けるように消えていく、その瞬間まで――。
・・・・・
巫女となったオルガの日々は忙しかった。
この先に起きる惨事への備えとして、異世界から救世主を迎える準備に追われていた。
この世界の仕組みに不慣れな救世主を補佐するため、異世界の知識を学ぶべく、日夜勉強に励んだ。
創造主の書物に書かれている、異世界に住む人々の営みはオルガを夢中にさせた。
同じように巫女として、召喚された仲間たちと交流を深めるのも楽しかった。
オルガは充実した毎日を過ごしていた。
そしてあっという間に1年が過ぎた。
オルガは創造主を祀るために建てられた神殿の前に立っていた。もちろんこの神殿に創造主はいない。あくまでも人のための象徴だ。
誰も自分の姿が見えないようだ。話しかけても、声も聞こえないらしい。
自分はもうこの世界の住人ではないということを痛感し、涙があふれた。
「オルガ……!」
懐かしい声。キリルがいた。
胸に飛び込みたかったのに、触れることはできなかった。駆け寄った自分の体は、そのままキリルをすり抜けたのだ。
ただ、姿は認識してもらえる。ただ、会話ができる。ただ、それだけだった。
「オルガ……きれいになったね。女神様みたいだ」
好きな人に褒めてもらえたのに嬉しくなかった。
会えた嬉しさよりも、触れられない悲しさの方が強かった。
言葉なんかいらないから、強く抱きしめて欲しかった。
その日はただただ悲しくて、オルガは涙が止まらずに、すぐに自分のあるべき世界へ逃げ帰ってしまった。
・・・・・
嫌なことから逃げるように、オルガは異世界の勉強に没頭した。
異世界の文化は素晴らしかった。
ある年齢に達すると、学問を学ぶ場所へと誰しもが通えるようになるというのは驚いた。
そこでは全員が等しく同じ教養と学問を学び、自分の能力に見合った将来を見つけ、成長していくという。
オルガの世界では、学び舎に通えるのは一握りの裕福層か、あとは家柄の良い家庭だけだ。
貧しい民は、貧しいまま。知識もなく、親と同じ道をたどるだけ。
羊飼いは羊飼いのまま。糸紡ぎは糸紡ぎのままだ。
未来に無限の可能性がある。異世界とはなんてすばらしいところなんだろう。
オルガの憧れは募った。
オルガの初仕事はすぐにきた。
創造主が転生させた救世主を、陰から支え、導く仕事だった。
さぞや教養のある立派な人に違いない。オルガは胸をときめかせて待った。
しかし実際はひどいものだった。
「は? チート使えないの? 最悪! 転生ハズレガチャかよ! 超やる気ねえんだけど!」
オルガは混乱した。
チート? それは不正行為の名称だ。チート能力というのは、すべてにおいて無敵になることを指すものだ。そんなものが存在するなら、いちいち異世界から救世主を召喚したりしない。自分たちでチートして解決するに決まっている。
だいたいなんなのだろう。
他人に対しての態度が悪すぎる。特に女性に対しての見下し方が、不快でしょうがない。
本当に立派な人間というのは、下の者に対しても、誠意のある対応をするものだ。例えるなら、創造主のように――。
口を開けば文句ばかり。努力もせず、物事が自分に都合の良い展開にならないことを嘆いてばかりいる。
これが救世主? ふざけないでほしい。こんな腐った性根の人間に、自分の世界など救ってもらいたくもない。
【わかりました。もう結構です。お元気で】
オルガは転生してきたばかりの救世主を、早々に見捨てた。
・・・・・
自分に課せられた仕事もうまくいかない。生来の気の強さが災いして、来る救世主とことごとく衝突した。そして見捨てた。
オルガが見捨てた元救世主は、質の悪い野盗に成り下がり、この世界の人々を苦しめるようになった。なまじ中途半端な悪知恵が働く分、この世界の野盗よりも質が悪かった。
――自分のせいだ……。
オルガは少しずつ、居場所を失っていった。
「オルガ! 良かった! 今年も会えたね!」
キリルと再会できる、約束の日――。
キリルの声を聞いて、顔が見れて、オルガは涙が止まらなくなった。
キリルは何も言わずオルガの隣に座り、泣き止むまで、ずっと黙ってそばにいてくれた。
「オルガ……仕事……大変なのかい?」
【私……向いてないの。みんなに迷惑かけてる……】
「それは僕だって同じだよ。最初からうまくできるやつなんていないさ」
【でも私のせいで……】
「失敗しない人なんていないよオルガ。
大事なのはそこで諦めるか、諦めないかだ。仕事に向いてないなんて考えるよりも、自分がどうやったら向き合えるのかを考える方が、きみらしいと思うよ」
【どうやって……向き合うか……?】
「そう。きみ、負けん気強いから。そうやってなんでもこなしてきてただろ?」
【そう……かな……?】
「そうだよ。僕が保証する。きみならできるよ」
キリルに笑いかけてもらえただけで、オルガは勇気があふれてくるのを感じた。
巫女の仲間に励まされても頑なだった心が、キリルの前でならほぐれていくのを感じた。
(やらなくては。今まで失敗してしまった分まで……。自分がやるべきことを、きちんと果たさなければ……)
「ありがとうキリル。なんか、目が覚めた気がする。ありがとう……本当に大好きよ」
触れることはできない。だからキスをするふりだけ。オルガは唇が触れる直前にキリルからそっと離れた。
感触も体温も感じることができないことは、とっくに分かっていた。
そして、そのことを思い知るたびに、自分の心が張り裂けるかのように痛み、苦しむことも――。
・・・・・
オルガは冷徹になった。感情を殺し、淡々と異世界から転生してくる救世主候補に対応した。
かつてオルガが見捨て、ならず者となった元救世主たちは、ローラの加護を受けた騎士、ガローランドが討伐していた。
オルガはもう救世主に期待はしていなかった。自分たちの世界に実害をもたらさなければ、救世主としての職務を果たさなくても放っておいた。そして、次の救世主へ乗り換えた。
オルガにとっては過去の救世主が仲間割れをしようが、使命から逃れ、細々と暮らそうが、どうでも良かった。
オルガにとっての問題はそんなことではなかった。
「ずっと……キリルがお母さんの世話をしてくれてたのね……」
母の葬儀が終わったと、キリルに教えてもらった。当然オルガは、大好きだった母の死に目には会えなかった。
オルガは自分に言いきかせた。
本来なら、年に1回、こうしてキリルに会えるだけでも奇跡なのに。これ以上、私は何を望むのか……。
他のみんなは巫女の務めにすべてを捧げているのに、私はまだこの世界に未練を残している。中途半端だ……。
「うん、まあね。僕の中ではもう勝手にオルガと結婚してるつもりだったから。僕のお母さんも同然だからね」
キリルの言葉に、オルガの胸が痛んだ。
「……キリル、結婚は……しないの?」
「……え?」
「このままじゃキリルはひとりぼっちになっちゃう。いい人は……いないの?」
キリルはこの先、どんどん老いていく。自分を置いて――。
キリルをこのまま自分に縛りつけてはいけない。そう思う気持ちの他に、自分がその現実と向き合いたくなくて、逃げようとしていることにも気づいていた。
「なに言ってるんだよオルガ。僕はきみが……!」
オルガはキリルの言葉をさえぎり叫んだ。
続きは聞きたくなかった。続きが聞きたいと思ってしまう自分も許せなかった。
「私じゃいつもそばにいられないじゃない!! 触れないじゃない!! そんな人じゃ奥さんになれないじゃない!! もう会わない!! あなたはもう私のことなんか忘れて!! もう私はここには来ない!!」
一方的に言い放つと、オルガは逃げるようにキリルの前から姿を消した。
・・・・・
転生してきた救世主たちを見ると、オルガは不可解でしょうがなかった。
どうして? どうして転生がそんなに嬉しいの?
元の世界でもっと生きたかったって思わないの?
この世界のどこがそんなにいいの?
今までの世界にあなたの大切な人はいなかったの?
家族は? 恋人は? 友人はいなかったの?
もう会えなくても悲しくないの?
どうして? どうして? この世界はあなたたちのいた世界より恵まれていないのに。あなたたちの世界の方が、ずっとずっと素晴らしいところなのに。
光の騎士の称号を持つガローランドが消息不明となった。
オルガの世界はますます救世主を必要とした。
異世界で死んだ若者を転生させるのは非効率だと判断した創造主は、転生ではなく一時転移の手段で、適正者をこの世界へ召喚する方法をとることにした。オルガたちはますます対応に追われることになった。
キリルとケンカ別れをした日から1年後。
オルガはそっといつもの場所で待っていた。
創造主の神殿――。柱の陰に隠れて。
キリルがこの場に来たら、もう来ないでと怒るつもりだった。
来なければそれで終わりだ。きっともうキリルがここに来ることはないだろう。
だがオルガの視線は、絶えずキリルの姿を探していた。
夕暮れになった。キリルは現れない。
これでよかったんだ。そう思う心とは裏腹に、涙が止まらなかった。
オルガは初めて、巫女に選ばれたことを呪った。なんの栄誉でもなかった。人としての当たり前の幸せを失ったことを思い知った。
神殿の敷地で、自分と同じくらいずっと、この場で不審な行動をしていた男がいた。その男へ、知り合いと思われる別の男が声をかけていた。
「お前どうしたんだよ。今日一日ずっとここにいるな!」
「ああ、仕事仲間の死に目に、頼まれごとされちまってさ。手紙を渡してほしい相手がいるから、この日この場所にいてくれってよ」
「うわー面倒だなあ! ……で、その人はまだ来てねえってのか?」
「ああ、オルガさんっていうたいそうなベッピンさんだって言われたんだけどよ、いねえだろ? そんな女……」
血の気が引いた。
オルガはその男の持っていた手紙を、駆け寄ってひったくった。
「おわ! 手紙が!」
「おいおい! 風もないのに飛んでいきやがったぞ!」
オルガは手紙を胸に抱いて走った。見たくなかった。でも見ないわけにはいかなかった。これは、キリルが自分に宛てた手紙だ。
オルガは震える手で手紙を読んだ。
キリルは仕事で事故に巻き込まれ、大怪我をしていた。その傷がもとで、病気になり、衰弱し、死の間際でこの手紙を書いたことが記されていた。
この手紙は、キリルの最期の言葉だった。
――きみ以外に奥さんにしたい女性はいないよ――
手紙にはそう書かれていた。
私はなんて過ちを犯してしまったんだろう。
大切な家族と別れもできず、自分と家族を愛してくれた人にまで、ひどい仕打ちをしてしまった。
もう、取り返しのつかない過ちを……。
いつまで泣いていたのだろう。
誰かの気配がした。
【……先輩。ここにいたんですね……。戻りましょう……?】
巫女の仲間が迎えに来てくれた。でもオルガはそこを動かなかった。
【もういい。もう嫌……。私は……ここに残る……】
【創造主様が大切なお話があるから、先輩を呼んできなさいって言われたんです】
【創造主様が……?】
そうだ。もう辞退しよう。巫女はもう自分にはできない。つらすぎる。愛する人が誰もいなくなったこの世界を、私は守りたいとはもう思えない。
このまま消えてしまいたかった。
オルガは、創造主の前で傅いた。直接対面するのは初めて巫女になった日以来だった。
畏れ多くて顔が上げられず、その姿を直接見たことは、まだ一度もなかった。
『オルガ、あなたにお願いがあるのです』
創造主の言葉をさえぎり、オルガは声を絞り出した。
【ご容赦ください。もう私には無理です……っ、もう私には……このお役目を果たす気力も……っ、何もありません】
『それは困りました……。あなたが欠けてしまうと、とても困ってしまいます。あなたが一番適任だと思ってお願いしたいことがあったのですが……』
オルガが黙ったままでいると、創造主は言葉を続けた。
『異世界では男女の差がなく、平等に同じ役割を果たす考え方があるのは知っていますね?』
【……はい。存じております】
あれだけ憧れた異世界の話も、今のオルガにとってはどうでもいいことだった。何も心に響かなかった。
『異世界の慣例に合わせ、ここでも取り入れてみようと思ったのです。新たな巫女候補の指導をあなたにお願いしたいのです。……さあ、あなたからも頼むと良いでしょう』
創造主の横に、もう一人の気配が現れた。
【……あの、一生懸命がんばるので、いろいろ教えてもらえませんか……? 先輩……】
聞き覚えのある声がして、オルガの息が止まった。
女性しかいないはずのこの場所で、いないはずの男の声がする。
嘘だ。そんなはずがない。
おそるおそる顔を上げた。
そこには、自分が望んでやまなかった優しい笑顔がある。
【――キリル!!】
オルガは夢中で駆け出した。キリルの体めがけ、ぶつかるように飛びついた。
キリルはしっかりとオルガのことを受け止めた。そして強く抱きしめた。
【オルガ……先輩。ふつつかな後輩だけど、末永くよろしくお願いしてもいいかな?】
キリルの腕の中で、オルガは幸せがこみ上げてくるのを感じていた。
何か言わなくてはと思うのに、苦しすぎて言葉が何も出なかった。
このまま死んでしまうのではと思うくらいに、今までで一番、胸が苦しかった。
・・・・・
【ああオルガ、ここにいたんだね。……何を作ってるんだい?】
キリルが声をかけた時、オルガは厨房で難しい顔をしながら、何かの料理を作っていた。
【アッシュさまが教えてくれた、クレープという異世界のお菓子を作ってるの。なんでも異世界の若い男女が好んで食べてたものらしいわ】
キリルは面白くなさそうに、目を細めた。
【……ふーん……、アッシュさま、ね……。
オルガさ……、あの最速討伐の称号持ちの勇者が来てから、なんかさ……楽しそうじゃない……? なに? そいつ、かっこいいの……?】
オルガはキリルがわかりやすくヤキモチを妬いているのが面白くて、思わず吹き出した。
【違うわよキリル。アッシュさまは、こっちの世界では男性の姿だけど、もともとの異世界では女性の方よ。だから心配しなくていいったら!】
そこでオルガは、思い出したように笑った。
【……すごいのよ。女性のはずなのに、この世界の男性の誰よりも男らしいの。ううん、男らしいっていうより、なんていうのかな……ガラが悪い?】
聞き慣れない単語に、キリルは少しだけ考え込んだ。
【ガラが悪い……っていうのは粗暴っていう意味だっけ?】
粗暴という表現がツボにはまったのか、オリガは吹き出した。
【そう! そうなの! 粗暴なの! すごいんだから! ゴーレムをパンチで粉々にしてたのよ!】
【……え? ちょっと待って。それって何か魔道技師が作ったグローブ的なものをさ……】
【ううん! 素手なの!】
【……大丈夫なのかい? その人、人に化けたモンスターじゃないの……?】
【大変! どうしましょう! そうしたらきっとアッシュさまは世界を征服してしまうわ!】
オルガは笑いすぎて、涙目になっている。
【きみがそうやって笑っていられる人なら、きっといい人なんだろうね。そのアッシュって人は……】
【そうね……。なんだか憎めない人ね。
あ、そうだわキリル。異世界の言葉で、どうしてもこちらの言葉に訳せないものがあるの。もし分かったら教えてくれない?】
【うん。もちろんさ。どんな言葉?】
【えっと、たしか……ニケツデチャリ……】
オルガはほんのり頬を染めながら答えた。
【なんかの呪文みたいだね……ってなんで顔が赤いの?】
【え? そんなことないよ! 笑いすぎただけ!】
オルガはあわててごまかした。
アッシュの言い方では、どうも『ニケツデチャリ』というのは、異世界の恋人同士がする行為のことらしい。
もし分かったら、キリルと二人で体験してみたいなんてことは、まだ秘密にしておきたかった。
もし恥ずかしい行為だったらと思うと、まだキリルにバレるわけにはいかない。ふしだらな女だと思われたら困る。
【でも、その人、粗暴な人なんだろ? きっとそういう人種の人が好んで使うスラングっていう言葉なのかも。正規の言葉の使い方じゃないのかもね。一応、調べておくよ】
スラングの意味をキリルから教えてもらったオルガは、笑い転げた。
息も絶え絶えに大笑いしたオルガは、目からこぼれた涙をぬぐうと、キリルの肩に自分の頭を預けた。
【あーもう、笑いすぎて苦しいわ……】
キリルが自分の髪を梳いてくれる優しい感触を感じながら、オルガは静かに目を閉じた。
とても、幸せだった。
・・・・・
某ファミレスにて。
「でえっくし! でっくし!」
真佐江は大きなくしゃみを2連発した。
「うわー。ママのくしゃみ、超おっさんじゃん」
娘の美緒が心底嫌そうな顔をする。
「うるさい。おっさん言わないで。美緒の胡椒がこっちに飛んできたの! ほんっといっつもかけすぎじゃない?」
真佐江は、表面が黒ずんでいくカルボナーラを、未知の生物を見るような目で眺めている。
「胡椒にはダイエット効果があるんですー!」
美緒は、まったく気にしたふうもなく、その上から今度は粉チーズを豪雪のごとく降らせていく。
「でえっくし! ……っくし!
ヤダなあ、風邪かも。イライラする……」
「ゾクゾクじゃなくてイライラ……? ママ、ウケる。
ママは絶対風邪ひかないもんね。くしゃみ2回だから悪口だよ絶対!」
美緒の言葉で、真佐江の脳裏には職場の同僚の顔が浮かんだ。
(くそ、有休とったからか? 普段お前らのやらかした仕事をタダ働きの残業で始末してやってんだよこっちは! 有休ぐらい使わせろっての!)
真佐江は怒りを、目の前のハンバーグにぶつけた。
鋭利なフォークによって、哀れな串刺しになったハンバーグは、中から肉汁を滴らせ、真佐江に捕食された。
「ねえ、ママ。このあとどうする? 映画でも行く?
私、恋愛もの観たいんだけどー」
「えー? ママはアクションがいいなあ。うんと派手なやつ」
「えー? じゃあ映画はパパと行く〜。今日は映画なし!」
「えー? いいじゃんアクション! 観ようよ〜!」
母と娘は、食後のパフェを選びながら、午後の予定の打ち合わせを始めたのであった。