08 面倒臭い人
初めて歩いての出社。四十分以上歩いたところで、遠目にミラー商会が見えてきた。それだけで何だか安堵してしまった。
時間はもう八時過ぎ。あまり体力がないので既に疲労困憊でパンプスだから足も痛い。これから仕事が始まると思うと帰りたくなってくる。
「おはようございます……」
事務所に入ると、いつも三番目に来るグレンがもう来ていた。
外に自転車があるのを見て、もう来ているのだと思っていたらしい。四十五分歩いて良い運動になったと、少し強がりを言った。
昨日あったことをグレンに話しながら自分のデスクへ向かっていると、パンツのポケットに入れていた魔法通信器が鳴った。リアムだ。
『モナちゃーん! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……』
寝起きなのか、掠れた声で謝り続けるリアムがまだベッドの中にいるのが想像できた。
『もう事務所着いたから、送迎はしなくて大丈夫だよ。それじゃ』
『待って待ってー! 今日ランチご馳走するから是非来て~お願い!』
『皆と相談して決めるね』
通信を切って小さく息を吐き、自分の席に着くとキャメルの鞄を置いた。
「会長、おはようございます」
ミラー会長は自分のデスクで、昨日モナが作成して渡しておいた書類をチェックしていた。自分の書類を目の前でチェックされているのを見ると僅かながらも緊張する。
「おはよう。もしかして今のリアムから?」
「え、はい」
何故わかったのだろう。ミラー会長の勘が良いことに驚いた。
「昨日自転車を置いてリアムに家まで送ってもらったのか。アイツいい加減だからな……」
「はい。もう今朝、十分身に染みてわかりましたのでご心配には及びません」
ミラー会長はリアムの性格もよく知っているようだ。リアムが今朝迎えに来なかったことまで見透かしているらしく、ミラー会長は笑うのを堪えて書類を見ている。
勘の良い人を少し嫌いになった。
休憩室のカフェスペースでコーヒーを淹れているグレンのところへ行き、自分もカップを用意する。事務所内でコーヒーを飲むのは六人なので最近は人数分を最初に作ってある。
グレンのブレンドが個人的には気に入っていて酸味が少なくて飲みやすい。ブレンドの配合を教えてもらったので、次は自分でコーヒーを淹れてみたい。
この配合が好きだと伝えると、グレンははにかんだ笑顔を見せた。彼の中でもこのブレンドは黄金比率らしく自信があるらしい。
グレンはモナの腕に視線を移し、怪我した腕のことを心配していた。打ち身は痛いが動かさなければ問題ないと伝えたら少し安堵したようだ。
「魔法で治せればいいのにな……。そう言えば今日はスーツじゃないから雰囲気違うね」
「戦闘服が減ったから週末までこれでローテーションしなきゃいけないんだよね」
「ハハ、いつものは戦闘服なんだ。今のも十分いいと思うよ、似合ってるし」
私服がお洒落なグレンからすれば、ダサスーツのモナは変わって見えるのかもしれない。彼はいつも良い所を見つけて褒めてくれるから、そういう気遣いを普段からしている人のようだ。自分なんかに気を遣って……と少し気の毒になった。
「昨日はリアムの自転車に乗ったみたいだけど、後ろに乗るのは危ないんじゃない? 一度モナにぶつかってる人なんだから特に……」
本当にグレンの言う通りだ。自分でもよく後ろに乗る勇気があったなと、今なら思える。
「うん、もう乗ることはないと思う。スピード狂だったんだよあの人っ。昨日怖くて半泣きで帰ったしリアムは急に抱きしめてくるし距離感おかしいし……」
「え……!?」
「なんかスキンシップの距離が近すぎというか」
昨日のことを思い出しながら話していたせいか、言ってることが支離滅裂だ。気が付くとグレンが難しそうな表情でこちらを見ていた。
「リアムってそんなに軽いの?」
「うん、結構……」
「う~ん……。モナが彼に好意を持ってないんだったら、あまり隙きは見せない方がいいと思うよ」
「そうだよね……。うん、気をつける」
普通にしてたつもりだけど隙きがあるのか。リアムが油断ならないとわかったし、これからは気をつければ大丈夫……だと思う。
ランチは結局、ヴィエーナには行かず近場で済ませた。昼食の直ぐ後に来客の予定がある為、時間もなかったのだ。
応接室で客人にコーヒーを出していると、魔法通信器に連絡が入った。またリアムだ。直ぐに応接室を退室して、休憩室で応対する。
『モナちゃ~ん、なんでランチ来てくれなかったの!? 待ってたのに来てくれないなんて寂しいじゃん〜! 今日のランチは凄くおすすめのやつだったのに。あ、それじゃ明日は一緒にランチしよっ』
猫なで声と言うのだろうか。よく知りもしない男性が出す声ではないと思うが、リアムは甘えるような声で話す。
『あの、来客とかで忙しいからね。仕事中だからもう――』
『そういえば、スーツの替えを買いに行くでしょ? 俺連れてってあげるから週末空けといてよ!』
『それは友達と行くから来なくてい――』
『そうなんだ! じゃあ一緒に待ち合わせしようよ!』
『しません』
言葉尻に会話を重ねてくるリアムに少し苛ついて通信を切った。会話のペースが合わないせいだろうか、その場のノリや強引なところもあって、モナはリアムのことを少し面倒臭い人だと感じた。
仕事の方はサイモンから少しずつ引き継いでいた。
ミラー会長が大抵のことは自分でしてしまい、基本的なスケジュール管理と来客対応くらいしか依頼してこなかったりするので、それ以外は総務の仕事をしている。まだ入ったばかりだから今後増えていくのかもしれないけれど。
帰宅して早速、友人のアメリアに連絡すると自宅へ寄ってくれた。あれから頻繁に連絡してくるリアムのことを相談したかったのだ。
「腕の方は大丈夫なの? 見せて」
「今こんな感じだね」
診療所で貼ってもらった半透明のシートの下は、まだジュクジュクして見える。乾燥させてはいけないので一週間貼りっぱなしだ。
魔法があってもこんな傷すら治せるレベルではない。
昔はもっと魔法が優れていたらしく、こんな傷なんて簡単に治せたそうだ。大昔には魔女が沢山いたらしいがもう絶滅してしまったのだとアメリアは言う。
どこかの文献に載ってるのか司書のアメリアなら知っているのだろうか。そう尋ねてみたがただの噂レベルらしい。
首都ソーンの北西に迷いの森と呼ばれる大きな森『アルティエ』がある。そこに昔魔女が住んでいたという噂は有名だ。
今はもういないようだけど、その名残なのか森に入ると迷って出られない呪いが残っているという。立入禁止されているから真実はわからないけれど。
「で、リアム君はどうなの?」
ウサギの縫いぐるみに顔を埋めていたモナは顔を上げる。
「どうって?」
「いい男なの?」
「うーん、普通の男の人だと思うけどリアの好みかどうか。チャラくていいなら紹介しようか? 週末一緒に買い物に行きたいとか言ってたけど」
「チャラ男は御免だわ。アタシは複数のデート相手がいる人も遠慮したいしね」
この国にはデーティング文化がある。お互いを知る為にデートを重ねて本気で付き合うかどうかを決める為の期間だ。
身体の相性を確認するカップルもいるし、まだ恋人になった訳ではないので複数の相手と関係を持っても問題にはならない。でもそれを利用して遊ぶだけの人がいるのも現実だ。
アメリアが学生時代に追いかけ回していたイケメンの一人が、デーティングを利用して遊ぶだけの後者だった。
モナも何度かデートして深い関係になったことはあるが、そう長くは続かなかった。
恋愛の何たるかは未だによくわからない。ちょっとした興味や好意があって仲良くなって、そこから色々発展していくのかもしれない。だけど今までの相手とはそれがなく、ときめいたりもせず、結局わからないまま大人になった。
リアムの連絡が頻繁にあることは、ひとまず無視しろとアメリアに言われてその通りにすることにした。
事故のせいとはいえ、簡単に連絡先を教えてしまったことを後悔することになるとは……。
そして週末の第七曜日、朝九時にモナの家に集合し、一緒に市場の方へ向かうことになった――第七曜日は現代でいう土曜日――。
「二人共~! ご飯できたけど、リアちゃんは食べてく?」
ドアのノック音と共に扉が開き、モナの母が声をかける。
「はい! 頂きます! モナママありがとう~」
「ママ、今日何?」
「今日は赤羊の香草ローストでーす」
モナもアメリアも大好きな料理で、二人はそれだけで小躍りした。
【曜日解説】
この世界の曜日は数字で表します。
第一曜日(日)、第二曜日(月)、第三曜日(火)、第四曜日(水)、第五曜日(木)、第六曜日(金)、第七曜日(土)。