12 偶然か故意か
雲一つない、青が深い空。
柔らかい日差しがいつもの道を眩しく照らしている。
モナはいつもの自転車のルートを通り、いつもの時間に事務所へ向かっていた。
まだ気温はそれほど高くはなく、自転車で走るのに気持ちの良い気温だった。その内ジャケットを着るのも暑くなってくるだろう。
開けた道を走っていた時、正面から突然何かが飛んできて避けきれずにぶつかった。
さほど痛みはなかったが頭からぐっしょり濡れている。水の塊だったようだ。
急ブレーキで自転車を停めて、どこから水が飛んできたのか確認したが周りに大きな建物や植木などもない。
「どこから水が……!?」
バケツの水をかぶったくらいの濡れ方でジャケットも濡れてしまっていたが、辛うじて中のシャツは少し濡れた程度だった。
訳がわからず、濡れたまま事務所に向かった。
事務所に着いて直ぐに濡れて僅かに重くなったジャケットを脱ぎ、タオルで頭を拭く。暖かい季節とはいえ、放置していたら風邪を引いてしまう。
「何だ、その濡れ方。雨でも降った?」
休憩室から出てきたミラー会長が驚いた様子だったので先ほどのことを話した。
「ほんと、意味がわかりません。外は雲ひとつない快晴ですよ」
「周りに誰もいなかったの?」
「通勤、通学らしい人はちらほらいましたよ。事故か故意かは全くわからないですね……」
本当に朝から災難だ。ジャケットも乾かさなくてはならない。モナの魔法量ではすぐに乾かず、何度もかけ直す必要があった。
シャツの袖を捲くって湿った髪を魔法で乾かしていると、ミラー会長がモナの左腕を凝視している。
「忘れてたけど左肘の傷痕、残ってるな」
リアムの自転車と接触した時の怪我のことだ。あれからもう随分経っていた。
「ああ……三センチくらい赤く残りましたね。すっかり忘れてました」
「消すからこっちに腕向けて」
「……消す?」
診療所の治療術士に頼むには高いので放っておいたのだが、それを消すなんてどうするつもりだろう。
疑問に思いながら言われた通りミラー会長の方に腕を向けると、手が触れないギリギリの所で二本指を翳した。
何をするのか様子を見ていると、傷痕が熱くなりチクチクした痛みを感じ始める。
「熱っ! これ何ですか!?」
「ちょっとだけ我慢」
時間にしてほんの数秒だっただろうか。ミラー会長の手が離れると傷痕があった部分が消え、消えた部分の皮膚が少し陥没していた。
「そこの皮膚が再生したら完治ね。痛かったら保護シート貼っといて」
そう言ってミラー会長は自分のデスクの方へ向かう。
「あの、この治療技術って、治療術士にならないと出来ないものじゃないです!?」
「魔法ってのは使う人間のセンスが一番重要なんだよ。若い時は怪我なんてしょっちゅうしてたから、そういうの色々思い付くんだ。まあこのことは皆には黙っといて」
ミラー会長は何事もなかったように、積まれた書類を手に取っている。
治療技術まで持っているなんて本当に魔法に精通しているのだ。消えた傷跡を見つめながら、改めて彼の優れた能力に感服した。
その後、グレンが出社してくるとジャケットを乾かすモナの違和感に気付いたようで、何があったのか聞かれて彼にも同じ話をした。
「それ嫌がらせでしょ」
グレンははっきりと明言する。
「でも周りにそんな人見つけられなかったし、まだわからないよ」
「普通に考えてあり得ないでしょ。何もないところから水が降ってくるって。モナをわざと狙ったのか、無差別の悪戯なのか何なんだろうね。犯人って事務所と関係あるのかな……?」
「グレン、まだ何もわからないのに軽々しく口にするなよ? 口は災いの元だぞ」
人為的だと指摘するグレンの言葉にミラー会長が忠告した。
確かに彼の考えは一番可能性が高いかもしれないけれど、偶然自分に当たってしまったという事故の線もゼロではなかった。
「……はい、すみません」
尊敬しているミラー会長に言われると堪えるようで、シュンとしてしまうグレン。
本人には言えないけれど、シュンとした表情のグレンがちょっと可愛く見えてしまった。
だが偶然だろうと思っていたことが、故意の嫌がらせだと気付くのにそう時間はかからなかった。
午後の魔法便局へのお使いで外出した時、突然足元に現れた泥水を浴びてパンツの裾とパンプスが汚れてしまった。パンプスの中までヌルリと泥の感触がし、全身不快感に包まれた。
「うわ、気持ち悪……」
この辺りはタイル舗装された道だ。土も水もなく泥が出来る場所などどこにもない。突然現れた泥水は明らかにおかしかった。
故意にやられたと感じ、周りを探すが人通りが多くて探すのは困難だった。
本当に自分を狙った嫌がらせかもしれないと感じ始めるモナ。
朝も今の時間もモナが一人で外にいることを知らなければこんなことは出来ないだろう。ずっとどこからか見ているのかもしれない。
こんな時に魔法が得意ならば相手を見つける方法があるのかもしれない。
自分にそんなセンスも知恵もないことを悔しく感じる。それに何故自分が狙われたのかもわからないのだ。
「――ただ今戻りました」
帰社する前に、足の汚れは魔法である程度落とせた。ただ、パンツの裾は染み付いてしまって取れず、一目で泥んこだとわかる具合だった。
ポストに入っていた封書を持ってデスクに戻ると、ミラー会長が訝しげに汚れたパンツの裾を見る。
「その裾のとこどうした?」
「それが、やっぱり意図的な嫌がらせのようで――」
詳しく説明すると、サイモンやマルセルも頭を悩ませる。明確な証拠になるものがないからだ。魔法を使用した犯罪は目撃証言が重要視される。ミラー会長でも良い対策はまだないようだった。
マルセルも心配そうな表情で、泥まみれになったパンツの裾に視線を落とす。
「モナが外出する時は誰か同行するようにした方がいいですね。一緒にいれば何も起こらないかもしれませんし」
「そうだねえ。魔法便局は僕が行くからしばらく様子見しようか。僕も泥まみれになったら、この商会に恨みを持つ人物ということになるしねえ」
サイモンは明るく笑いながらそう言ってくれる。でもサイモンまで被害に遭うことになったらと思うと気が引けてしまう。
すると開発室からグレンが顔を覗かせていた。モナを囲んで集まっている様子から気になって出てきたようだ。
「――やっぱり嫌がらせじゃん! モナ腹立たないの!?」
グレンにも先ほどのことを話すと、普段見せたことのない不機嫌な様子に少し驚いた。
「何でグレンが怒ってるの?」
「友達が嫌がらせされてたら腹立つだろ」
友達。同僚じゃなくて。
彼は人懐っこくて誰とでも仲良くなれる人らしく、先日も営業の二人と親しそうに話しているのを見かけた。そんな彼に友達と言ってもらえたのは嬉しいことだった。
「私……別に怒ってない訳じゃないよ。不快だし苛々するけど、怒る相手がわからないからぶつけようもないだけで……」
その言葉を聞いて、グレンは申し訳なさそうな顔をする。
「……一番嫌な思いしてるのはモナなのに、俺が不満をぶつけるのもおかしいよな。ごめん」
「グレンしばらく一緒に帰ってやった方がいんでない?」
ホークの提案で、しばらくはグレンと一緒に帰ることになった。
その後、現段階での被害内容を治安隊の方に申告しておいた。
終業後、グレンと事務所を出て自転車を押しながら帰路に就く。
グレンが防音魔法をかけてくれて、その中で色々話しつつ周囲を気にしながら歩いた。
自転車を押すモナの歩く速度に合わせ、時折馬車が近くを走るとグレンがそちら側を歩き、モナを端の方へ歩かせる。こんな紳士対応をされたことは今まで経験がなく、モナはひたすら感心した。
「グレン、紳士対応過ぎる……!」
「ん……? 俺なんかした?」
グレンは何のことかわからないのか不思議そうな顔をする。無意識にやっているのか恍けているのか、いずれにしてもグレンが女性の扱いに慣れているということは何となくわかる。
「今も見られてるかもしれないね」
グレンの言葉でモナは視線を周りに向ける。航海薄明の時間帯。石畳の道に一定間隔で設置されている精霊結晶の街灯が明るく照らす所以外は薄暗く、路地の奥の様子はあまりわからない。左目で見える範囲を拡大して見渡しても、こちらの様子を窺うような人物は見当たらない。
いるかもわからない人物に見られているかもしれないと考えるだけで不快に感じた。
するとグレンはバッグから何かを取り出した。瓶の中に粉末が入っている。製品の装飾等で使ってる精霊結晶を粉にした物らしい。僅かな光にも反応し、キラキラと控えめに輝いている。
グレンは一見わからないように足元に粉を撒くと、魔法で一気に飛散させた。この辺り一帯に散らばり、今この付近にいる者の靴だけに付着すると言う。
モナは自分の靴を確認してみたが、何も付いていない。
「俺らには避けて撒いたから付いてないよ。これが付着したらしばらく取れないようにちょっと細工したから、光って見えるようになる」
「なるほど……。それを付着させた人が明日以降も近づいてきたら、嫌がらせ犯の可能性が高いってことだね」
「うん、靴を変えられると厄介だけど繰り返せば特定出来そうだね。色付きの粉末も作ってみようかな」
フッと笑みを漏らすグレンは、悪戯を思いついた子供のように琥珀色の瞳を輝かせていた。
精霊結晶は精霊石と違ってただ光るだけの物。街の至る所で照明として使われている天然の結晶だ。
これで何かわかるといいのだけれど。
【変更箇所】
・タイトル変更
・パンツの裾が泥だらけになったことに勘の良い会長が気付かないという点に違和感があり、少し状況を変更しました。




