01 意地悪な会長
今日は雲一つない快晴だ。
モナ・ペトロネアは晴々とした気持ちで目覚め、さっさと身支度をする。
魔法道具を出しているミラー商会の初出勤の日だ。ずっと憧れていたミラー会長の秘書として働くことになっている。
今日のために用意したのは光沢のある濃紺色のパンツスーツで、男性の多い職場だから体のラインが出ない物を選んだ。
髪は栗色の前下がりショートボブで、長い前髪を左に流して耳にかける。スモークブルーの瞳で奥二重、あまり高くない鼻と頬には小さなソバカスが散らばっている。こんな地味な顔にファンデーションを付けてソバカスを隠した。
化粧は最低限のみ。身だしなみには、女性らしさなど一切出さないよう配慮する。
人は魔力というものを持たないが、精霊の力を借りることで生活に魔法を取り入れている。火をつけたり、そよ風を呼んだり、水を動かす。
精霊は目に見えないが自然の至るところに存在するらしい。魔法が使えるということは精霊がいるということ。子供の頃から教えられるのはそれくらいだ。
人はそんなささやかな魔法しか使えないが、精霊の力が宿った精霊石を使えば出来ることは格段に増え、生活も便利になる。精霊石をエネルギー源にした照明や魔法を使うと加熱出来るコンロ、水の膜を張って雨を避ける魔法傘など……全て魔法道具、魔法装置だ。
今日乗っていく自転車にも精霊石を取り付けてあり、ほぼ自動で走ってくれる。
「モナちゃん、まだ七時四十分だけどもう出るの?」
「うん、ママ行ってくるね!」
母に見送られながら、モナは始業の一時間前にミラー商会の事務所へ到着するように家を出た。
イリシエント国の首都ソーンでも注目を浴びるミラー商会は、まだ設立して一年ほど。
魔法道具がヒットして著しく成長しており、そんな商会で働けるのだが気がかりが一つあった。
モナは普通の人と比べて精霊に借りられる力が極端に少ない。
そのため、長く魔法を使い続けることは困難で、魔法傘を使っても五分も経たない内に傘が閉じてしまったり、物を移動させる魔法などは難しく、簡単な魔法しか使えなかった。
こんな魔法が不得手な人間が、魔法道具を出しているミラー商会で働くのは不安があったが、そんな不安を差し置いても、憧れの人物と一緒に仕事が出来るという期待に胸が膨らむのだった。
ミラー商会が何よりも注目されているのは、会長であるアッシュ・ミラーだ。
美しいプラチナブロンドの髪に若草色の切れ長の目、筋の通った高い鼻。誰が見ても整った顔だと答えるだろう容姿に、高身長で二十四歳という若さ。
特に魔法技術が優れ、この商会で出している製品は他所があまり真似出来ない物が多いという。
そんな人物が急成長させている商会なのだ。その商会が求人を出したのだから、あっという間に話題になった。
そのミラー商会の採用試験はとんでもなく難しかった。引っかけ問題がとても多く、受験者を篩にかけて落とすような内容だった。作った人物はとても意地悪なのではと思えるほどに。
――その試験の日、外でタバコ休憩していた従業員の会話をうっかり聞いてしまったのだが、その内容が一番の衝撃だった。
『会長は女性を部下に選ばないから、今回の女性応募者は可哀想だな』
何ということだろう、そんなもの採用条件にでも書いておけと言いたかった。憧れの会長アッシュ・ミラーのことを、好みまで調べて挑んだ秘書の採用試験だったのに。
女性を採用しないというのなら、入社はもう期待できないだろう。張り切って出てきた家にこのまま帰っても両親の前で笑えそうもない。モナは真っ直ぐ家に帰らず、知り合いの小さなバーでたくさん飲んで愚痴を零し、帰宅したのは日付が変わる頃となった。
その翌日。二日酔いの寝起きで大混乱のモナは、お昼前に魔法便で受け取ったものをかれこれ三十分、呆然と眺めていた。
〝モナ・ペトロネア殿
拝啓 先日は当社の従業員募集にご応募いただき、誠にありがとうございます。
慎重に検討させていただきました結果、採用をさせていただくことに致しましたので、ここにお知らせ致します。〟
何度も何度も確認する。採用通知だ。
なぜ?
どうして?
一体何が?
「採用……されたの……?」
手放しに喜べず、これが本物なのかと疑い、宛先が間違っていないか疑い、差出人が間違っていないか疑った。
そもそも試験を受けたのは昨日なのだ。これが疑わずにいられるだろうか。翌日に採用通知が届くなんて普通は有り得ない。もっと有り得ないのが、入社日は三日後を指定している。本当に何かの間違いではないのか。
「ふ……服、買いに行かなきゃ!」
――そんな訳で、モナはなぜ採用になったのかわからないまま、入社当日を迎えたのだった。
事務所に着いて敷地の端に自転車を停めると、重厚な黒いフレームに収まるガラス製の大きな玄関ドアを開く。
玄関ホールには一人がけソファが三脚壁沿いに並び、その奥にはもう一つのドアが待ち構えている。そのドアのフレーム部分に見える真珠色の四角いプレート。これはミラー商会の魔法認証システムだ。そこに手をかざし微量の魔法を使うとドアが開錠された。モナの魔法がもう登録されているようだ。人の使う魔法はそれぞれ性質が異なるため、このシステムで個人を識別出来るようになっている。
「おはようございます」
ロビーに入って挨拶したが、まだ誰もいないのかシンと静まり返っている。しかし鍵は開いているから誰かしらいるのだろう。
ドアの直ぐ側に置いてある、自分よりも背の高いユーカリの植木の匂いが鼻先をかすめた。
事務所内は栗アンティークの無垢床材にスケルトン天井。壁はほとんどなく、仕切りはガラス張りで開放的な空間になっている。元々は倉庫だったのだろうか。
ロビーから見える左側の部屋は、デスクが沢山並ぶワークスペースでガラス壁は黒いフレームが斜めの格子状になっており、一部がオレンジ色のガラスになっている。
入社試験の時はじっくり見る余裕もなかったが、落ち着いて見れば内装がとても格好良い。
モナは事務所の間取りを知るために、会議室や応接室、それぞれの部屋の場所を確認していった。
鞄を持ったままロビーをウロウロしていると、後ろから声をかけられた。
「早いな、ペトロネア」
声のした方に顔を向けると、休憩室のドアの前に声の主を見つける。
「ミラー会長……! おはようございます」
「急に入社日決めて悪かったな。人が足りなくて忙しいんだ」
休憩室で寝ていたのだろうか。眠そうな顔で艶のないボサボサの髪、グレーのシャツはシワが目立つ。そして何より……。
「一日でも早く仕事に慣れて、戦力となれるよう頑張ります! ご指導のほど宜し――」
「こっち付いて来て」
「はいっ」
憧れのアッシュ・ミラーを前に緊張していたモナだったが、会話を遮られてモヤモヤしつつ彼の後を付いていく。
ロビーからワークスペース内に入る彼の背を見ながら、高ぶっていた緊張感は呆気なく吹き飛んだ。
モナは鼻が効く訳でもなく、ミラー会長とは二メートルほど距離も空いている。それでもわかるほど、彼は途轍もなく酷い口臭だったのだ。恐らく前日に大蒜を大量に食べたと思われる。
顔に出なかったか心配したが、モナの得意技は無表情だ。恐らく伝わっていないと思うが……、こんなに離れていても臭うとは。そして、それを指摘するか悩んでいた。何せ信頼度はまだゼロだ。新人がトップであるミラー会長に口臭の指摘を出来るだろうか? もし今日来客があったらどうする?
そんなことを考えていると、ミラー会長はさらに奥へ進み、黒い木製ドアを開いて中に入れば本棚にファイルがずらりと並んだ部屋。先ほど確認した書庫だ。
「ひとまず、この取引先を全部頭に叩き込んで。君は記憶力が良いらしいね。どれくらいで覚えられる?」
ミラー会長は片眉を上げ、少し笑みを浮かべながらこちらを見る。
彼に渡されたファイルは五冊。モナはパラパラめくって計算する。
「二日で覚えます」
ミラー会長は表情を変えず、若草色の目を細めてうなずく。嘘か真か試されているようだ。
「わかった。俺のデスクがあれで、君はこっち使って」
書庫の近くにある、黒褐色の無垢ローズウッドの大きなデスクがミラー会長の物らしい。指を刺された斜め向かい側が自分のデスクのようだ。
「承知しました」
そしてモナは少し迷ったが、鞄から出した物をミラー会長に差し出した。
「あの、失礼ながら申し上げます。もし体調が優れないようでしたらこちらを。市販の物です」
モナが出したのは、口臭ケア用薬草タブレット。それをミラー会長は受け取った。
「ありがとう。――合格点だな」
意味がわからず首を傾げたが、ミラー会長は少し笑ってそのままデスクに向かったので、モナは一礼してファイルを自分のデスクに運んだ。
後に他の従業員から、あれは新人への試練で口臭や体臭を指摘させるのだと聞かされた。そんなことさせるなんて、ミラー会長はなかなか意地悪な人かもしれない。
前日、大量の大蒜を摂取して、風呂にも入らなかったのだと暴露していた。あんなに男前なのに、何も知らない女性だったらかなり幻滅する出来事だ。
もう一人採用された、同期のグレン・ロスは事務所に来て開口一番に
「くっさ! 大蒜食べてくるとか社会人として有り得ませんね」
と言って、初日から事務所内を凍り付かせた強者だ。ミラー会長には大ウケだったが。
ミラー会長は度々、従業員を試すようなことをするらしく、先輩達はすっかり慣れているようだ。
ずっと憧れていたアッシュ・ミラーはとんでもない曲者だと思い知らされるのだった。
【修正点】
・不足している情報や描写を追加しました。