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笑顔と過去

 華恋と蓮人を追いかけ、園内を回っていく。

 もちろん凪咲も勝手に付いてきている。


 このゾーンは猿山みたいだ。

 たくさんの日本猿を華恋と蓮人は好奇のまなざしで観察している。


「ねぇねぇ、竹林くん」


「ん? なに?」


 唐突に凪咲に話しかけられる。


「ともくん、ってよんでいい?」

 

 ――なん、だと……。


 女子に名前で、それもあだ名で呼ばれる経験などない。

 基本華恋以外の家族からは『とも』と呼ばれている。それ以外の知り合いは名字で『竹林』と呼ぶし、名前で呼ぶのは平山だけだ。

 だが、名前やあだ名で呼ばれることは嫌ではない。


「まあいいけど別に」


「ほんと! ありがとう、ともくん!」


 凪咲はそう言いながら破顔した。

 その笑顔があまりにも綺麗で、あまりにも嬉しそうで、あまりにも眩しくて、俺は思わず目をそらす。


 凪咲のその笑顔は、教室でクラスメイトに向けているものとはあまりにも違う。

 クラスメイトには普通の笑顔――普通に綺麗な笑顔を、俺には直視できないほどの綺麗すぎる笑顔を向けてくる

 凪咲と何回か会ってその違いがよく分かってきた。

 その茶色がかった目がキラキラしているし、口角の上がり方に違和感がないし、なにより顔に嘘を感じられない。


 と言いつつどちらの顔でも直視できないのは変わりないが。


「むぅーっ! お兄ちゃんなにしてるの!」


 俺が凪咲と話していると、いつの間にか華恋が腕に抱きついてくる。

 頬を膨らませているところを見ると、凪咲と話をしていることが不満らしい。


「ごめんね華恋ちゃん。お兄ちゃんをとっちゃって」


 そう言いながら凪咲は華恋の頭をなでようとするが、普通に避けられる。

 

「いーだッ」


 華恋はそう言い残し、走って行ってしまう。

 凪咲は避けられたと分かると、石のように固まってしまった。


 よほどショックなのだろう。

 あまりの嫌われように少し同情を覚える。


「ま、気にすんなよ。大丈夫、空気には好かれてるから。ほら、ちゃんと呼吸ができるだろ?」


「全くフォローになってない! ていうか空気に好かれてないと呼吸すらできないの!?」


 ついフォローしようとしたら普通に毒舌になってしまった。


「だって重力に嫌われてるんだから重力に縛られてるんだろ?」


「違うからね? それ言うとみんな重力に嫌われてることになるから」


「多分重力は人間のことが嫌いなんだろう」


「重力は人間以外にも適応されるからね。宇宙の法則だからね」


「そこまですべてを嫌うのか。悲しいな重力は」


「かたくなに重力が何かを嫌ってる説を信じるんだね!?」


 やはり凪咲はノリがいい。

 俺の冗談にも的確に突っ込んでくれる。


 これは平山ぶりの逸材だ。

 大抵の人はこの話し方を嫌がって俺から離れていってしまうのだが。

 何回話しても突っ込んでくれるなんて。


 ストーカーの件さえ置いておけば――ありがとうと言いたい。

 それと同時にごめんとも言いたい。

 凪咲は俺と関わるべき人間ではない。

 もっと、もっと……。


 俺は思わず歯を食いしばる。


「ん? どうしたのともくん。いきなり黙っちゃって」


「いやなんでもない」


 このことは言わないでおこう。

 凪咲を遠ざけるためにそうしているなんて、言える訳がない。

 ――もちろん素で毒舌の時もあるが。


 言いたい。本当は言いたい。

 だが、言えば凪咲が傷つく気がして、凪咲が平山のようになってしまうような気がして。


 俺は平山には救われた。

 平山にはその代わりに友達になることお願いされた。あと絶対に離れないとも言われた。

 友達が少ない俺に気を遣ってくれたのだろう。

 だから、あいつには遠慮しない。

 そうするように言われたからだ。


 しかし、凪咲は違う。

 恩もなければ借りもない。

 であるならば――。


「……くん…………もく……ともくん、ともくんっ!」


「……え? どうした?」

 

 凪咲が大声のおかげで、俺の意識は引き戻される。


「どうしたじゃないよ。ともくんこそどうしたの。そんなぼーっとして」


 考え事のせいで呆けていたらしい。


「いやすまん。それでどうしたって?」


「……華恋ちゃんたち先行っちゃったよ。早く行こう」


 凪咲はそう言って俺の手を引いていく。

 その手は柔らかく、少しだけ温かかった。





 ◇◇







「……」


「……」


 横を通り過ぎていく人が、無言で俺の方を一瞥していく。

 気の毒そうな、可哀想なものを見る目で俺を見る。


 そんな目を向けられることになれたのはいつ頃からだったろうか。


 いじめが始まってすぐの頃はそんな目で見られることがすごく嫌だった。

 お前は哀れだと、お前は可哀想だと、言外に言われているような気がして。

 俺は可哀想じゃない。そんな目を向けないでほしいと、そう思っていた。


 だがいつしか、そんなことも感じなくなり、そんな視線に慣れてしまった。


「死ねよ。まじで」


「お前調子乗ってんじゃねーぞ」


「話かけんな。うぜぇ」


 そんなことを言われたことなど一度や二度ではない。

 しかも中学生にもなると、こんな言葉の暴力どころではない。

 物がなくなる、隠されるは日常茶飯事。

 殴られ、蹴られ。腕を折られかけたことや、よく分からないスプレーをかけられたこともある。


 自殺未遂など何回したことか。

 教師にも相談できず、親にも言えず、いつも甘えてくる華恋に癒される日々。

 華恋がいなければ、とっくに俺は自殺を遂げていただろう。


 なぜ教師に言わないのか、親に言わないのかと思われるかもしれない。

 だがそれは俺の数少ない小さいときからの大事なポリシーに反するからだ。


 ――人は幸せになるために生まれてきたのだ。


 とある世界一貧しい大統領が言った名言だ。

 小学生の時に俺はそれを聞き、感銘をうけた。


 もちろんその理由はある。

 俺は小学生のころから常々感じていたことがある。

 なぜ人は人を傷つけるのかと。


 物語では必ず敵が出てくる。

 小説やアニメ、ドラマ、映画など、敵が出てくるのがほとんどだ。

 俺はいつも疑問に思う。

 なぜその敵を懲らしめるのかと。

 なぜ敵は幸せになれないのだろうかと。


 また、昨今はネットが発達し、誹謗中傷が問題になってきている時代でもある。

 なぜすぐ人を誹謗中傷するのだろうか。

 さらにその誹謗中傷に対して批判する人もいる。

 なぜ批判に対して批判で返すのだろうか。

 それではどちらも同じではないか。

 そう俺は思っていたのだ。

 

 甘いのかもしれない。綺麗事かもしれない。

 だが、俺はそれでも頑なにそう思っていた。


 善悪、正しい、正しくない、正義、そのどれもが俺には分からなかった。

 人は正義を掲げながら人を傷つける。

 自分の正しさを示すために、自分の正しさを押し付けるために。そこに悪意はない。


 しかし、傷つくのは誰もが嫌なはずだ。

 なのになぜ人を傷つけるのか。


 そんなたくさんの疑問を抱えていた子供時代があった。

 子供らしく、答えの出ないことを俺は考えていた。

 あの大統領の言葉は、そんな俺に光を与えてくれた気がした。


『人に対して思いやりを持ち、みんなが幸せになるために行動する』


 それが俺があの大統領の言葉を聞き、この胸に刻み込んだポリシーだ。


 だから――いじめられても何も言わない。

 言えば彼らは糾弾され、不幸になってしまうかもしれないからだ。

 不幸なのは俺だけでいい。俺が我慢すればいい。

 そうすればみんなが幸せに生きられる。

 それが俺のポリシーであり、俺の希望でもある。


 そんな半ば自暴自棄になっていた俺を救ってくれたのが平山だった。


「なあ、大丈夫か?」

 

 校舎裏の隅でいじめのせいで痛む体を抱えながらしゃがんでいると、唐突に話しかけられた。

 それが平山だった。


「よう竹林。今日お前んち行っていいか?」


「よう竹林。次は移動教室だぞ。ほら、行くぞ!」


 そうから、いつも平山は話しかけてきた。

 最初は俺もうざかった。

 どうやって遠ざけようかを考えた。


「いい加減黙れよ。その天パー引き抜くぞ」


 何気なしにそう暴言を言ったのが始まりだった。


 人気者だった平山は、近くに必ず誰かいた。

 もちろん平山が俺に話かけるのを嫌がっていた。

 だが、俺がそうやって毒を吐いた瞬間、どっと笑いが生まれた。


 そこからだ。俺へのいじめが減っていったのは。

 毒舌を吐けば吐くほどいじめが減っていく。

 冗談風の言い回しをすればするほど笑いが増えていく。

 みんなにおもしろい奴と思われ始めた。

 そしていつしかいじめは全くなくなっていた。


 平山は平和的にいじめを解決したのだ。

 それも誰も傷つかない方法で。

 そこで俺は気づいた。

 毒舌と冗談風の話し方なら誰も傷つかず、みんなを幸せにできると。


 それを気づかせてくれた平山には感謝しかない。

 そのことを平山に伝えると意外な答えが返ってきた。


「それはお前のためじゃない。俺のためだ。いじめられてたお前を傍観していたのは俺も同じだ。

だから感謝は必要ない。これはただの贖罪なんだよ」


 俺はそう言われたが、それでも感謝しない理由にはならない。

 傍観者は悪いことではない。

 俺に関わればいじめの対象にされるかもしれない。

 だからどうか罪悪感を抱かないでほしい。


 そのことを伝えると、


「ならそれでいいからさ。その代わり俺のお願いを聞いてくれるか。……俺と友達になってくれよ。俺はお前から離れてやらないからな」


 平山はそう言って手を差し伸べてくれた。

 その手は固く、少しだけ温かかった。


 それからは気を遣うことなく毒を吐いた。

 冗談風の言い回しばかりした。

 それで離れていく人の方が多かったが、平山はずっと俺から離れなかった。

 離れていった人は、逆に離れてくれた方がよかったかもしれない。

 俺は人を遠ざけるためにこの話し方をしているのだから。


 俺といても良いことなんてない。

 例外なんて――平山一人で十分だ。

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