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作者: 紺色。


                                   

その逢瀬は決まって雨の日だった。


別に決めていた訳じゃない。それはとても不安定でぼやけたものだった。

だけれど二人の会う日は必ず雨の日の夜だった。

なんとなく今でも思い出せる最初の夜は梅雨で少し蒸していた六月のいつか。


俺は雨が嫌いだった。


雨の日の夜は、陽だまりみたいな彼女のいつもの微笑みも小さい命を宿してまだ日の経っていない無邪気な微笑みもどうにも耐えられなくて、いつも嫁に情けない声で断りを入れて、最寄りから三つ離れた駅のこじんまりとした人の殆ど居ないバーに行ってはそれのせいだと言い訳して許される程度に酒を飲んで浴びるほど泣いていた。

彼女が来たのはそんな何の変哲もない雨の降る情けない夜だった。

九時を少し過ぎた辺りでBGMのレコードが切れて、ただただぼつぼつと降り続ける雨の音を、ぼんやりとアルコールを啜りながら聴いていた時、普段開かないこの店のドアのガチャリと開く音がした。

こんな雨の日に来る変わり者はそう多くは居ない。しかもその日は確か水曜日で、路地裏なんてところにひっそりと佇むこの駅から少し離れたバーにわざわざ週の中盤に訪れる物好きなどいるはずもない。

そんな狭い店内のひとつ越して隣に座ったのはさらに驚いたことに自分より五つくらい若いだろうずぶ濡れの女だった。

……珍しいこともあるものだ。

その女は静かにブルームーンを頼んだ。

多分彼女も確かに正常では無かったのだろう、

『あのさぁ、あなたは運命とかいう言葉を信じてしまう人?』

「……運命なんて言葉が本当だったら俺たちは今頃こんなに苦労してない」

雨の日が耐えられなくて泣いたりなんか。

別に可愛くないわけでもないし別段不満があるわけでもないんだ。きっと俺は彼女のことを愛していて、そろそろねなんてふわっと笑う彼女を守ってあげたくてあの日光輝く円環を送ったのは間違いではないと思うんだ。

でも。

「……君はどうなの」

『わたしはわからないです。運命も、何が幸福で何が不幸かも』

「とりあえずさ、その格好のままは良くないと思うんだ。風邪引くよ」

『風邪を引きたいくらい今悲しいから別段不便は無いんだよね』

「それを見る俺が風邪引きそうだから俺のために後ろで絞ってきなよ」

『……おじさんが言うなら仕方ないなぁ』

後ろを振り向かずにただ雨と滴る雫の音を聞く。

マスターは知らないふりしてただ食器を俺の斜め右前で隠れながら静かに拭いている。

幸福も不幸も、いつからかそんな境目なんてのは無くてただ過ぎていくものになったのはいつからだったか。

『運命だと思ったんだけど、あまりにもちゃちだったんだ。交わしてやっとわかったんだ。馬鹿みたいでしょう? 小指で優しい顔で永遠を誓ったあとに気付いたんだ』

『結局心と心なんて近付いたら麻痺して、その麻痺して何も考えられず盲目になってしまう滑稽な状態が愛で、それで運命なんて勘違いを信じてしまうくらいくらくらして、もうさ。もうときめきって名前の魔法も無いの。あの人はさ、もうわたしの魔法にはかかってくれないし、わたしもあの人には魔法を使えないんだ。熱はもう一定値に達したらあとは冷めるだけなんだよね』

『それでも信じたかったんだよね、わたしは運命だって』

「……よくわからないけれど、それで君は別れるの、その彼と」

『別れないと思う。だって好きだし、わかっていたって表には出せないものってあるでしょう。でももう今日の雨でもう溢れちゃって、だめになって』

「とりあえずカクテル飲みなよ。ぬるくなるよ」

『持ち帰られる気はさらさら無いよ』

「俺だってお前みたいなの持ち帰る気は無い」

『ブルームーンのカクテル言葉って知ってます?』

「出来ない相談、叶わぬ恋」

『よく知ってますね。さては変態ですか』

「昔付き合った女がロマンチストだったんだ

『私のことロマンチストだと思います?』

「別に珍しくは無い。精神上の理想と現実の乖離に泣きたくなる夜は誰にでもある」

……雨は降り続ける。

その日は浅瀬を探るみたいに互いの表面を泳ぐみたいな言葉を数度交わして、何も言わず雨の音を聴いていた。


その時からだ。いつもの雨の日のあのバーに彼女の姿を見るようになったのは。


「……あのさぁ、なんで君」

『あなたこそ』

「俺は泣きたいの。君がいると泣けないでしょ」

『いや別に他人の涙に興味無いし』

「まあどうせ耐えきれなくて泣くんだけど」

『じゃあ別にいいじゃないですか』

「そういう問題じゃないんだよね」

大の大人が二人して雨の中まるで誰もいないみたいな空間で雨とところどころ掠れるレコードの音を聞きながら情けない声で軽口を叩き合う。

結局彼女とはそうやって二、三口喋ったあと互いに酒を回らせてから他愛もない人生観や恋愛観、どうしようもないことをただただ話すのが雨の日の常になった。

いつも雨の日は二人ともしがらみや理不尽やどうにもならないことの多すぎる現実から逃げるみたいに、今にも死にそうな顔して全部もう知らないって言うみたいに酒を飲んで。

でも俺は俺の事情なんて言わなかったし、彼女も最初のそれ以上は話さなかった。

ただ二人、たまたま原因不明の憂鬱が重なっていて持て余すには一人じゃとても足りない、それだけだった。

雨の日は決まって憂鬱で、とても正気じゃ居られなくて。

浴びるほど酒を飲んで泣いて。

でも不確定要素だけで成り立つ雨の夜はいつしか温く居心地良く、たまに互いに抉られながらもそのしょっぱさでさえ心地よいと思えていた。

……どんなに心地良くても絶対的なものではないが、それでも縋るように雨の夜は泣きついて二人ぐしゃぐしゃになって潰れて、ただ雨の音と枯れた声が響いて最悪に情けない夜が最高に愛しかった。

そのことにはっきり気付くのは明確な終わりがあったからだけども。


何回目だか数える方が不自然なくらいになったその日は朝からずっと一日を覆うように雨が降っていて。

今日もだめだなと苦笑いしながら申し訳程度の残業をこなし、ぽつぽつと降る雨の中少し濡れながら駅からのやや遠い道を歩いて。

「……よう」

『あ、おじさんじゃん』

「ずっと思ってたんだけど俺おじさんって歳でも無いと思うんだけど」

『細かいことは気にしたら負けだよ。それよりさぁ、デートしない?』

「は?」

『デートだよ、デート。しばらくしてないせいで忘れたの?』

「お前何飲んだんだよ」

『ウイスキーロック二杯』

「飛ばしすぎかよ」

『それはそれとしてさ、一日くらいどうよ』

「嫁に申し訳なさすぎるから嫌だ」

『その人可愛いの?』

「……まあまあ。申し分無い程度には」

『でもあなたいつもここで泣いてるのは、どうにもならない数ミリのずれがあってそれが致命的でどうにもならなくて、そんな今更どうしようもない現実に耐えられなくなるからじゃないの?』

「小娘、五月蝿い」

『デートしてくれたら私の話だけするよ』

「別に興味無いけど」

『君の痛いところはつつかないであげるよ』

「仕方ないなぁたまにはガキンチョに付き合ってやらんこともない」

『セリフが完全におじさん』

「おっいまの一言で気が変わ……」

『行こ行こ。って言ってもこの中を散歩するだけだけど』

それは果たしてデートと言うのか。

でもずっと温く停滞していたこの関係が緩やかにどこかに緩やかに動いているのかもなぁとは思った気がする。

がらりと音を立てて扉を開けるとさっきまでいた七畳近くの狭い空間が嘘みたいにどこまでも夜と雨が続いていて。

彼女は満面の笑みで何も刺さずずぶ濡れになりながら『行こ』なんて俺の手を引っ張って。

ただただ傘とアスファルトに当たっていく雨の音を背景に彼女は話し始める。

『公園とホテルどっちが良い?』

「……俺帰るぞ」

『ごめん嘘嘘、公園行こうよ。ところで雨の日ってさぁ泣いても全部許される気がするよね』

「だから泣いてんじゃないの、お前も俺も」

『そうだけどさ』

「だからだめになるんだ、雨の日になると」

『……聞かなくてもいいんだけどさ』

「うんうん聞かない、ていうか最初から何も聞いてないから」

『あたしさ、結婚してるんだけどさ』



結婚したのは丁度一年くらい前かなぁ。

中学からずっと一緒だったんだよね。それでずっとずっと、高校行っても大学行っても環境が変わっても長く一緒に居れなくてもずっと一緒だったしずっと幸せだったし楽しかったんだよね。

だって義務教育から続いてもうずっとだよ。

それは社会人になっても変わらないと思ってたんだよね。実際一年目は変わらなかったし。

だからあの人はあたしに給料三ヶ月分のリング差し出してみたいなベタなことやってくれたんだけどさ。

……結婚って難しいんだね。

だってもう恋愛みたいに不確定じゃないんだよ。もう相手の愛が完全に手に入っちゃったんだよ。まだ恋愛だったら不確定を確定にしたくて続けたくていくらでも魔法が使えるけれど、なんだろうなぁあれほど欲しいって言ってたおもちゃがいざ空から降ってくると「うーん」みたいな。

手に入った瞬間にあの人はあたしに飽きちゃったんだよ。

瞬間ってのは間違いだけど。でも結婚した後大きな喧嘩は無くてもどんどん熱が離れていくのがわかるんだ。五年以上一緒にいたのに嘘でしょ? って私が一番思った。

でもね、今日あの人が朝雨降ってるの見て「お前今日もどっか消えちゃうのか」って言ってくれたの。あたしのこと知ってたんだね。

なんかもうそれだけで舞い上がるほど嬉しくて。ひっくり返すとそれだけで舞い上がるくらい……ってことなんだけど。



『だからね心は多分まだぎりぎりこの手の中にあるんだ。あったんだ、まだぎりぎり温度が』

ぐちゃぐちゃの顔で彼女は続ける。

『虚しいけれど、苦しいけれど。なんだかもうよくわからなくなってきちゃったけどこれだけで幸せになれるくらいにはまだ私も意味わからないくらい好きでさ、だからもう君とはさよならなんだ』

泣いてるのか笑ってるのかよくわからない顔で続ける。

「別に俺の夜は元々一人だったし」

『でも嫌いじゃなかったよ全部、うっかり好きになりそうになるくらいには』

「それは大嘘でしょ」

『まあ信じるか信じないかはあなたに任せるけどさ』

そう言って彼女は一度だけ俺の視界を遮って。


雨が降るたび、思い出してしまう。


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