あの日から
我が魔王は、ご立腹である。
具体的な中身までは聞き取れないが、一つ下の階の屋外にいる見張りの耳に届いているのだ。相当な大声を張り上げているに違いない。
頭上に尖った2つの耳をピクリと動かし、呆れたように溜息をつく。
「あぁ、またか……」
「ん、何か言ったかゼクター?」
呟きが聞こえたのか、隣にいた蜥蜴人の同僚がこちらを見てくる。ゼクターと呼ばれた男は、何でもないとばかりに頭を振る。
「いやぁ、お嬢……魔王様がお怒りだなぁと思っただけだよ」
同僚が首を傾げていると、間もなくして騒々しい足音が聞こえてきた。通路から焦った様子の鬼人が飛び出してくる。
「ゼクター!! 来てくれ!! 魔王様がお怒りだ!!」
「ほう、我が耳には届いていなかったが、なるほど。流石は狼の耳だな。これには舌を巻こう」
大きく口を開けて笑いながら、長い舌を器用に巻いてみせる蜥蜴人。予想通りの内容とその下らないジョークに苦い顔をしながら、ゼクターは鬼人に目をやる。
「俺は今見張り番だ。中のことは中の近衛で対応しろよ」
「簡単に言うなよ。俺らはお前ほど図太くねぇんだ。あの威圧感たっぷりの目で見られて動ける奴なんてほとんどいねぇよ。ましてあの状態の魔王様に言葉かけられる奴なんて皆無だ。お前以外はな」
「まぁ、平時の現場判断だが、配置換えしても文句は言われまい。行くがいい。ゼクター、いや、ご機嫌取り」
鬼人の縋るような視線と、蜥蜴人の生暖かいような視線。その二つを受けたゼクターは、諦めたように頭を垂れた。
「ハァ、分かったよ。俺の代わりにコルヌ。ラケルタ、後は頼む」
「請け負った」
蜥蜴人のラケルタにそう言い残し、ゼクターは廊下を歩いていった。
「失礼します。ゼクター、参りました」
部屋の外からでも感じられる殺伐とした空気。正直入りたくないなと思いながらも意を決して飛び込んだ。すでにこの場にいた数多の視線を感じつつ、視線を足元に落としたまま立膝の姿勢をとる。
しばらくの沈黙の後、鈴のような、しかし怜悧で鋭い声が頭上から降り注ぐ。
「……丁度良い。ゼクターに話がある。他の者は席を外すように」
無駄にざわつくこともなく、逃げるように退出していく先客たち。やがて扉の閉まる音が部屋に響くと、部屋には魔王とゼクターのみが残された。
「ゼクター、近う寄れ」
「ハッ」
立膝状態で頭を垂れたまま、数歩前へにじり寄る。
「もっと」
にじり寄る。
「もっと」
「もっと」
同じことを繰り返していると、痺れを切らした魔王様が指示内容を変更した。
「ゼット。面を上げて立ち上がり、段を上がってこの私の前まで来なさい」
「……アイ、マム」
言われた通りに立ち上がり、段を上がって玉座を見下ろす。眉根を寄せてこちらを見上げ、頬を膨らませている少女。唐突に片手を伸ばし、人差し指を突き立ててくる。
「その場で回転。ストップ。下がって。そう」
言われるままに後ろを向いて、しゃがむ。そうして背を向けていると、魔王はゼクターの尻尾を両腕に抱いた。むず痒いような感覚に眉を顰めながら、されるがままで我慢する。気の済むまでそうさせていた方が、早く機嫌が直るのだから。
「で、お嬢。今回は何があったんで?」
背中越しに尋ねてみれば、少女は尻尾にもたれかかるように身を寄せた。顔を埋めているのか、彼女の耳の横にある角を感じる。
「……縁談よ。『そろそろ良い頃合いだから。お考え下さい』って」
「……あんた、今年で何歳だ?」
「十五」
「……そうか、もうそんな歳か。あのエイシャお嬢がねぇ。んで、何か? 『なんでそんなの勝手に決められなきゃなんないのよ!! そんなの私の勝手でしょ!!』ってか?」
その問いかけに、エイシャは答えなかった。それこそが何よりも雄弁に、肯定の意を物語っていた。ゼクターが肩を竦める。
「流石はお嬢。決めてしまったら意地でも退かない。あん時と何も変わってないねぇ」
「変わったわよ。あんたは近衛になった。あたしは、予定外に魔王になった」
「中身の話だよ。だがまぁ、そろそろ中身も変わってもらわないと。あんた、いつまで俺の尻尾当てにする気だ?」
そう問いかけると、エイシャの体が強張った。構わずに続ける。
「俺もあんたも、いつまでもこのままでいられないんだよ。人の尻尾に抱きつくガキは、そろそろ卒業しないとな」
「……いいわよ、ガキのまんまで」
「んなわけにいくか。立場が違う。役割が違う。現にあんたにゃ次の役割が与えられてる。まぁ、世の中俺より顔の良い連中はゴロゴロいるし、あんたの立場ならどんな相手も選び放題だ。次の相手ならすぐ見つかるさ」
「……そうね。ゼット。スタンダップ」
尻尾を解放され、ようやく理解してもらえたかと安堵の溜息をつくゼスター。
「ターン」
指示に従っていた彼は、しかし、次の瞬間、呆れとともに深い溜息をこぼす。
立ち上がったエイシャが、正面から抱きついてきたからだ。
「違う、そうじゃない」
「何よ、何でダメなのよ。何であたしじゃダメなのよ」
「まぁ一番のところは年齢だよなぁ。いくら可愛かろうが何だろうが妹よりだいぶ年下の奴なんて対象にできないしならないよなぁ。ロリコンでもないし」
「……フンッ、どーせあたしゃガキですよーだ。あんたなんか大嫌い。地獄でもどこでも行くといいわ」
「そう言ってもらえると、気が楽になるね。では、お言葉通り、故郷にでも引っ込んでのんびりさせてもらおう……じゃあな、お嬢」
「……え、ちょっと、何それ? 待ちなさいよ、ちょっと――」
エイシャに背を向けたゼスターは、意を決したようにそう言い残した。エイシャの声には振り向かず、彼は部屋を後にした。
そうして彼は退役し、姿を消した。城内で彼の姿を見ることは、二度となかった。
「――それでそれで、まおーさまはどーなったの?」
「まおーさまかわいそー」
「へっ、いくじなしだなその狼は」
質素な教会の片隅で、子供たちが好き好きに口を開く。話を語っていた女性は、その様子を見て微笑を浮かべている。
「ふふっ、その後はね……あら、時間だわ。さぁみんな、お家までダッシュよ。美味しいご飯が待ってるわ。誰が最初に辿り着けるかしら……よーい、ドン!!」
言葉のノリと勢いに乗せられ、子供たちが一斉に建物の外へと走っていく。扉を出た瞬間から散り散りになり、各々の家へと駆けていく。その様子を見ながら悠々と扉を潜った女性は、傍らの壁に寄りかかる狼人間に目を向ける。腕を組んで佇んでいた彼はしかし、奇妙に歪んだ顔を真っ赤にして恨めし気に見下ろしてくる。
「……お前、何を子供に聞かせてんだよ」
「何って、ただの昔話じゃない。一途な想いを寄せ続ける健気な少女と、それを袖にし続ける融通の利かない唐変木の、淡く儚い恋物語」
「よくもまぁいけしゃあしゃあと。身分違いの悲恋みたいに語りやがって」
「実際そうじゃない」
「そこで終わってりゃあな……あそこまで突っぱねて拒否したつもりだったのに……まさか玉座を譲って追いかけてくるなんて……」
「おかげで想いは遂げられたわ、ロリコンさん?」
「俺には重いにしか聞こえねぇよ……ヘイヘイ、俺の負けですよっと」
ガックリとうなだれる狼人間。勝ち誇った笑みを浮かべ、女性はその片腕を取る。
「さぁゼット、帰るわよ。あったかい我が家が待ってるわ!!」
「……っとに変わんないなお嬢は」
「誰がお嬢よ。エイシャでしょ」
「おっと、ついクセで」
「もう!!」
膨れてみせるエイシャの頬をつつき、ガス抜きをして笑うゼスター。そんなやりとりをしながら、二人は家へと歩いていった。