火薬の時代
自分の体が自分の体として馴染んできた、と思えるようになったのは一か月も経ってからだった。
いまやイルは大きな力を適切に使うことができるし、細かい作業をすることもできるようになっていた。
具体的には、まず彼女は釣りをすることができる。村の跡地から持ち出してきた釣り竿と釣り針を使えば、簡単に食事が用意できた。さらにはそれを調理することも可能だ。石でかまどを組み上げることも、火を起こすことも楽にできる。釣り針を新たに自分で作ることさえもでき、手先の器用さは完全に回復したといってよかった。
一方で獣道を以前の何倍もの速さで駆けることができたし、沢に落ちるようなこともない。少し助走をつければ大きな川を飛び越えることさえもできる。
竜の血によって得た力は、イルが想定していたよりもずっと大きいものであった。
川の中に沈む岩を砕くことは、蹴りつけるだけでも簡単にできた。足のほうは全然痛くもならない。蹴られた岩だけが、砂のようにバラバラになって吹っ飛んでいくのだ。このような有様なので、獣を狩る際には力を入れすぎないよう注意が必要なほどだった。
イルの体にはさらなる変化が起きていた。見た目には竜の血を浴びてから縮んでしまい、それから一向に成長していないにもかかわらず、体重が増えていた。運動が足りていないから太ってしまった、というような増え方ではない。激増だった。
砂地に足を踏み入れるとずぶずぶと沈んでいく。大人よりもずっと重くなっている。5人ぶんか、6人ぶんくらいはあるだろう。
そういえば、最近全くトイレに行っていない。イルは思い当たる。しかし食べるものは食べているので、それだけ体重が増えているのだ。結構すぐにおなかがすいてしまうので、いっぱい食べて元気をつけようと考えていたのだが。汗や垢となって出ていくもの以外は、この体になっていったということだ。
が、イルとしては別に悲しんでいない。
なにしろ重いということは、それだけ攻撃にエネルギーが乗るということであり、体を支えられるということでもある。殴り合いをするというのであれば、重いものは圧倒的に有利である。そしてこの体重も全く移動の際に障害とならないのだ、有り余る力があれば。
「お前はもう竜の血の力を十分に引き出したな」
カイですら、そのように言うほどだった。
超重量と、それをささえる力と、それだけで十分であった。
イルは山村で学んだことを思い出し、弓をつくって持ち歩いていた。しかしそれが使われるのはもっぱら鳥を射るときくらいで、山の獣などが出たときなどは殴り殺したほうが早かったので、そうしているくらいだった。
殴り殺しているのだ。
大した抵抗もなく、イル自身も受け入れている。この重い腕を振り回せば、ただそれだけで獣たちが吹き飛んで死ぬということをだ。
今しも、森の中を歩いていたイルをごちそうとみて、雌狼が飛びかかってきた。
イルは左腕を振り払っただけだが、これに頬を打たれた狼は首の骨を折ってその場に転がり落ちる。ほんの一瞬で死体となり、もはやぴくりとも動かない。
たぶん、これは村のみんなが力を貸してくれているんだろう。
竜の血だけで、こんなことになりはしない。
なぜか、イルはそのように考えていた。
そのほうが納得できたのだ。
山村に暮らしていた人々が無駄に死んだなどと思いたくなかったから、今も自分のために力を貸してくれているのだと信じたかったのかもしれない。自分でそのように分析しながらも、イルは考えを変えようとはしなかった。
狼の体をそこらの枝で吊るし、血抜き作業にかかる。このまま持ち帰ってカイに渡せば、彼は一飲みにしてしまうだろう。満腹にはならないかもしれない。
なにしろカイの体は大きい。もう少し食べ物が必要だろう。
そうした思いが届いたわけでもないだろうが、血が抜けるのを待つ間に、匂いにつられてこの場にやってくる気配があった。
周囲の茂みをなぎ倒しながら、やってくる。山の中としてはありえないほどの速度でだ。それも、ひどく大きなものが。
身構えて、イルは待った。折角処理をした狼を奪われるのは面倒だったからだ。
やがて姿を見せたそれは凶悪な獣、熊だった。
「熊!」
空腹なのだろうか、何か怒っている。この狼を獲物と定めたのかもしれない。
全身を剛毛に覆われた怪物であり、人間の三倍以上の重量と膂力を誇る。特に人の肉の味を覚えた熊は、討伐の対象とさえされるのだ。
イルのいた山村でもこの獣を決してなめてかかってはならない難敵としていた。大人の、熟練の狩人でさえだ。子供などひとたまりもないと考え、恐怖の対象として教え込んでいる。
急所を狙わねば銃ですら倒れることはなく、その爪と牙で襲われた者はたいていの場合助からない。
生きて動いている熊を見たのは、イルも初めてだ。大人たちによって討伐され、解体されていく熊は見たことがあったが、後ろ足で立ち上がって爪を振り上げるそれは、もう別のものだった。しかしどうも逃げられそうにもない。
体積ではイルの体の五倍はありそうな、超重量の熊がイルに襲い掛かった。
竜の血を浴びたとはいえ、いまだ幼いイルはこの攻撃をかわす術がなかった。咄嗟に右腕を振り上げて、防御しようとした。
がつん、と地鳴りのような物凄い音がした。熊とイルがぶつかりあったのだ。さすがに衝撃が強かったのか、イルはフラフラと背後に一歩二歩とさがってしまう。
この熊は、イルの身長の3倍近い高さから一気に前足を振り下ろしている。これにぶつかられてしまったのだから、竜の血で強化されているイルも、ただですんではいない。
右肘から先に感覚がないくらい、痺れている。さすがにイルも幼い顔をしかめた。
熊とはそれほどの怪物なのだ。村でも熊の被害にあって亡くなったものは多い。熊とは猛獣であり、怪物なのである。頑丈になったはずのイルが痺れるほどの衝撃を生んだのだ。そのまま牙と爪で攻撃を受け続ければ、今のイルでは危険だ。
が、熊はもっと大変なことになっていた。彼の右前足は肩口からちぎれ飛んで、どこかにいってしまっている。
今の一撃でそうなったのだ。熊は走りこんできた勢いのままイルを叩き潰そうと、右前足を振りかぶって振り下ろしたが、イルがそれを右手で下から払った結果である。
たった一撃で武器を千切り飛ばされた熊は大きく吠えたが、逃げなかった。今度は左の前足を振りかぶって、イルを叩き潰そうとする。
しかし体のバランスがくずれたためか、一撃目ほどの威力も速度もない。イルは後ろに下がってこれをかわすことができた。
攻撃を二度もいなされ、小癪な獲物に熊は苛立っていた。どうやってか右の前足を吹き飛ばしたことにもだ。身体の痛みにもだ。怒りのあまりに彼は頭からイルへ噛みつきに行った。生意気なチビを骨ごと食いちぎり、決着をつけようというのだ。
たいそうな迫力であった。涎を飛ばしながら大きな牙が迫りくる。
自分よりはるかに大きなものが襲い掛かってくるが、イルは平然と対応した。額を前に突き出すようにして、こちらから敵の顎へとぶつかっていく。全身をばねの様に使った頭突きだ。
この一撃で熊の噛みつきは跳ね返される。痛烈な打撃だった。
下顎をほとんど真下から突き上げられたせいで、熊の口は閉じられていた。はみ出ていた舌を噛みちぎらせて、それでもなお勢い余り、首の骨を砕いた。まだ止まらない。そのまま上半身をのけぞらせて、次に肩を砕いた。さらに、腰まで達する。順番に関節を潰しながら身体全体をしならせ、とうとう熊をその場に倒してしまった。
イルを狙ったばかりにこの熊は再起不能である。首も肩も腰もつぶれたのだ。立ち上がることもできない。
もちろんこれほどの資源を無駄にすることはできない。イルは半死半生の熊にとどめを刺し、持ち帰ることに決めた。大人五人以上の重さがある熊の死体をだ。
死体を運ぶうちに、右腕のしびれは治った。
いくら頑健な体になったといっても、直接敵とぶつかり合うのはやはり負傷のリスクがあるようだとイルは学んだ。飛び道具が必要だ。かといって、弓では間に合わない。熊の毛皮にすら通用しないだろうし、徒党を組んだ人間を相手にするとなれば、なおさらだ。
となれば。
イルは『巣』の片隅に転がしているものを思い出した。
帝国兵たちが持っていた、新式銃と装弾子の一式だ。銃が一丁、予備の装弾子は8個ある。
「帰ったか、イル」
『巣』に戻ると、カイが声をかけてきた。この竜は『巣』の中で寝ているのが好きらしい。イルの知る限り、彼はずっと『巣』の中にいる。少なくとも、イルが『巣』にいるときには。
イルは引きずってきた熊の死体を『巣』の中に運び入れ、挨拶をかえした。
「ただいま。カイ、これが獲物。食べていいよ」
「大物だな。どうやって殺した?」
「ちょっとさわったら死んだ」
イルは熊の始末を任せてしまった。もちろん、面倒だったからだ。カイが食べるなら下処理など何も必要ない。そのままパクリと行くだけなのだ。
自分はオオカミだけで十分。その下処理をするより先に、聞くべきことがあった。
「ところで、カイ。銃の撃ちかたって」
新式銃を手に取って振り返ると、もう熊の死体が消えている。
カイがちょうど喉を鳴らして何かを飲み込むところだった。
「まあ珍味といったところか。やはり肉は死にたてに限るな」
「そう」
イルはとりあえずそう答えたものの、あとに続く言葉がでない。
竜は、熊など及ばない怪物なのだ。