血の儀式
山村で育ち、そして帝国兵に襲われて倒れたイル。
彼女の体は思うように動かなかった。出血は少なかったが、痛みがひどかった。あちこちの骨が折れて、指などは潰れてしまっている。目もかすむ。
それでも、行かなきゃ。
そう思って、手を伸ばそうとする。あまりにも動かしにくいその手を。
しかし自分のすぐ近くに何かが立っている。とても大きい。嫌でも見えてしまう、それをイルはかすむ目でとらえた。
山の神様?
イルはぼんやりとそう考えてしまった。
かくも恐ろしい、厳しさに溢れた巨体。
父さんたちが討伐したっていう熊でも、こんなに大きくはなかった。
これは多分、山の神様なんだろう。
死のうとしている私を、神様が迎えに来たのではないかと。イルはそう考えた。
そのことは、血の足りていないイルの頭の簡単に入り込んだ。この大きなものは神だと。
それでもまだ、ここで死ぬわけにもいかない。
神様には待っていてもらえばいい。
弟が大怪我をしているんだ。助けなきゃいけない。放っておいてはいけない。
弟の体を目指してどうにか、イルは這って進もうとする。逃げるにしても、どうするにしても、まずは彼を確かめてからだ。
折れた腕はとても動かしづらかった。つぶれた指は、地面をつかめなかった。
そこに声が落ちてくる。
「お前を救うことはできる」
神様がそう告げる。
イルはその場から離れようと手を伸ばすことをやめた。
救う、だって。
いや、私が救われても仕方がない。まずは、エズリを。
イルは少し離れたところに倒れ伏す弟の赤い体を見やった。
彼がもう一度立ち上がってくれるのなら、それで私はもうどうでもいい。
なんとか彼を救えないものなのか。
イルはそう願って竜を見上げる。
竜は彼女の願いを察したが、首を振った。
「残念だが、その者はすでに死んでいる。死んだ者は生き返らない」
そうか。
やっぱり死んでしまっているんだ。
イルは竜の言葉を受け入れた。そんなはずはない、とは思わなかった。自分でも無理に彼が生きているかも、と思い込もうとしていたのである。
やはり、誰が見ても今のエズリが生きているとは思えない。あれほど血を流して、しかもぴくりとも動かないのだ。
竜がその爪を再びおろして、倒れているエズリの体をイルに近づけてくれた。
イルは、そのエズリの体に精いっぱい手を伸ばして触れてみたが、全く命が感じられなかった。死んでいる。
自分たちが弓や罠で仕留めてきた獲物のように、エズリは動かなくなってしまったのだ。
矢で射止めた鳥やウサギのように。罠で仕留めた猪やシカのように。その目は濁って、体はぴくともしない。治療をしても、いくら待っても、二度と動き出すことはない。
イルはそれを信じたくはなかったし、また信じられなかった。彼女の心は幼く、その衝撃を受け止められるほどには育っていなかった。
エズリを傷つけ、奪った帝国兵たちを見た時には何としても取り返そうと両手を振り上げたが、そのやり場がなくなった。ただ悲しむしか彼女には残されていない。
かわいそうに、なにも報われないまま、痛い思いをして死んでしまった。
こんなこと。どうして、なぜこんなことになったのか。私は、いったいどうすればよかったのか。
私が何か間違ったことをして、神様の怒りにふれたのだろうか。自分の力が足りなかったのだろうか。ああ、そうだとしたなら。
ごめん、エズリ。守ってあげられなかった。
イルはひとしきりにそう謝って、それからどうしていいかわからずに下を向いた。
彼女はただただ、悲しみに打ちのめされている。
「お前もまた、そのままでは死に至る怪我を負っている。
だが、途方もない苦痛と引き換えにならば、お前は生き延びられる。生きてさえいれば、人並みの幸せもつかめるかもしれない」
人並みの幸せという竜の言葉。それはイルやエズリを農具小屋に隠した村の大人たちも願ったことだ。
しかしそのようなものは、今の彼女にとって何の救いにもならなかった。
いまだ幼いイルにとって、世界とはこの山村のことなのだ。彼女の幸せはどういう形にせよ、この山村に根差したものでなければならなかった。それ以外のものはまだ想像すらできないのだ。したがっていまの彼女が幸せになれるのは、山村が元通りになって、村人たちが生き返ってきたときだけなのである。
それは無理なことだった。
仮にここへ、別の人たちを何らかの方法で集めて村と呼べるものを作ったとしても、それはイルの望むものではない。
もうすでに村は、滅びてしまっているのだから。どうにもならないのだ。村の中で生き残ったのはイルだけだ。たった一人だけだ。
イルの心はあまりにも大きな悲しみに焦がされている。
大人たちは、鉄の銃弾に撃ち抜かれて死んだ。女たちは、冷たい地面に組み伏せられて、痛みと屈辱の中に殺された。
そしてエズリはその必要もないのに傷つけられてしまい、そこの地面に転がっている。ぴくりとも動かない彼の身体。それが熱を失って、冷たくなっていくのがなんとなくわかった。
イルは、弟に向かって伸ばそうとした手を、思い返して引き戻し、痛みをこらえて涙を払った。
「山で悪いことをすれば、必ずばちがくだる。自分がしたことのぶんだけ、行いがかえってくるのだ」
大人たちがそう言っていたことを、不意に思いだしたのだ。
だが、あれほど悪いことをした帝国の兵士たちには、ばちはくだらなかった。目の前の神様がたった二人を倒したけれど、多くの帝国兵は村人たちを散々にいじめて今も生き延びている。
だったら、私がばちをくだすんだ。
イルの心が、そのような黒い恨みに汚れた。
死んだ人たちのために、戦わなくては。
あの兵士たちは、なんの呵責もなく私たちを滅ぼしたのだ。そしてなお、のうのうと山を踏みにじっているのだ。これを許してなるものか、これ以上私たちを苦しめさせるものか。
はっきり、そう思った。打ちのめされたあまりにも強い悲しみが憎しみと怒りに変じていった。
ほとんどすべてを失ってしまった幼いイルは、自分もまた死にかけながらも必死に立ち上がろうとする。
「どうする」
神様からの問いに答えず。イルは、歯を食いしばって、手を突っ張った。起き上がろうと努力する。
幸せのためではない。あの兵士たちに、反撃するためだ。
山の神様が彼らを殺さないのであれば、私が殺す。
そう決意していた。
復讐のために、イルは立とうとする。
あの兵士たちを一人残らず殺すのだ。そうしなければならない。そのためになら、なんでもする。
村は、殺されたのだ。
イルを育ててきたそのすべては、踏みにじられた。撃ち殺された父、嬲り殺しにされた母、切り刻まれた弟、オモチャのように欲望をぶつけられた、優しかった村人たち。彼らはもう、どれほど痛かっただろう。どれほどつらかっただろう。
あの兵士たち、突然なだれ込んできたあの男たちを、絶対に生かしてはいかない。叩かずにおく手はあるか。
絶対に殴り殺さなければならなかったし、撃ち殺さなければならなかった。
イルは自分の体から何か熱いものがどくどくとあふれ出てくるのを感じている。
体の芯は燃え盛るように激しくふるえる。
心臓は破れそうだ。
彼女は傷ついた肺に空気を吸って、こたえた。
「わたしは、あいつらをゆるさない」
「苦痛に耐える自信はあるか」
「ある」
山の神の、再度の問いにきっぱりとイルはこたえる。
自分の中の悲しみが、少々痛いくらいで消えるようなことは絶対にないとおもった。
山の神、カイは頷いた。苦痛に耐えるならば、この女を救える。
レッサードラゴンのカイは舌先を噛んで血をだし、それをイルへと落とす。大きな水滴となった血が容赦なくイルの背中に降り注ぎ、しとどにぬらした。
瞬間、イルの体を焼けただれるような痛みが襲う。指の先まで痺れかえるような、強烈なものだ。
どこかぼんやりと遠くなっていた痛みが身近に戻った。頭の中に巣食っていたものが消えたようだが、冷たい空気が肌を切り裂き、折れた手足から悲鳴が上がる。
イルは叫びかかったが、喉の奥まで自由にはならなかった。
体中の皮膚を引き剥がされるようなあまりの痛みに、もうイルは全く身動きがとれない。
これほどとは。息さえできない。
だが、それでも。
幼いイルは歯を食いしばってどうにか耐えようとした。
カイは身もだえすることもできずに震えるだけのイルを見下ろして、何の手助けもしないでいる。実際、彼にできることはなかった。
竜の力の源泉である血は、イルの傷を癒すだろう。それだけでなく、以前よりもずっと強健にするに違いない。まるで、竜のように。
しかし人の身でその効果を享受するには、その体をまるごと作り変えられるほどの激痛に耐える必要がある。
レッサードラゴンのカイができるのは、血を与えることだけだった。その苦痛までやわらげてはやれない。
彼を『巣』から追い出した神竜ならば、大した苦痛も伴わずに恩恵を与えてやれたかもしれない。その傷を癒すことも簡単にできたであろう。カイにはそれができない。
イルを助けるためには、苦痛を与えるしかないのだ。
もちろん、人が竜の力を得るための代償ともいえるそれは、並大抵の痛みではない。
カイはイルの体を爪の先にひっかけるようにして、自分の『巣』へと持ち帰った。
外の寒さなど今の彼女には関係がないだろうが、なるべく死んでほしくはなかったからである。
『巣』の中に着いても、イルは垢と汗にまみれて、まだ動けない。
そのままでは飢えてしまうので、カイはイルのために手近なところから動物や鳥を殺して調達してやった。竜の大きな爪では細かい作業ができないため、血抜きさえもされていない。イルは殺されただけの鳥や動物をそのまま食べるしかなかった。
抗いがたい痛みの中でも、食わねばならないということはわかる。幸いにしてイルは山で育ったから、ある程度の野性味ある食事には慣れている。血の滴る肉であっても抵抗はなかったが、まるのままの死体にかぶりつくのはさすがに未経験であった。とはいえ、今の彼女にそれを気にする余裕もない。指先など自由にはならないので、口で食いちぎるしかない。
体中から出た汗が塩の結晶となって、垢とともに体にまとわりつく。
その日はそのまま終わった。