憎悪の理由
ハンナとイルは、あまり気乗りのしなさそうなイスハを強引にカイの背に押し上げ、帝国へと飛ぶ。
イルのコートがはためき、ゴーグルが彼女の目を守る。ハンナは手をかざして暴力的な風圧から両目を守った。イスハは無我夢中でカイのうろこにしがみつくだけで、振り飛ばされないようにするばかりだった。それでも、わずかに開いた目から見える光景に、驚愕しているようだ。
音を置き去りにするほどの速度で、レッサードラゴンのカイはとんだ。雄大な翼を広げて風を切った。
他の誰もその速度に追随することはできない。
なるほどこれは、「空の王」と呼んだイルの気持ちもわかる。ハンナはそう思う。
レッサードラゴンは重く、大きく、強い。ただ一体だけで国を一つ滅ぼせるだろう。イルがそうしてくれと願えば、彼はたやすく帝国を蹂躙してしまうだろう。だが、イルは自分の力で帝国を滅ぼすことを願う。
ハンナが頼めるのは、自分自身を輸送してもらうことだけだ。だがその機動力は抜群であり、十分すぎる助力だった。彼らは自分たちに追いつけない。
これがどれほどの利であるか。敵は自分たちを追えない。ならば、やりたい放題にできる。
同じことをイスハも思ったらしい。彼女はこう言い放った。
「こ、こんな馬鹿げた力があれば、帝国なんて。蹂躙できてしまうのではありませんか」
「かもしれないな」
ハンナは笑って答えた。カイがいかに反則的な存在であるかはよく知っている。だが、帝国の力もよく知っていた。
カイさえいれば、簡単に倒せるとは考えられない。
しかしイスハは目の当たりにした竜の力を、高く評価していた。
「竜の力で思うさまに踏みにじるのですか。帝国がかわいそうには思わないのですか」
「かわいそうだと?」
ハンナは振り返った。
にらみつけるような目で、イスハをとらえる。
「帝国がかわいそうだって言ったのか! あんな罪深い国は他にない!
あえて同情をかける意味も、価値もない」
百度滅ぼしても国土全てを掘り返して燃やし尽くしても足りないほど憎んでいる相手に、同情をかけるなどありえなかった。ハンナは唾を飛ばして帝国をなじる。
にらみつけられたイスハはその瞳の奥に燃える憎悪を見てとった。失言したと察する。
ゴーグルをかけたままのイルも振り返って、一言つけたした。
「帝国軍はもっと罪深い。交渉も妥協も必要ない」
彼らに必要なのは死だけだ、という。
貧困の中にあって、竜の血を浴びただけのイスハからすれば、そこまで帝国という大きな国に対して怒りを抱くのがわからなかった。イスハも帝国を嫌悪してはいるが、特に恨みはない。自分とかかわってほしくはない、という程度のものなのだ。
だがイルとハンナは相手を滅ぼそうと戦っている。憎悪と心を燃やして戦っている。
なぜそこまで、と言わずにいられなかった。ハンナはそれを聞き逃さない。
確かに帝国で生まれて帝国で育ったハンナが、こうも故国に憎しみを抱いているのはおかしなことかもしれない。
その憎悪はどこからきているのか。
決まっている。あのときだ。
ハンナは思い返す。
輜重部隊を離れて、イルとカイに会いに行ったあの夜。
帝国は紛れ込ませておいた特殊部隊を展開し、不意を突いてイルを撃った。そればかりか、ハンナをも証拠隠滅のために殺そうとしたのであった。
ハンナの目の前で、イルの眉間が割れて血を噴いた。落雷のような銃声とともにだ。
なぜだ。
どうしてそのようなことをするのか。
理由があるのはわかる。理屈は理解できる。だが道義というものがある。
こんな幼い子を、撃った。その証拠を隠すために竜と、私を撃った。
信じられなかった。
そこまで下劣なことをするような、そんな低俗な国であったとは思わなかった。
帝国が、とは最初思わなかった。
考えたのは、『誰が』こんな命令を出したのか、というところだった。ハンナは帝国軍の参謀だった。
帝国が決して一人の人間の意志で動いているわけではないことを知っている。竜を殺そうと決めたのは、誰なのか。自分をも巻き込んで始末しようと命令したのは誰なのか、と。
国が悪いのではない。上層部の、ごく一部がおかしなことになっている。ある程度、こうした命令を出しそうな将官は思い当たった。
さらに帝国上層部は罪逃れの言い訳に、「竜の子が約束を破ってハンナ・フォードを殺した」などと触れ回る。
ハンナは撃たれて大怪我をしたが、死にはしなかった。間一髪のところでカイに助けられ、ひそかに輜重部隊に保護されて生き延びていた。イルが咄嗟にかばってくれたおかげだったが、それでも撃たれた直後は半死半生、何もしなければもう死ぬだろうという状態であった。
意識を回復したのはかなり経ってからだったが、帝国の所業を知った時には怒りと絶望で目の前が暗くなったものである。おまけに全身を襲う激痛から、身動きすらまともにとれなかった。ハンナのことを女神と慕う輜重部隊の者たちは丁重にハンナを保護し、彼女が生きていることやその行方が絶対に漏れないように努力してくれた。
だが、帝国軍は輜重部隊に対してあらぬ罪を着せてきたのである。彼らは呼び出され、処刑された。
銃殺されたのだ! 一人残らず!
竜の子とハンナを襲撃した際、輜重部隊はハンナ・フォードとともに行動していた。その上、彼らのハンナに対する好意は非常に高いものであったため、もしかすると輜重部隊の誰か一人でも、真実を知っている可能性があると帝国の者たちは考えたのだ。喧伝している情報が事実と異なるということが流布されてはまずいため、彼らは消された。
保護されていたハンナは輜重部隊の者たち全員が協力してくれたおかげでなんとか帝国の目から逃れることができたが、彼らはただの一人も生き残ることができなかった。家族のもとへ帰ろうと逃げた者もあったようだが、数日足らずでとらわれ、殺されてしまった。
それでも、ハンナにとって帝国は故国だった。この時点では、彼女の心に帝国ごと燃やし尽くそうという考えはまだない。誤った方向に帝国を導く者たちをなんとか排斥しようと考えていたくらいだ。もとのよき国に立て直すために、自分にできることをしなければとそう思っていたのだ。
しかし、輜重部隊の者たちをとらえる命令は皇太子の名をもって布告されていた。帝国の中枢ともいえる皇帝、皇太子がそうした考えを持っている、ということなのだ。
その上このころまでにハンナの家族はほぼ全員が殺されてしまった。特に帝国軍が何か命令したわけではない。付近の住民たちが殺したのである。
「ハンナ・フォードは竜を懐柔しようと心を砕いていたようだが、何か失敗したらしく、竜に殺されてしまった。竜に恨まれた一族の者をすすんで殺し、自分たちは竜から見逃してもらおう」
彼らによるとこのような考えから、そのような凶行に及んだらしい。各地でも似たような考えがおこったらしく、帝国兵ハンナ・フォードにかかわりのある者は次々と殺されていった。
こうなっては、もう帝国に戻ることは不可能だった。自分を慕ってくれた者はほとんど殺されてしまったのである。
怒りは憎悪に変わっていた。
こんな非道な命令を出しそうな将官たちを憎むのは勿論だった。
だが、国の中枢である皇太子たちの保身に満ちた態度はどうだ。
自分たちだけでも助かろうと、何の罪もない家族を殺した帝国の者たちに、なんの咎めもなくていいというのか。
なんという、卑しい国民性よ。
同じ帝国に生まれたことが、恥だ。
ハンナはほとんど這いまわるようにして帝国各地を逃げ回りながら、帝国への憎悪を募らせていった。
なんとか帝国に対して報復をしたかったが、もう行く当てもない。国を追われた兵士がたった一人で何ができるというのか。せめて死に場所くらいは自分で決めようと、ハンナは考える。
自分を助けてくれたというレッサードラゴンのカイにもう一度会おうと彼女は痛みの残る体を無理やりにも引きずって王国との国境へ向かった。帝国はハンナ・フォードが生きているとは全く考えていなかったが、それでも自由の利かない体を動かし、人の目から逃れての移動は厳しいものであった。彼女の人生の中で、おそらくもっとも緊張感にあふれた旅路。
その果て、やっとの思いで竜と再会した。そうして彼女は、知った。
「竜の子」がいかに恐ろしい存在であるかということと、自分も竜の血を浴びたということ。イルが生きていたということ。彼女が自分をかばってくれたということ。
全身に針を突きさされたような激しい痛みは、体を作り変えられるためのものだったということも、そのときにやっと知った。
それから、帝国を滅ぼすための力が手に入ったということも。
ハンナは決して、帝国を許さない。滅ぼして、消すつもりだった。
「ハンナ、大丈夫?」
「ああ」
不思議そうにイルが自分の顔を見ていることに気づく。
どのような誹謗をうけようと、かまわなかった。彼女たちは行動をおこす。