生きていた帝国兵
銃を構えた女が見える。女というには、若い。成年に達しているかも怪しいくらいに、若さが見える。
伸ばして後ろでまとめただけの、いかにも兵士という髪を振り乱し、飛ぶような速度でこちらに向かってきた。それがあまりにも速い。双眼鏡を通してみている余裕は、たちまちなくなってしまった。
イスハは双眼鏡を投げ捨てた。皇太子の命令よりも、自分の命のほうが大事だからだ。
肉眼でもこちらへやってくる女は容易にとらえられた。新式銃よりも格段に大きく太い銃を持っているが、それをこちらに向けている。
のんきに眺めていては、撃たれる。撃たれたところで死ぬようなことはないが、飛行船を撃ち落としたのがあれだとすれば、普通の銃ではないのだろう。避けたほうがいい。そう考えて、咄嗟にイスハはその場に伏せた。持ち物を探る。今持っているものを確かめようと、背負っていたザックを引き裂いた。中身を取り出す。奥のほうから転がり出てきたのは、分解した新式銃と手榴弾。万一戦闘になった時のために詰め込んでおいたものだ。
それらを引っ張りだし、新式銃を組み立てる。逃げる、という考えは浮かばなかった。
あの相手からは逃げられないだろう、と思えたからである。今ここで戦って、勝つしかない。
20秒もかからず、バラバラだった銃は組みあがった。弾薬を込めて、構える。
こちらへ飛んでくる敵の姿は、はっきり見えた。イスハは容赦なくそれを撃つが、かすりもしなかった。敵の動きが速すぎる。
「しっ」
舌打ちをしてから、くみ上げたばかりの銃を投げ捨てた。だめだ、こんなものは役に立たない。肉弾戦しかなかった。
おそらくこの女が、『竜の子』なのだろう。何万人もの帝国兵をたった一人で殺しつくした女に違いない。だというのなら、銃などで殺せるわけもない。
鉄骨をも捻じ曲げる、自分の肉体で相手を叩き伏せるしかなさそうだった。
極貧の極みで暮らしてきたイスハにとって、暴力は最も避けるべきこと。しかし血を浴びてからは、あふれるほどの体力と筋力を得ていることから、戦いを避ける理由がない。
むしろ避けようとしても、無駄だった。皇太子によって獣とも、兵士とも、犯罪者とも戦わされた。そのすべてに勝利したが、エイリーやオスマとの戦いは面倒だったと記憶している。
模擬戦という名目で行われたその訓練は、弾薬や武器がほとんど役に立たない、肉弾戦だった。
たぶん、今から始まるこの実戦もそのようになるだろう。イスハは両手を持ち上げて構え、とうとう目の前にやってきた『竜の子』らしい女を見つめた。
敵は、帝国兵を何万人も殺した悪魔!
普通なら憶するところであった。それでも、イスハとて戦いに勝ってきたのである。
とにかく何をするにも金もなく体力もなく、食べ物も事欠くありさまだったイスハが。相手を叩き伏せることができたのだ。屈強な男たちにも無理やり組み敷かれることもなく、跳ね返すことができた。勝てた。
今の自分は無敵だった。竜の血を浴びて、数多の苦痛を受けて、それでもなお生き延びたのだ。結果、誰にも負けない強靭な肉体を手に入れた。自分は変わったのだ。物語の中の英雄のような、圧倒的な強さをもっている。
他の誰にも自分は倒されないし、殺されないという自信があった。イスハはいざとなれば目の前の女も叩き伏せて、なんとかしようと思っていた。そうできると信じている。
相手が悪魔なら、こっちは魔王だ。女帝だ。
気合を入れた。
敵は小柄な体に合っていない、少しブカブカの軍服を着ていた。袖や裾を無理に折り返して着ている。銃はまだ手放さず両手に持っているが、銃口は下げられている。撃つ気はないらしかった。頭の上には軍帽が乗っていた。
その目は鋭く、まるでこちらを見透かすようだったが、恐れるほどの色ではない。
「お前も帝国兵か」
と、『竜の子』が問いかけてきた。
「お待ち下さい、こちらは突然に銃を向けられて困惑しております。あなたは何者ですか」
質問は無視したが、必要以上に相手を刺激しないよう、丁寧語でイスハは質問を返す。間合いをはかっているのだ。会話でつなぎながら、相手を一瞬で叩き伏せるイメージをつくっていく。
女は誰何にこたえて、言った。
「私は元帝国軍人の、ハンナ・フォード。お前が持っていた銃は帝国で採用されているものだし、あの飛行船からお前が下りるのを私は見ていた。
お前は帝国兵なのだろう?」
ハンナ?
イスハは思わず思考を止めてしまった。
『竜の子』の名は、イルという。そんなことは誰でも知っている。
なにしろ、帝国軍の本営を占拠した『竜の子』が自分でそう言ったのだ。そうしたうえで、一切の交渉は受け付けない、これからお前ら全員を殺すと宣言したのである。
しかし目の前にいる『竜の子』は、元帝国軍人のハンナ・フォードだと名乗った。つまり、目の前のこの女は『竜の子』ではないらしい。
いや、それ以上にハンナ・フォードといえば帝国軍でその名を知らぬものはない有名人である。たった一人の『竜に殺されない帝国兵』だ。それが生きていて、帝国に対して明確に反旗を翻している。イスハはこの事実を帝国に伝える必要があった。いや、命を惜しむのならまず逃げるべきであったかもしれない。
とはいえイスハも竜の血を浴びた一人である。圧倒的な力を手に入れたという全能感が後ろ向きな選択肢を消していた。
「やめましょう、同じ帝国の仲間で争っても利益はありません」
イスハは口を開き、心にもないことを言った。ただの時間稼ぎ、それと気を引くための会話だった。
飛行船を撃ち落としたのは間違いなくハンナなのだから、彼女は真っ向から帝国に反抗する気でいる。交渉でなんとかなる確率は低かった。
もう少し、あと半歩下がりたい。そうすれば、一足飛びに、最高の速度で殴りつけることができるのに。それさえ決まれば勝てる。
「そんなことより質問に答えることだ。お前は帝国兵か?」
「いいえ。私は皇太子によって募集され、竜の血を浴びただけ。頼まれごとはしましたが、軍属は拒否しました」
これは半分嘘だった。皇太子は血を浴びて生き残った5人をすべて、帝国兵として登録している。
命令系統を確実なものにするための一時的な措置であり、『竜の子』を倒したあとは任期満了として抜けてもいいし、続けてもいいとしている。
「ああ、お前がそうなのか」
何か得心したらしく、ハンナは頷いている。
竜の血を浴びる人間を募集しているというのは隠していないので、ハンナが知っていても不思議ではない。
「帝国兵でないなら、すまなかったな。あの船は軍のものだったから、乗船している以上軍属だと思っていた。巻き込んで済まない」
「いえ、私の任務はただの監視と報告。直接の手出しはしないと約束しますので、ここは見逃していただけますか」
と言いながら、少しずつ利き足を後ろに下げていく。飛びかかる準備だ。
イスハにも、今の時点でハンナ・フォードが生きていた場合、帝国にとって不利なことしかないということくらいはわかる。
実は帝国の宣伝部はハンナが帰還していないことを知ってからすぐに、『竜の子』がハンナを殺し、ついにその残虐な面を見せたと散々に喧伝したのである。
たった一人助けると約束していたハンナをあえて殺し、約束を反故にして襲い掛かってきた、などと彼らは伝えている。帝国としては一方的に竜のほうが悪いということにしなければ、都合が悪かったのだ。
「よし、ならば帰って帝国の偉い人たちに伝えるんだな。ハンナ・フォードは生きていると」
背丈は少し小さくなったが、と最後に付け加えて言い、ハンナは銃を肩に担いで、くるりと背を向けた。
なんと、交渉は成った。
ハンナという帝国軍人はよほど、血を好まないのだろうなと思った。だが、彼女を見逃すかと言えばそんなことをするわけがない。ハンナは死なねばならない人間だった。
標的は後ろを見せている。がら空きの背中が見えた。
イスハは思い切り地面を蹴りつけた。獰猛な肉食獣のように、彼女はハンナの首元を狙って右腕をふるっていく。
悪いけど、とか。何の恨みもないけど、とか。
そうした許しを請うような言葉は胸の内にも全く上がってこない。
とった。
イスハが確信した瞬間、敵の肩に担がれていた銃口が火を噴いた。わずか後、大地を揺らすような轟音が鼓膜を打ち、同時に脳天に割れるような衝撃を受ける。
あまりの凄まじい衝撃に彼女の攻撃は腰砕けになり、その場に足を踏むこともできない。
自分が飛び出した勢いそのまま、もんどりうって倒れこむ。
滝のように血が流れだした。目が見えない。
体中の感覚がない。
自分が立っているのか、倒れているのか、落ちているのか、よりかかっているのか、もうわからなかった。
「私にだましうちなんて、きくと思ったのか。これでも参謀だったんだ」
「わ、わたし。そんなつもりじゃ」
咄嗟に言い訳しようと口を動かす。そうしながら地面をつかんで立ち上がろうと無理に膝を立たせてみるが、震えてしまう。それに、バランス感覚が機能していない。なんとか立ち上がろうと腰を上げてみたが、立てずに倒れてしまう。
「死にたくないか?」
「死にたく、ない」
意地で、どうにか起き上がる。膝で立って、血に濡れた目をこすった。
イスハは、銃を構える女を見据えた。
あの銃は、馬鹿げた銃だ。あんな銃があるなんて、知らなかった。尋常じゃない。
イスハは対竜ライフルの存在を知らなかった。当たり前である。皇太子が教えていなかったのだ。
軍事機密であるという以前に、彼ら5人が自信を喪失することを避けたかったのである。自分たちを殺しうる兵器がある、ということなど知らないほうがいい。そのほうが自信たっぷりに無鉄砲に、言い換えれば勇敢に突っ込んでいくだろう。
そして何より彼らが裏切った際には抑止力として働いてくれる。
このような理由から、皇太子は対竜ライフルの存在を伏せたのであった。
「こんな銃があるとは知らなかったか、イスハ」
「知らなかった!」
正直にイスハは言った。
ハンナはそれで、皇太子が彼らに対竜ライフルのことを黙っている理由も想像できた。
「ふん、少しは読めてきたな。それで、お前はどうする。ここで死ぬのならとどめを刺そう。それとも」
立ち上がれないイスハは、もう黙ってハンナの目を見た。生まれてまだ間もなかった全能感は、早くも砕かれていた。
彼女の中に満ちていた自信の炎は完全に消えてしまっている。
貧しさから強いものに震えて、頭を下げて這いつくばっていた頃のイスハが、今の彼女を支配している。
ああ、この銃で飛行船を撃ったんだ。あんなので撃たれたんだったら、私なんかひとたまりもなくて、当たり前だった。
死というものが、再び身近に感じられている。そこまで迫っているのだ。
この場はハンナが支配している。彼女は、イスハを殺せる。その理由もある。
これまでイスハに暴力をふるってきた者は、誰も彼もみな、酷薄な笑みを浮かべてきた。いじめるのが楽しい、といわんばかりの笑みだ。そうでない者の暴力は、しのぐことがたやすかった。少し我慢すれば皆去ってくれたものだ。しかし、笑っているものは執拗であり、非常につらい責めをくわえてくる。
イスハは、ハンナの口元がその酷薄な笑みにかわったらどうしようかと、恐れた。せめて見なくて済むようにと下を向いて、彼女がどのような攻撃を仕掛けてくるのかと待つ。殺すのならできるだけ苦しまないようにしてほしいと願いさえした。冷汗が背中に噴き出しているのが感じられた。
裁きを待つような格好になっているイスハを見下ろし、ハンナは一言だけ投げかけた。
「それとも……降参か?」