王国軍の火種
少しまどろんでいる間に、誰かが髪に櫛を通していたようだとイルは感じた。
そして今も、誰かが自分の髪を触っている。少し首を動かして確かめると、慰安部隊のサウティがイルの髪を四苦八苦しながらも三つ編みにしていた。彼女の手は帝国の拷問によって人並みの器用さを失っている。三つ編みにするのは難しいだろう、それでも楽しそうだ。
イルもそんなことをしたことがある。優しい近所のお姉さんの、長い髪に櫛を通すのが好きだった。三つ編みにしてしまうのが楽しかった。
だが、もうそんなことはできない。
帝国軍の前線基地をつぶしてから、しばらくの間はろくに眠りもしないで飛び回っていた。主に後片付けのためにだ。弾薬の回収、帝国軍の残した情報収集などをしていた。死体の片づけということもあった。
弾薬の回収については、対竜ライフルの予備や弾丸を確保できたので無駄ではなかった。情報収集については、あまり効果がなかった。ほとんどの情報について、イルが価値を見出さなかったということもある。ギイ司令官に知らせれば喜んだのかもしれない。
死体の片づけが一番の面倒ごとだった。いかにイルの力が強くとも、小さな女の子なのである。バスタブのような入れ物に十以上の死体を入れて軽々抱えられても、イルが殺した数はその一万倍近い。死体は腐りかかり、虫がたかり、不潔だった。
自分がまき散らした死の後始末をつけるなんてことは、イルがわざわざする必要などなかった。放っておけば、ギイ司令官が兵隊を引き連れてやってくれただろう。しかし彼女はそれをしたのだった。
別に頼まれてやっているわけではないし、そもそもイルは帝国兵たちを埋葬しているわけではない。地面に掘った穴に、ゴミのように捨てているだけである。
理由は簡単である。山村で死んだ者がそうされたからだ。同じことをやり返していた。
ここでもイルは疲れなどないように動き、淡々と処理し続けた。カイも手伝おうと申し出たが、拒否されている。
彼女を見守る立場のカイとしては、彼女が心配にもなる。
レッサードラゴンのカイは、適当な理由をつくって王国軍の陣地に降り、イルを休ませようと努力した。その結果が、これである。
立ち寄った王国軍の基地でうたた寝をしてしまったのだった。一通りアザリやギイと話したのち、木陰で休もうと座り込み、疲れから目を閉じた。
王国軍の基地にはアザリなど味方が多いこともあって、イルは警戒を緩めている。そのゆるみがそのまま体に出てしまい、疲労は彼女を眠りにつかせたのだ。
カイとしては思惑通りにいってしめしめといったところであるが、そうしているところをサウティに見つかってしまった。というよりは迂闊なことを他の兵士たちにされないように護衛についてくれたのだろう。そのついでに髪の痛みが目立ったので梳いてくれた。三つ編みにしているのは単に彼女の趣味かもしれない。
王国の慰安部隊はアザリとサウティだけではなく、他にも大勢の女がいる。彼女らの生活用品を整える役目の男も少数だが慰安部隊に所属しているといえた。
この慰安部隊にいる者たちはイルにたいしておおむね、好意的である。トップであるアザリはもとより、サウティもこのありさまである。
他の者たちにしても、大っぴらにしていないだけでほとんど同じだ。竜の子といわれていてもイルの見た目は幼い女の子にしか見えない。これが彼女たちの庇護欲を刺激していた。
むさくるしい男たちを慰めるのが仕事ではあるが、小さな女の子の頭をなでてやりたい、お菓子をあげたい、と彼女らは思っている。
一方、ひとりで帝国軍をつぶして、自分たちの活躍を奪ったイルにたいしてよく思わない兵士もそれなりにいる。
ギイ司令官の周辺にいることを許された、地位や気位、さらには士気も高い、優秀な兵士たちである。我こそが外敵を駆逐せんと意気込んでいた兵士たちである。彼らはイルを嫌っていた。
一か月以上にわたって帝国軍をこの地に縛り付け、膠着状態を作っていたギイ司令官の手腕を見よ。敵は慣れない土地で疲弊していくばかりだ。これから先の戦闘においては不安もなく、ノコノコやってきた帝国兵たちを一人残らず殺してやろうと息巻いていた矢先、横からどこの誰ともわからない女に獲物を狩られたのだ。憤慨しているといってもいいくらいである。
アザリやサウティはそうした兵士たちの気持ちに気づいていたので、彼らの目からイルを隠し、時にはかばっていた。今ここにサウティがいるのも、その一環である。
目を覚ましたイルがサウティに礼を言いながら両目をごしごしこすっている間に、彼女たちの前に王国軍兵士の一団がやってきていた。
これが間の悪いことに、イルを嫌う者たちであった。
「あれが噂に聞いた竜の子か。ずいぶん細いな」
兵士の一人が嫌そうな目を向け、そんなことを言う。もちろん聞こえるようにいったつもりだ。
『竜の子』は聞こえているのかいないのか、反論しようともしないで帽子をかぶり始めた。さらに上からゴーグルを重ねている。
そうしているさまは、普通の女の子だった。兵士たちはますます、信じられない。どうやったらあのような子供が一人で、帝国軍をつぶせるのかと。
どう考えても無理だ。ちいさな少女ひとりが何をしようとも、優秀な兵士を集めた帝国軍の前線基地をつぶすどころか、そこへ近づくことも難しい。やはり、竜に頼ったのだろう、と彼らは考える。
竜の力なら簡単に帝国軍は追い散らせる。簡単だ。
この子供はそれを隠して、ほとんど自分一人でやったなどとうそぶいて。忌々しい、と彼らは思う。
イルがギイ司令官に反発し、彼の目論見を悉く潰していることを知っている者は、余計にそう思ったことだろう。ギイ司令官は王国軍にとって比類なき英雄なのだ。
そして今そこにいる彼らのほとんどが、ギイ司令官の思惑がうまくいっていないことを知っていた。彼らはイルに対し、嫌悪感を隠さない。
竜の力に頼り、その容貌すら生かし、媚びて取り入り、王国軍をいいようにしようとしているとさえ思っているのだから、当然である。
なんとかして排斥しようと彼らは決意する。そこで、ついに『竜の子』に対してずんずんと歩いて近づいた。
「お嬢ちゃん、どうしたんだこんなとこで。ここは軍人さまの基地なんだぜ、お子様がくつろぐところじゃないんだ」
威圧感たっぷりに凄み、イルを怯えさせようとする。
話しかけられて、イルは後ろを振り返ってみた。そこには誰もいなかった。どうやら自分に話しかけているようだ、と認識する。
それをのんきにしていると受け取った王国兵たちは、我慢ならずに怒鳴りつける。
「貴様!」
先頭にいた男が、イルの胸ぐらをつかみ上げようとした。軽く下がって、イルはこれをかわす。
言うまでもなく相手の身を案じたからであるが、これを王国兵は挑発と受け取ってヒートアップする。
「竜に頼り切って帝国兵を追い散らしたくらいで、調子に乗っているんじゃないぞ。竜がいなきゃあお前はただの子供」
「そうだ、それに身のほど知らずにギイ司令官の提案を蹴っているようだな。お前が何をするより、司令官に竜をゆだねたほうが帝国は早く崩れるだろうに。子供の遊びもたいがいにするべきだ」
「ギイ司令官はお前が無責任に打ち倒した帝国軍基地の後始末に忙殺されているんだぞ! やらかしたお前はこんなところで油を売りやがって。少しは働いて見せたらどうだ!」
イルは左隣にいたサウティに目をやったが、彼女はイルほど落ち着いてはいなかった。
激怒していた。
「何を言っているんだ」
と、嗄れた声でサウティがいう。ひどい声だった。
手袋をしたままの手を開いて、サウティはかすれた声を張り上げた。
「自分たちに代わって戦ってきた子供に、お前たちは何を言っているんだ。手柄を奪ったイルに、やきもちを焼くようなことをしている場合なのか
、ばかが!」
サウティは完全に怒り狂っていた。
もともと帝国の人ではあるが、彼女の帝国に対する恨みは非常に深い。帝国兵をさんざんに打ち倒し、捕虜の者たちをも苦しめて殺してくれたイルは、サウティにとってすでに大事な仲間であった。
「なんだと、帝国人が」
「かばいだてするってことは、こいつら帝国兵と内通してやがるのか!」
と、短絡的にも王国兵らはイルとサウティが帝国とつながっていると結論付けた。そのような事実はないし、それはギイ司令官も知っている。
だが、嫉妬に燃える彼らはイルとその味方を攻撃できる材料を見つけて起爆しようとしていた。今にも銃を抜きそうな気配すらある。
サウティは武勇に秀でない。どころか、体格もよくない上にひどい怪我の後遺症からまともな労働ができないありさまである。左右の指も足りないので銃を撃つというだけでも一苦労だ。
それを王国兵たちは十分に承知しているが、彼らは弱い者いじめという言葉を忘却していた。
王国兵は怒っている。
サウティも憤慨している。
イルは全く平静だった。何を言われようが、何も思わない。どうでもよかった。
「サウティ、いい。私は気にしていない」
それでも友人と呼べる存在になったサウティが怒っているので、イルは場を収めようと宥めにかかる。
しかし王国兵の嘲笑と挑発はやまず、サウティの怒りも小さくならなかった。王国兵に嫌われようが、悪評を立てられようが、べつにイルは困らない。彼女はハンナ以外の帝国兵を絶滅できればそれで問題ないのであり、王国兵たちの称賛をうけるために活動をしているわけではない。だが、優しくしてくれているサウティやアザリが傷つくのは、できれば見たくない。
強引に解決するなら、王国兵を打ち倒せばいい。カイかギイ司令官を呼んでもいい。
しかしそれでは根本的な解決にはならないし、サウティの怒りがおさまらないだろう。面倒くさいし、自分に害をなそうとしているのだから構うまい、全員撃ち殺すか、と考えかかったところで頭上に何かが飛んできた。
大きく黒い鳥だった。
イルは咄嗟に右手を高く掲げる。飛んできた鳥が吸い込まれるようにそこへ止まる。鷹のような鋭い顔つきの、猛禽類だった。
影魔のエマが戻ってきたのだ。彼には帝国軍の動きを探るように伝えていたから、戻ってきたということは何か収穫があったということだ。
「鳥、だと?」
何やら王国兵が戸惑いの声を上げたが、それきりだった。
「ふうん」
と、イルが情報を受け取って呟き、それからすぐにサウティにこう伝えた。
「サウティ、急いでここから逃げたほうがいいと思う。アザリも」