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風の王  作者: zan
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燃やされる村

 小さな山村が確かに存在していた。

 そこでは人々が狩猟と農耕をしながら、山に宿る神を信仰し、つつましく暮らしていた。


 『イル』という小さな女の子がこの村にあった。彼女には弟があって、こちらはエズリという。

 二人とも淡い色の髪をして、愛らしい顔立ちだった。弟は姉に懐いていて、どこに行くにも二人は一緒に行きたがった。

 山村に育ったイルは質素な服に身を包んで、自分で削った弓を背負って、小さいながらも狩人として仕事をこなす。まだまだ幼かったが、イルは不思議に手のかからない子供だった。弟ばかりでなく年下の子供たちの面倒をみてのけている。

 わがままを言って大人たちを困らせるということがほとんどなかった。反対に、弟や年下の者たちのわがままに悩まされていることの方が多い。そんなときにも怒鳴ったり、ふてくされたりということをしなかった。ただ困って、興奮している子供たちをなんとかなだめようとするような子だ。

 そんなイルも、教えられた狩りや漁について真面目に取り組んだ。山の民は男にも女にも、狩りの仕方を教える。家事も教える。村のしきたりを教える。役割分担はあるが、村人全員がすべての仕事を少しずつでも覚えているほうがいい、とされたからだ。

 イルは小さいながら弓の作り方を教わった。罠で獲物を捕らえる方法も教わった。エズリも姉の真似をした。他の子供たちも、みんなイルについていった。

 同じ村の子供たちのなかでも、イルの弓はかなり上手だった。作るのも、射るのもうまかった。エズリはそんな姉が誇らしかった。

 技術的に習熟していて、しかも彼女を慕う者がたくさんいるとなれば、その者たちは自然に彼女に教えを乞うことになる。


「イル、弓の弦がかからないんだけど、どうしたらいいの?」

「狙ったところに飛ばない。コツとかない?」


 イルはそのように話しかけられることが増え、その一つ一つにこたえた。

 それが続くうちに、大人たちからもそういう役割を振られるようになり、子供たちのまとめ役と認識されていった。本人からしてみれば、面倒をみていたらいつの間にか教師役を任されていたという具合である。

 こうして教える側に立ってしまったイル。彼女自身はそれを苦にも思わなかったが、自分自身の修練にあてる時間は減ってしまった。

 ところが、かえって技術の習熟が進むことになった。他人に教えていると、それがよい復習になったのである。そしてまた、自分を慕う者たちに恥ずかしい姿は見せられないという気持ちも生まれ、習得意欲も以前より増した。


「私ががんばっておかないと、みんなに教えられない」

「格好いいところを見せないと、ついてきてくれるみんなに申し訳ないから」


 そんな気持ちが、イルの努力を後押しした。長じてこれが、彼女の責任感を強固に育てた。イルは模範的な狩人として、あるいは技術者として育っていく。

 まだまだ大人とはいえないが、彼女の性質はおおよそ、善として完成されつつある。

 村人たちはイルに一目置いた。

 このまま成長すれば、誰もが無視できない、大物になる。あるいは、村を率いる存在になるだろう。もしかすると、このような狭い村に収まらず、王都へ出て活躍するかもしれない。 


「イルは物覚えもいいし、聞き分けもいい。それに信仰心も篤い。

 それに、他人を害するようなことを考えられない、素晴らしい子だ。きっといい狩人になるだろう」


 父親はそう言って満足そうだった。母親も笑って頷いた。


「その上料理も心得て、気立てもいいし、面倒見もいいときてるんだから、もしもお嫁にいっても安心じゃないか。町で一度くらい勉強させてみるのもいいかもしれない」


 優秀なイルは一家の誇りだった。もちろん、親の欲目というものがずいぶんたくさん絡んでいるが、それでも彼女が愛されているということは変わらない。

 弟のエズリもイルに頼ってばかりはいられないと自分で色々とやっているようだ。

 彼もいずれは成長し、頼れる男になっていくことだろう。しかし今はまだ、幼く弱い。彼が強くなるには時間が必要だ。


 イルたちの暮らすその山村は『王国』の領内に存在している。

 しかし王都とはかなり離れていて、山村があるのは帝国との国境に近かった。

 帝国は、これまで王国とはあまり関わってこなかった。だから国境などというものは山村の者もあまり意識せず、それまでどおりのやり方で山から恵みをもらって暮らしていた。


 村は全く、帝国のことを考えていなかったといっていい。

 逆に帝国の者たちは王国のことを強く考えていた。王国には豊かな食べ物と、それを作り出すだけの大きな田畑、さらには地下資源がある。これを手に入れようと、帝国は王国へと軍隊を出発させていたのだ。

 帝国軍はいましも、まっすぐに山を越えて敵国の急所を突こうというところである。この攻撃は、帝国の命令でされている。もしも失敗するようなことがあれば、帝国にそれだけの能力がないということになってしまう。必ず成功させなくてはならなかった。

 軍人である彼らとしても、敵国の人間の命を大事にはしない。そのようなことは最初から頭にもなかった。経路に決まった道々の途中にある集落や村は、すべて制圧していくことが決まっていた。

 制圧といっても、話し合いで協力してもらうということではない。暴力で押さえつけ、何もかもを奪いつくすつもりだった。食べ物も、女性も、寝る場所も、全部。

 このような考えは当たり前にまかり通っていた。この戦闘に参加している帝国軍人の中に、村人たちがかわいそうではないか、などと考える者は一人もなかった。

 今まで戦争が起こった時には、ずっとそうしてきたのだから。


 銃と爆薬をもった帝国軍は予定通りに容赦なく山に踏み入った。

 そうして、まっすぐにイルたちの暮らす山村にもやってきたのだった。

 彼らに良心の呵責などというものはなかった。食料は徴発し、女たちは兵士らの慰安のために召し上げる。男たちは後腐れのないようにまとめて殺してしまうだろう。用済みになった女も後を追わせるつもりでいる。

 だから、師団を率いてやってきた帝国軍は村人たちを前にしても全く何も思わず、


「この村は、我々が制圧する。食料と寝る場所を提供したまえ。それと、兵士たちの慰安のため女たちをよこしてもらいたい」


 このような破廉恥極まりない言葉を、一軍を預かる指揮官が言えてしまうのだった。

 帝国兵としては当然の行いであったが、攻め入られた山村の側からすれば、理不尽そのもの。

 村人たちは激しく反発した。帝国軍が相手だといっても怯えすくむようなものはない。


「ふざけたことをぬかすな、今すぐ出ていけ」

「出ていかないというなら叩き出してやる」

「誰がみすみす自分たちの妻や娘を外道どもに差し出すか」


 このようなところでたちまち意見は統一され、村人はそれぞれ銃や山刀を手に帝国兵へと挑んだ。

 敵は圧倒的に多勢であったものの、自分たちの家族や住むべき場所を守るために気迫も十分。幼子の一人までその意志は伝達された。村の平和を脅かす外敵がきたのだと、誰もが認識したのだ。

 村の総力をあげ、敵を追い払うために戦う。一大決戦であった。

 イルの父親も当然、銃をもって帝国兵に挑んだ。

 あのような挑発的な言い方をしてきた以上、ここで戦わなければ、村には隷属か死しかない。いや、隷属したところで最終的には恐らく殺されるだろう。

 愛する妻を、賢いイルを、幼いエズリを、どうして帝国などに引き渡せるだろうか。戦うしかなかった。


 ところが帝国が制式採用している新式銃は、村人たちが扱う猟銃とはまるで別次元の性能であった。

 集まった村の男たちは、突撃しかかるそのほんの一瞬間に撃たれた。ばたばたと男たちが倒れ、簡単に決着がついた。弾丸の雨が降り注ぎ、男たちは無力化されていく。

 司令官らしい帝国の男は、何の遠慮もなく一斉射撃を指示しただけだ。ほんの数秒で決着はついた。血みどろの男たちが倒れる。


「まだ死にたいものがあるのなら、遠慮なくかかってきていいぞ」


 その様子に満足した司令官がそう言い放ったが、もう男たちに立ち上がるような力は残っていなかった。

 誰も帝国に逆らえない。

 イルの父親は、わき腹に銃弾を食らって倒れたが、まだ生きていた。周囲の男たちのほとんどは即死するか意識を失うかしていたが、彼はまだなんとか体力を残していた。

 このままではいけない。村は、踏みにじられてしまうだろう。愛する家族は嬲り殺しにされる。

 彼は最後の力を振り絞り、傷の痛みも無視して敵の司令官へと狙いを定め、飛びかかろうと試みた。

 しかしその行動も、油断していなかった帝国兵たちの射撃によって止められる。父親はその一撃で今度こそ完全に動かなくなった。


 他に生き残った男たちも、戦えそうなものは次々と殺されていった。

 やがて女子供や、病人といった戦えない者だけが村に残った。こうなってはどのような未来になるかわかっていても、帝国へ膝を屈するしかない。


 しかし女たちもただでは身を捧げなかった。

 刃物を隠し、帝国兵たちの不意を突いて刺殺しようとする者も何人かいたし、村の外へ逃げようとした者もいた。

 ところが帝国兵の数は村人よりもずっと多く、村は完全に包囲されていて逃亡は不可能だった。そして、女たちにも身体検査は入念にされたので女たちの報復はまったく実を結ばなかった。

 

 それでも幼い子供たちや、凌辱されることがわかりきっている少女たちは、巧妙に隠れて生き延びようと試みた。床下や、物陰に隠れているように言いつけられた子供は多かった。

 帝国兵が通り過ぎたのち、なんとか生き延びられるようにと願いをこめ、子供たちは隠される。

 なかにはより幼い子供たちが見逃されるようにと、わざわざ見つかりやすい場所に隠れる子供もいた。少しでも兵たちを満足させて、他の者たちが虐げられぬようにと、自分から出ていく女もいた。

 山村がとれる、最後の抵抗だった。


 ともあれ帝国は山村を支配したのである。帝国軍からすれば、このようなものは戦いともいえない。

 ゆえに、王国領土内の山村にて補給を行ったという一文が日誌に付け加えられただけだ。戦いがあった、などとは書かれない。


 村人たちは勝てなかった。まず、銃の性能が違いすぎたのである。

 帝国の扱う小銃は改良を重ねられた傑作のものであり、排莢も次弾装填もすべて自動で行われる。8発までは連発が可能であり、それ以降も装弾子クリップを交換するだけでまた8発撃ち込める。

 山村で使われていた猟銃も、信頼性の高いボルトアクションライフルの名品ではあった。普段から使い慣れているこの銃をもって戦った村人たちの判断は正しいし、それ以外の手段もなかったはずである。

 だが一発の威力と狙いが洗練されていたとしても、このような集団戦では生かし難い。熟達の村人が名品をもっていても、隊列を組んだ兵士に自動小銃で連発されてはたまらないのだ。村人たちが次弾装填のための動作をしている間に、敵はもう二発、三発と叩き込んでくる。

 このようにまず武器の質で圧倒的な差があり、しかも武器の数という点でも、やはり全く話にならないほどの差があった。

 始まる前から勝負は決まっていたといってもいい。


 かくして山村は壊滅してしまい、その物資はほとんどが帝国軍の手に落ちた。

 食料などの物的資源がまずは根こそぎ持っていかれてしまったが、それでもまだ略奪は終わっていなかった。


 予想通り、山村で暮らしていた女性のほとんど全てにより大きな悲劇が待っていた。

 どうせこのあと殺すのだからと過激なことを何度もされ、人間の尊厳を根こそぎ奪い取られ、手足を千切り取られ、冗談のような気軽さで銃弾を撃ち込まれ、そうした痛みと寒さの中で死へと追いやられていく。

 見た目の美しい若い女性ほど、その行為の過激さが増した。

 こうした行いはたいてい野外の開けた場所で行われたので、被害にあわない年かさの女もその残虐さと悲鳴とを肌で感じることとなった。その顔に浮かぶ絶望の色は帝国兵たちを楽しませ、それが最大になったところで性行為に向かない女たちは残らず撃ち殺された。

 法も道徳も、何もなかった。ただ欲望のためだけの行いであった。

 

 帝国兵はすべての村人をそのような行いで殺した。

 捕らえた者たちの大半が殺されると、今度は再度の略奪が始まった。隠されている家財道具はないかと家の中に踏み入り、彼らは物色し始めたのだ。隠されていた子供たちも、この段階で見つかってしまい、容赦なく連れ出された。

 この子供たちも一部は無理やり性行為に用いられた。そうされた者もそうでない者も最後には殺された。子供だからと見逃されるといったことはなかった。

 秩序も規律もない恐ろしい宴。それがこの夜を支配した。

 破壊欲と肉欲の限りが尽くされ、兵士たちの欲求不満が解消されていった。


 真夜中に至るころには、村に残された子供は、イルとエズリの二人だけになっていた。

 姉弟は、大した価値のない農具の入った小屋に隠れていたのでどうにか帝国兵の手から逃れられている。閉じ込められた、ともいえる。外にはまだ帝国兵たちがいるのだ。

 着の身着のままで農具小屋に隠れた二人は、食べるものも水も持っていない。

 だが数日でもここで耐えきれれば、おそらく帝国兵たちは行ってしまうだろう。イルはそのように考え、どうにか我慢をしていようと頑張った。弟は震えるだけであったが、姉を信頼してこちらもなんとか耐えている。


「大丈夫、大丈夫。じっとしていれば行ってしまうから。

 そうしたら隠れているみんなを集めて、また元の生活に戻れるよ」


 何の根拠もなく繰り返してきた慰めの言葉を、姉はまた口にする。そうして弟の背中をなでつけ、ひたすら耐え続ける。


 しかしもうだめじゃないか、とイルは思う。小屋の壁は粗末な木製で、木目の間から帝国兵たちが何をしているのかが見えていた。

 自分たちによくしてくれていた、優しい年上の女性たちが野蛮な男たちの餌食となり、無残な姿で殺されていく。何度も昔話を聞かせてくれた老人たちが容赦なく撃ち殺されていく。また、イルを慕っていた子供たちも容赦なく殺された。

 それが、全て見えていたのである。


 もしも、山の神がいるとしたのなら、こうした行いは決して許されないだろう。

 なぜこのようなことが許されているのか。ただ優しいだけの村の女たちがあのように辱めを受けなければならない理由は、なんなのか。

 村の大人たちは「山で悪いことをすれば、必ずばちがくだる。自分がしたことのぶんだけ、行いがかえってくるのだ」と言い言いしたものだが、あの男たちにはばちがくだっていないではないか。

 姉はただ深い悲しみを抱き、自分をだますように弟を慰める。今のイルにできることは、他にはないようだった。


 帝国兵が二人、入ってきた。例の小銃を手にもって、紙巻のたばこをくわえてだ。

 これまでも何度か兵士たちの乱入はあったが、いずれもじっとしていればすぐに立ち去ってくれた。特に価値のない農具の置き小屋であるから、物色しても仕方ないことがすぐにわかるからだ。今回もそうなることを願いながらイルは弟をぎゅっと抱き寄せる。

 彼らはどうやら略奪に来たのではなく、少しばかりの休憩に来たらしかった。紫煙をくゆらせながら下品な冗談を飛ばしあう。主に略取した村の女のことや、殺した村の男のことが話題だった。幼い姉妹にはとても聞いていられない話である。


「調子に乗って殴るから顔が腫れあがって、まるで悪鬼みたいになってよ、そしたらやめてくださいとか言いやがるんだよ。

 その顔でかって、化け物が何を言ってんだよって感じで大爆笑よ。こんなんでも女だぞって言ったらよ、ナイフで胸を切り飛ばしちまって、これで女じゃなくなったとか言いやがるのさ!

 俺たちの分も残しとけってのによ、使い捨てにしやがる」

「てめえらで壊しといてそりゃねえだろ。俺らもどっかに隠れてるメスガキを探してみるか?

 それともあっちでいたぶられてるガキどものアレを切り飛ばして犯すか? 男色じゃねえって言い張るのか」

「お前が先にやってこいや。俺は男はいいや、ケツなんかに入れられるかよ」

「きたねえって点じゃ田舎女の穴も変わらねえだろ」


 げらげら笑いながら邪悪な話を続ける彼らは、大したことをしたとも思っていないようだった。

 姉は歯を食いしばって耐えたが、弟は愕然として震えた。動揺が農具を倒し、物音を立てる。

 幼い姉弟の存在は、たちどころに兵士たちに知られてしまった。

 たばこを吸っていた兵士がまず気づき、彼の隣にいた者も少し遅れて気づいた。隠れていたのは女だということにだ。兵士たちは若かった。

 犯すにしても殺すにしても、彼らの心を満足させるいいオモチャが手に入ったと、彼らの目が語る。


 あれほど村の女たちは凌辱されていたが、それでも全ての帝国兵が満足できたわけではないのだろう。

 おこぼれにあずかれなかった者たちもいたのだ。彼らは、その不満をこの幼い二人にぶつけようと考えたらしい。


 姉のほうは兵士たちがこちらを見ていることに気づいた。


(もう見つかってしまってるから、これ以上はかくれていてもダメだ)


 そして、決断した。

 勇気ある姉は、弟を守るためにも自分が犠牲になるべきだと信じた。

 イルは弟を無事に逃がすためならなんでもできる。この男たちをどうにか食い止めて、弟を逃がす。そのために、何ができるのかと必死に考えた。

 そしてともかく、弟に走れと目で言い聞かせた。


 弟のエズリは姉が自分を逃がそうとしていることを理解した。一人で逃げることは怖いことだが、有無をも言わさぬ姉の目に、ついに逃げることを決意した。


「静かに、できるだけ急いで走って」


 イルの指示に、エズリは従った。泣きそうな目をおさえ、空腹に耐えて足を踏ん張り走った。

 逃げ出そうとする子供に対して、兵士たちは手を伸ばす。だが同時にイルは、兵士にとびかかってその手を止めた。

 小さな体で大人二人をわずかでも食い止めようとする姉を、弟は見捨てていく。そうするしかない。

 彼は小屋の外へ飛び出す。

 イルは弟の幼い身体が夜の闇に包まれて消えていくのを見た。


 どうかそのまま闇にまぎれて、村の外へ! とにかくこの男たちに捕らえられずになんとか逃げ延びて。


 姉は弟を見送って、そう願う。あとは自分のことをどうにかしなければならない。

 しかし兵士たちを食いとどめるには、あまりにもイルの体が軽すぎた。食い止められたのはやはり一瞬に過ぎず、イルはあっけなくつまみあげられ、敵は早くもその体を味わおうと薄笑いを浮かべる。まだイルの体は幼い。男を振りほどくような力強さも、あるいは重量もない。

 だが、そこでイルは敵の小銃に目がいく。これさえ奪えば、と思えた。必死に手を伸ばしてそれが、届く!

 いつでも撃てる状態にあったその銃の引き金が、押し込まれた。火薬が弾けて、銃弾が地面をえぐった。しかしそれは誰の体も傷つけなかった。


「どうした!」


 銃声に気づいたのか、外の兵士たちまで声をあげた。それでなくとも、エズリが飛び出したところなのだ。

 短慮すぎたかとイルは後悔しかかるが、これは兵士たちがフォローしてくれた。


「いや、ネズミが出ただけだ。気にするな」


 どうやら彼らはまだ自分たちだけでイルを楽しもうと考えているようだった。ほかの兵士たちにばれては分け前が減ると思ったのかもしれない。


「弾を無駄遣いするんじゃねえよ」


 外の声はそれで終わった。イルが触った銃も、もう一人の兵士に素早く遠ざけられ、これ以上奪い取りにかかれない。

 そもそもイルはもはや兵士たちにつかみ上げられ、逃げ場を失ってしまっている。ここからどうすればいい?


 何もなさなければおそらくは服を脱がされ、自分もほかの女たちのようになぶられて殺されるのだろうか。それでエズリが逃げ延びて生きていてくれるのならいいけれど。

 いいや、ダメだ!

 エズリは山のことをそこまで知らないだろう。沢に落ちてけがをしたり、川に飲まれて溺れたりするかもしれない。獣を倒す手立ても何一つない。私が、私が行かなくては!


 咄嗟にイルは足を振り上げ、兵士の下腹部を強打した。ひるんだすきに力の限り両手を暴れさせ、どうにか拘束を解く。

 そうして、イルも農具小屋から逃げた。

 とにかく山の中へ行こうと。弟を守れるのは自分しかいないのだと、イルはそう強く思っていたのだ。


 闇雲に村の中を逃げたわけではない。音をたてないように気を払って、ちゃんと知っている方向に出るように計算していた。

 畑の方角にはいかない。耕したばかりで土がやわらかいから、転びやすい。

 やはり山の中へ行ったほうがいい。


「どうした? そんなにあわてて」

「小便だよ」


 そんなやりとりが背後から聞こえる。どうやらあの二人はまだ、イルやエズリのことを仲間に秘密にしたいらしかった。 

 それが都合のいいことなのか、悪いことなのかはわからない。

 必死に逃げるイルを追うのは、私欲にかられた二人の兵士だ。確かにイルのほうがこの山については詳しいが、訓練を受けた兵士たちのほうが体力面では圧倒的に有利だ。その距離はみるみる縮まっていく。

 この山村で生まれ育ったイルにとって、村の周辺の森などは庭のようなものだ。どこに罠があるのかなどもある程度は知っている。だがいまや、兵士たちを振り切るためにその知識を使う余裕はなかった。

 イルは自分も一度か二度しか下ったことがないような山道を駆け下り、藪を分け入ってなんとか逃れようと試みた。兵士たちはあきらめずに追ってくる。彼らは女性に飢えていたのだ。自らが自由にできる女性を求めていた。彼らも自らの欲求のために必死だった。

 途中で一人があきらめたのか立ち止まってしまった。体力が尽きたのだろう。しかしもう一人はあきらめてこない。まだ追ってくる。

 執拗に追ってきたほうの兵士は体力があるようだった。イルの知っている獣道はもう終わってしまう。その先はもう、彼らを突き放す手立てがまるでなかった。単純な体力勝負になる前にどうにかしなくてはと考えたものの、疲労でもう頭がまわらない。

 とうとう、兵士の手がイルの背中にかかった。

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