血だまり
じわりじわりと山村に近寄っていく帝国兵らは、巨大な竜の姿を視界にとらえていた。自分たちの背丈の二倍以上もあろうというほどの体高、その重量はいかほどか想像もつかない。
あれほどの怪物をこの銃は倒せるのか?
狙撃兵に選ばれた男たちも不安が隠せなかった。だが帝国に忠誠を誓ったからには撃たねばならない。敵は帝国兵の全てに死をもたらすと宣言している。
彼らを率いる将校が、静かに手を振って合図を送ってくる。狙撃兵たちはその場に音もなく寝そべり、銃を構える。大きく重い悪魔のような銃は、雷のような破壊力を秘めている。これで竜を穿つのだ。
周囲は完全な闇の中だが、訓練を受けた男たちはかすかな物音だけでウェイトを取り付けてくる。これで銃の反動から身を守るのだ。標的は、灯りをつけてのんきに談笑しているようだった。
竜。子供。そして、帝国兵。
彼らを撃つ。
敵である竜と子供はともかく、帝国兵まで撃つことにためらいがないわけではない。いつか自分たちも味方に撃ち殺されてしまうのではないか、という不安が心に巣食う。
その点については十分に説明を受けたが、それでも帝国兵のハンナ・フォードを撃つというのは。ましてや、女だ。それに輜重兵からの尊敬のされ方は異常ともいえる段階だった。撃っていいのか、本当に。
竜に狙いをつけながら、狙撃兵の男は考えている。だが最終的には撃つ、と決めた。彼は将校の子飼いの兵士たちだ。敵を殺し、将校の命令に従う。それだけで未来が保障されるのなら、する。気持ちを切り替え、彼は合図を待った。
銃口の先に、竜の目が光る。狙うのは、眼球だ。
竜といえども、目は弱点であろう。その奥には、脳髄もあるはずだ。だから、目を狙え。撃ち抜け。将校はそのように命令を下している。
狙撃兵は従うだけだ。
こちらの気配を気にしたのか、ふと竜がこちらを見やった。瞬間、将校が手を上げた。
「撃て!」
声でも出された合図に従って、引き金を絞った。
すさまじい音と衝撃が狙撃兵を貫いたが、弾丸は狙いたがわず竜の左目を叩く。
血と組織液が竜の目から爆発したように飛び散る。巨体が揺れ、確かに損傷を与えたことがわかった。
対竜ライフルは確かな仕事をしたのだ!
竜はこちらへ反撃することもできず、その身をよじり、倒れこもうとしているではないか。
ならば次は、子供だ。
狙撃兵は命令に従って、銃口を子供へと向ける。
「カイ!」
イルは心底驚き、目を見開いて叫んだ。
凄まじい、夜の山を震わせるほどの銃声。カイが血を流して倒れこもうとしている。
信じられなかった。イルは動揺している。
カイは山の神さまで、無敵だとずっと思い込んでいたのだ。それが、撃たれて血を流している。そんなことがあっていいのか。
どうしていいのか、わからなかった。
だって、カイは無敵のドラゴンで、空の王なのに。なんで。
狼狽したままカイへ駆け寄ろうとしたその一瞬、彼女の眉間が血を噴いた。すさまじい衝撃に首がのけぞり、体ごと吹き飛ばされ、竜の巨体にぶつかるようにして倒れこむ。重々しい音とともに土が巻き上がった。
撃たれた、と気づいたのは何秒か経ってからだった。あまりに強く頭を撃ったので、何も考えられなかった。
周囲をどうにか見回すと、そこら中が血だらけだ。帽子とゴーグルが落ちている。折角買ったゴーグルは割れてしまってもう役に立ちそうにもない。
目を凝らして森の奥を見やると、得意そうに笑う男たちが見えた。軍服を着た者たち。帝国兵だった。
痺れたように体が動かない。あまりにも強く頭を打ったせいだろうか。
新式銃で撃たれたときとは、違う!
あのときは痛いだけだったが、この衝撃は確実に命を脅かしている。ぴくりとも動けなかった。
今、私を撃った銃は、私を殺せる銃だ。
私を殺そうとして、銃を撃った者がいる。そしてそれは、帝国兵だ。
彼らはカイをも撃った。
ハンナと話して束の間忘れていた憤激の心が爆発的に燃えた。殺さなければならない。
奴らはやはり決して許せない害悪だった。少しでも油断を見せてはならなかった。今や、自分たちからそのように証明してきたのだ。
起き上がって彼らを殺そうと背中の銃をつかみかけたその一瞬、イルは敵の銃がまだこちらを向いていることに気づいた。しかもその先はハンナの顔に向いているではないか。
撃たれれば、間違いなく彼女は死ぬだろう。死体も残らないかもしれない。
「げあっ!」
わけのわからない雄たけびをあげながら、イルは起き上がって手を伸ばす。
竜が撃たれたとき、何が起こったのかハンナにはまるで理解できなかった。
イルはその銃声が銃声であるとわかったが、ハンナにとってはまるで雷でもその場に落ちたようなありえない音としてしか、認識できなかったのである。咄嗟には。
何かが自分たちに危害を加えようとしている、とその可能性を考えて恐ろしさに吐き気がした。竜に攻撃を仕掛けたのは何者かといえば、それはもう帝国兵以外に考えられないからだ。
竜を殺すという選択肢を、帝国が採用したということ。考えたくもなかったことだ。
なぜならそうなった場合、間違いなく自分も殺されてしまう。
自分は余計なことを知りすぎている。消されるだろう。
実際に狙撃兵らはハンナをも殺すよう命令されている。彼女の予想はまったく間違っていない。
銃声より早く飛ぶ弾丸が彼女の脳天を吹き飛ばし、それで終わりになるはずだ。
覚悟するしかない。今、自分にできることはそれだけだ。ハンナはそのように考えて、同時に嫌なつばが湧き出るのを感じた。死への生理的な恐怖から目を閉じかけた。
だが轟音とともに倒れたのは、自分ではなかった。イルが撃たれたのだ。
なぜ!
ハンナは叫びかかった。なぜそうなるのか、わからない。
彼女はイルのことをただ、竜に助けてもらって懐いているだけの子供だと思っている。帝国兵を憎んでいるとはいえ、身体能力はごく普通の女の子だと。
そんな普通の子供を帝国がわざわざ撃ち殺す意味がわからない。
なぜこんなひどいことを。
以前にも自分の部下がイルを新式銃で撃ったことがあった。あのときもハンナは怒ったが、今度はもう、それどころではなかった。イルは額から血を噴いて倒れこんでいる。頭を撃たれているのだ。いくら高性能な防弾服を着ていたとしても、助からない。
なぜこんな……ひどいことを!
子供を撃ち殺すということは、残虐行為の至りだ。たとえそれが帝国を激しく憎む子供であっても、竜を撃ったのであればもう無力なはずだ。それをわざわざ、竜を撃つような銃で殺すなどと。あまりにもひどくはないか。このようなことが許されていいのか。
次は自分が撃たれるのではないか、という可能性をほとんど考える間もなく、ハンナは憤慨している。イルを助け起こそうと駆け寄っていく。生気のない彼女に近寄ったとき、銃を持ち直すかすかな物音が聞こえた。
そこでようやく、ハンナは自分もこの場で殺されるのだということを理解する。
もう、終わりなのだ。
身動きのとりようもない。かわすことも逃げることもできず、ハンナは銃撃を受けた。一瞬で彼女の意識は失われ、その体は吹っ飛ぶようにして倒れてしまう。
イルがハンナをかばおうとして掲げた小さな腕を、銃弾は貫通した。それは威力を殺されながらも、ハンナの胸元に吸い込まれ直撃している。
ハンナは血を吐いてあおむけに倒れ、ぴくりともしない。これを見たイルは、自分の弟がどれほど無残な姿にされたかを思い出し、重ね合わせてしまう。
また自分は、大事なものを帝国兵に奪われてしまった。止めることできなかった。
悲しみと怒りがないまぜになり、イルは無力感をも味あわされた。
突き抜けるような憤激と、赤黒い何かがイルの視界を染めあげた。意識の端が浸食されているようだ。
頭を打ったことと、喪失感と、止めようもない怒り。気分は最悪だった。
憎い。
確かなものは、帝国兵に対する憎悪だけだ。以前からずっと一貫しているそれだけを頼りに、イルは地面を踏んで耐えた。
殺すのだ。
すべての帝国兵を根絶やしにするのだ。
余計な感情は捨て去れ!
失いたくないなら、奴らからすべてを奪ってやれ! 殺せ!
殺意と憎悪で心を埋め尽くせ、塗りつぶせ!
「げえぇ」
熱いものがこみあげてきた。イルは胃液をその場に吐き散らしながら、背中の銃を抜いた。身体はボロボロだが、痛みなどは感じていない。
少しばかり撃たれた腕が動かしづらいが無理やりにいうことをきかせて、引き金を絞った。山を貫くような銃声が轟いて、帝国兵の一人が跡形もなく砕け散る。
撃たれた者がいた場所には、新鮮な血だまりとわずかな肉片が残っているだけだ。他には何も残らず、消え去っている。
「ひるむな、撃ち返せ」
敵にはどうやら冷酷な司令官がいるらしい。彼がそのように命令をする声が聞こえた。
イルは無感情に銃のレバーを引き抜き、排莢を終えると声だけで狙いをつけ、ためらいもなく撃った。闇の中を音よりも早く弾丸が飛び、人間を血だまりに変える。




