親目線の竜
それから何度かハンナは山村を訪れて、イルと竜に会った。
手土産を持って現れ、他愛ない話をしては去っていくだけとなっていて、もうハンナの目的はほとんど忘れられたようになっている。が、それでもイルはまだ帝国軍に対して大きな攻撃を仕掛けてはいない。
少しでもイルと絆を結んで、攻撃をとどまらせるという目的については達成できているとみなされていた。
イルの心から復讐の誓いと憎悪、それに使命感は消えていない。時間を置けば消えるという性質のものではなかったのだ。
しかし一方でハンナへの友情も日々増していた。何しろ、人間の話し相手としてはほとんど唯一の存在である。それにイルもカイも知らないことをたくさん知っているのだった。
凛々しく、背の高いハンナはまるで研ぎ澄まされた刃物のような美しさがあった。
彼女に頼めば銃弾ですら簡単に手に入ったし、新式銃の撃ち方も詳しく教えてもらうことができた。いまやイルの銃は二百歩以上も離れた位置から木の葉を撃ち抜けるほどに上達していた。竜の血が精確な指先、手足の動作を可能としているのだ。
ハンナはまた、髪を洗うシャボンや香水・化粧品の類もたびたび持参した。こういう大人の作法も徐々に覚えたほうがいいという話であったが、においがきついので香水を使うのはやめておく。化粧品は使ってもらうと確かにきれいになれた気もするが、面倒くささが勝った。シャボンは素晴らしく汚れが落ちたし、においもさほどではない。これは気に入った。
「では次回も持ってこよう。何か足りないものはあるか?」
背筋を伸ばして、帰り支度を始めるハンナがそう訊ねてきた。
イルの目から見れば、ハンナ自身がどういう思惑であれ、彼女は自分にずっと優しくしてくれるお姉さんとなっている。格好よく美しい女性にあこがれる気持ちもあり、彼女が帝国兵であるということをイルは忘れかかってさえいた。
「果物が欲しい」
「少し時間がかかるが、いいかな」
「大丈夫。いや、あ、待って」
どうかしたのかと振り返るハンナに、イルは申し訳なさそうな顔を見せる。
「いろいろもらってるけど、その、お金がなくて。お肉とか渡そうかなと思ったんだけど、邪魔かもって」
「そんなことか。イルは気にしなくていい、私が勝手にやってることなんだ。けど、もしも貰ってばかりで心苦しいというなら、私たちにも獲った動物を少し分けてくれると嬉しいな。鳥肉がいいかな、何しろみんな保存食ばかりで飽き飽きしているんだ」
「わかった、取引ね」
イルが大きくうなづく。
これをみたハンナはかわいらしい取引もあったもんだと思いながら、車に乗り込んだ。
鶏肉少々と弾薬・食料品の交換となっているが、大損ではない。むしろ、竜と取引しているということで多少の安全が買えている。継続していくべき取引だ。
考えようによっては一方的な供物から取引に進化したともいえる。
これでまた少し時間が稼げたはずだと、そう思いながらハンナは陣地へ戻ったのだが、将校は苦い表情で彼女を迎えた。
「王国側の動きが妙だ」
「我々が竜に気を散らしている間に、突撃をかけてくるというのですか?」
ハンナは遠く離れた位置に陣地を立てている王国側の兵士たちを思う。にらみ合いが続いている状況で、竜の登場に一縷の望みを見出したというわけだろうか。
突撃してきてくれるのなら、それはありがたい。新式銃の餌食にしてくれるだけだ。
参謀としての立場からハンナはそのように考えたが、将校は首を振る。
「いや、奴らも竜と接触しようとしているらしいのだ」
「それは困りますね」
せっかくこちらは山村に通って断罪の日を伸ばしているのに、横から余計な口を出されては困る。
「今後も竜との交渉はお前に一任するが、くれぐれも気をつけろ。お前が狙われている可能性もある」
「はい」
心配するなら何か護衛でもつけてほしいものだと思いながら、その不可能を知っている。ハンナは溜息を飲み込むしかない。
「上もこの膠着状態に苛立っている。そろそろ攻勢をかけろと言われてもいるのだ」
また面倒なことになっている、とハンナはそう考えていた。
イルと会うようになってから、参謀の仕事はほとんどしていない。とにかく竜を懐柔することに専念しろと言われていたし、自分もそうするべきだと思ったからである。
しかし考えることを放棄するまではしていない。
「将校、竜のことで時間がかかりすぎています。ここは守りを固めるか、撤退すべきです」
冷静な目で考えれば、どう考えても攻勢になど出られない。まず竜をなんとかしなければ。彼の機嫌一つで軍が滅ぼされるような状況にあっては、軍を動かせないのだ。ここはまず竜との交渉を確実にするために守りを固めるべきだった。
それに攻勢に出たことでまた無関係な民間人に被害が出るようなことになっては、また竜の怒りを買いかねない。
「竜の考え方次第では、今回の出兵自体を諦めるまであります」
「まて、ハンナ。今のは聞かなかったことにしてやる。下がって今日の報告書を作れ」
将校はわかっていると言いたげにうつむいて、力ない言葉でハンナを下がらせた。
カイは魔物を探していた。
もちろん、自分が離れている間にイルを守ってくれる頼もしい魔物を探しているのだ。強引にもスカウトし、なんとしても仲間に引き入れたかった。
とはいえ、残念なことに実際には竜の血を浴びたイルよりも強い生物など山には存在していなかった。なのでカイが懸命に探したとしても、見つかるはずもない。さすがのカイもその事実に気づき始めていた。
「少しの間、留守にする」
「何か用事? 私も行く」
カイとしてはイルのために強い護衛を用意し、イルを喜ばせたかったのである。そして彼女の驚く顔が見たかった。
知らず知らず、カイはイルをまるで娘のように見ている。そのようにかわいがっている。まるで赤ん坊からやり直したように這って進み、つかまり立ちになり、震える足で立ち、歩き、走り、狩れるようになっていったイルをずっとそばで見てきたのだ。もう完全に親目線であった。
イルはまだまだ弱い、レッサードラゴンのカイからしてみれば。護衛が必要だと感じるのだ。
そしてその護衛は強くなくてはならない。あの人間の女、ハンナという軍人は人間としてはそこそこやるようだが、イルが戯れにたたいただけで死ぬような虚弱な生物ではしょうがない。
だからここから少し離れて、探してみようと思ったのである。
ハンナという軍人も「果物を用意するのに少し時間が欲しい」と言っていたので、数日は来ないだろう。その間に、小旅行といく。
魔物の多い地域へ行くが、自分がいる限りイルは大丈夫。そこで適当な仲間をみつくろうのだ。