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ルスラン・セルゲヴィチ・メチェーリと名乗る男は、見たところ二十代半ばのレクティタ帝国の要人らしかった。
色素の薄い白金の髪も凍った湖面のような薄い青の瞳も、話に聞く北の人間らしい特徴を備えている。
鼻筋の通った面貌は男性らしく整い、やや鋭すぎる感のある切れ長の目も魅力の一つに変えている。均整の取れた体躯は外套の上からでもわかる筋肉に覆われ軟弱なところが一つもない。騎士だろうか、というのがデボラの最初の印象だった。
武人らしい無駄のない動きが、彼の身に纏う使い込まれた暗緑色の外套やよく馴染んだ革の長靴とあいまってその想像を容易くする。しかし、端々に覗く品のある所作が生粋の武人という印象を裏切る。
魔女に対する言葉遣いや何気ない動作一つにも窺える品位は一朝一夕に身につくものではあるまい。少なくとも爵位を持つ身分であるのは間違いないように思えた。
(名乗りの口上で爵位を仰ったのでしょうけれど、知らない単語なのよねえ。でも爵位らしき単語がついたのだから身分ある方なのは間違いないはず)
レクティタ語は日常会話程度の理解度である為、男の話す言い回しや単語でわからないものも時折出てくるが、たいていは文脈でおおよその意味はつかめる。
レクティタ帝国皇帝の命を受けて助言を賜りにきた、と突然の訪問と非礼を詫びた後にそう口上を述べた男を改めて見やり、一人頷く。
(国の代表としてお師匠様に接見するのに下手な人物を寄越すはずがないものねえ)
世界にとっての五賢人は、精霊や神とはまた別の括りにあるが、尊さとしては同じ程度の位置にいる存在だ。人の世の理の外にいる、という意味においても、不可侵、という意味においても。
これまで世界は彼らに対して精霊や神々と同様の敬意払い、尊崇、そして畏怖を抱いてきた。そして五賢人は、時折気紛れに助言をもたらし今世界にある国々を、人々を助けてもくれた。
(それを思えば、改めて私がどれだけ幸運だったか今更ながらに実感できるわ)
過去にはデボラと同じように追われて、あるいは迷い込んで五賢人の庇護を受けた人間もいるのだという。しかし、それも一番新しい話で二百年ほど遡らなければいけない。
それだけ五賢人は遠い存在だった。同時に尊い存在でもある。
それを踏まえて考えれば、おのずと使者は国の中でもある程度の地位にある者にするはずだ。
これだけ切迫した様子で、かつ北の洞の隠者の紹介すらあるのだと言うくらいだ。何かレクティタ帝国にとって抜き差しならない事情を抱えてきているのなら尚更だろう。
(それに、どこかで聞いた覚えがある気が……。でも、アルバ・ガリカとレクティタ帝国はほとんど国交はないのに、何故かしら。でも、ルスラン・セルゲヴィチ・メチェーリ。……セルゲヴィチ……メチェーリ)
深く下ろしたままのローブの影で一人眉を寄せるデボラを余所に、魔女と男は間に挟んだ平たい巨岩の上に置かれた物を難しい顔で見つめていた。
成人男性が三人がかりで両手を広げてようやく一周できるかどうかという腰丈の大きな岩の上には今、鈍色の薄い金属片が一つ、丁度中央に置かれている。手のひらほどのそれは、男が言うところの北の洞の隠者から紹介されたという証だ。いうなれば紹介状だろうか。紙ではなく金属だが。
西の森の前で突如現れた訪問者を伴ってやってきたのは、森に入ってどれほども行かない浅い場所だ。程よい岩を見つけ、今はそれを囲んで魔女とデボラとヨル、そして男の三人と一匹が顔をつき合わせている。
北の洞の隠者の紹介ならば話を聞くが、ひとまず証を見なければ信用できないと魔女が告げた為だ。結果、人目につかない森の端で、ということになり現在に至る。
「あの北のが、よく一度でも話を聞いたな。というよりも、よく姿を見せたな、と言うべきか」
金属片を見つめたまま魔女が淡々と言葉を落とす。それに、向かいの男が静かに返した。
「私の先祖に隠者殿の庇護を受け、今後一度だけ助言を授けていただける、という約束をいただいた者がおります。その約束に縋り、こたびの助言をいただいてまいりました」
「それで私のところへ来ては世話ないな」
「隠者殿のお導きのままに。我らには察せぬご賢慮あってのことと理解しております」
張り詰めた空気の中で、デボラは邪魔をせぬよう息を潜めながら先ほどから頭の隅に引っかかっている疑問をこねくり回していた。
(メチェーリ。いえ、セルゲヴィチが……? でも、確実にレクティタ帝国の響きね。それなら、どこで……)
思い出せそうで思い出せない。レクティタの要人であるのは間違いないだろうが、ではどんな身分なのか。詮索する必要はないのだろうが、妙に引っかかる名前の響きが指先に刺さった棘のように気になって仕方ない。確かに、以前どこかで聞いた気がする。
「それでは、証をご覧に入れます」
デボラがあれこれと考え込む間にも話は進む。
厳かに告げた男が黒い革手袋を外し、おもむろに正方形の金属片に指をのせる。長く無骨な指が角に触れたかと思うと、そのまま辺をなぞるように横へと滑らせていった。その後を追うように鈍色の表面に青い光が浮かんでは消えていく。
不思議な、術式とも違う図のようなものを描きながら現れては消える光が、指が離れたと同時、一際強く瞬いたかと思うと失われる。かわりに、かすかな虫の羽音に似た音が聞こえ始めた。
(これは……)
驚嘆の溜め息が咄嗟に押さえたはずの唇からこぼれる。
眼前に現れたのは、薄暗い森の中で仄光る一人のローブ姿の人物だった。顔は深くかぶったローブに隠れて見ることはできない。
(実体ではないわ)
岩の中央に現れた人物は恐らく金属片から発せられる光によって空間に投影された虚像だろう。大きさが人形ほどしかない。
(蜃気楼の原理、ともまた違うわねえ。条件が揃っていないもの。それなら、でも、どうやって……?)
丁度魔女を正面にして浮かび上がる人物はデボラから見ると左側面しか見えなかったが、それでも十分にその虚像の精巧さがわかった。本当に、手を伸ばせば触れられそうだ。
ちらりと左右に視線を走らせれば、動揺の欠片も見出せない師の姿と軽く目を瞠っている男が確認できる。やはりこれも魔女の振るう力の理から生み出された物なのだろう。男は、どうやら証の内容を聞いていなかったとみえる。
『久しぶりだね、西の。これを見ているってことは、彼は無事に君に会うことができたんだろう。彼が僕の忠告をきちんと聞いてくれたようで嬉しいよ』
突然喋りだした人物に思わず肩を揺らす。見開いた視線の先で、ローブ姿の人物は返事を待つ様子もなく話し続けていた。
『君は騒がしいのが嫌いだろう? まあ、僕もだけど。どうせ話を聞きもしないで森に逃げ込むと思ったから、一応君が一番嫌がりそうな呼びかけを教えておいたよ。彼、僕のところには部下を何人も連れてきたから一人で行くようにも言っておいた。感謝してよね』
金属片からおよそ拳一つ分上に浮かぶローブ姿の北の洞の隠者は、どうやら男性らしい。それも若い、デボラより少し上くらいの年頃の声をしていた。実際には魔女と同様、気の遠くなるような時を生きているのだろうから、外見年齢がそのくらいなのではないかと想像する。
魔女が二十代の姿をしているから、あながち間違ってはいない気がするが真相はローブの下だ。
声の若さと言葉数に反比例して、北の洞の隠者は訥々と話を続ける。
『今回こんな物をわざわざ用意したのは、疑り深い君に、彼が僕から助言を受けて西の森の魔女殿を訪ねたんだと証明するためだ』
一方的に話し続けるこの虚像には相互通信の機能はないのだろう。事前に何らかの方法で記録されたものを映し出すだけのようだった。
薄暗い森の中で淡い光を纏った姿のまま喋り続ける同朋の虚像を、魔女は眉間にくっきりと皺を寄せ無言で見続けている。これほどはっきりと感情を出している姿は初めて見た。
『今回彼が抱える話は一度耳に入れておいたほうがいい。それを聞いてどう判断するかは君に任せるよ。それじゃあ、僕からは以上だ。ああ、それと、これ。全部終わったら物理的に消去するようにしてあるから、僕が五つ数えるうちに離れたほうがいいよ。じゃあね』
直立不動のまますべての話を終えたらしい隠者の言葉尻に被せるように魔女の鋭い声が飛んだ。
「離れろ!」
声と同時に腕を引かれる。状況を把握できないまま痛いほどの力に引かれたたらを踏んだ。驚いている間に視界は隠者の映しだされた空間から薄暗い森へと移り変わる。気がつけばやわらかな何かに包み込まれた。魔女に抱きしめられたのだ。慌てて振り返ろうとしても強く抱きしめられ後ろの様子を窺うことはできない。
「お師匠様……?」
呆然と呟く間にも、背後では隠者が淡々と数を数えている。
『三つ……四つ』
何が、どうなっているのか。何故魔女はこんなに焦っているのか。惑ううちにもじりじりと魔女は岩から離れているようだった。
『五つ』
数え終わると同時に、背後で小さな音がした。何かが爆ぜたような軽い音。それと、少しだけ焦げたようなにおいも。
《あのクソガキが》
魔女が何事かデボラのわからない言葉で呟く。忌々しげなそれに不安を覚え、デボラは魔女の腕の中で身じろいだ。
「お師匠様……?」
知らずこぼれた声にようやく腕の力がゆるむ。首を捻り肩越しに振り返ってみれば、岩の真ん中に黒い焦げ跡と穴の開いた金属片が細く白い煙を上げているのが見えた。その向こうには、やはり同じように退避していたらしい男の姿。ヨルはと探せばいつの間にか魔女とデボラの傍らに控えている。
「これは……?」
言葉が出てこない。消去する、と言う隠者の言葉は証を破壊する意味だというのはわかったが、それでも状況がつかめない。
けれど魔女には十分だったようだ。
「証は確かに受け取った。話は聞こう、メチェーリの子」
「ありがたき幸せ」
張り上げるわけでもないのによく通る二つの声が一つの約束を交わす。
まだ思考の追いつかない頭でぼんやりと師の顔を見上げた。見慣れた白い面貌は冷たくデボラの背後を臨み、けれどゆるく回された腕はどこまでも優しい。
話を聞く、ということは魔女の家に連れて行く、ということだろう。
ならばヨルの背に三人で乗るのか、とそんな埒もないことをぼんやり考えていたデボラの脳裏にふと懐かしい声が蘇った。
――帝国が代替わりしたらしい。
ふいに浮かんだ声は父のものだ。あれはいつだろう。それほど昔の話ではないはずだ。少なくともデボラが婚約者の為の教育を受けていた過去六年のどこか。
(そう、メチェーリ)
唐突にすべてが繋がる。
指先に刺さった棘のように気になっていた単語が遠い記憶と結びつき、ひとつらなりとなってデボラの眼前に現れる。
(そう、そうだわ。メチェーリ家。帝国皇帝の家名。前に皇帝が崩御されて皇太子が跡を継がれたのだと。先帝がセルゲイ三世。新しい皇帝はアヴグスト二世。セルゲヴィチはセルゲイの子という意味なのだと教えてもらったわ。セルゲイ三世には息子が二人いるのだとも)
アルバ・ガリカとレクティタに国交はほぼないが、それでも代替わりの報せ程度は届く。それを雑談混じりに教えてもらったことがあった。知っていても損はないよ、とそれくらいの気軽さで。
(それなら、ルスラン・セルゲヴィチ・メチェーリは)
ゆっくりと首を巡らし岩を挟んだ向こうに立つ男を見る。張り詰めた目で魔女と相対する、レクティタ帝国の要人。
帝国皇帝の、弟だ。
□ □ □
ずいぶん馴染んだ気のする魔女の家の食堂で、デボラは一人食卓についていた。デボラの席だ。常なら魔女が座る向かいの席は空いたまま。
ふ、と小さく吐息をこぼして窓へと目を向ける。すっかり降りた夜の帳が硝子を黒く染めていた。そこに写りこむ自分の姿がなんだかひどく小さく見えて、デボラはもう一つ息をこぼす。
男を伴い家へ帰りついたのが日の暮れる頃。それから、約束どおりに話をすると言って魔女と男が部屋にこもって、もうどれだけ過ぎただろうか。本来なら夕食も終えて眠る前のひと時を楽しむ時間になっても、二人が出てくる気配はない。
いつでも食事を取れるようにと準備した夕食はまだ出番がなさそうだ。
閉じたままの扉へと視線を移す。二人が話を終えたらすぐにでもお茶や食事を出せるよう待っているが、まだ扉の開く気配はない。手慰みに入れたハーブティーも何杯目だったか。
空になったカップに目を落とし、いくつめかわからない吐息をこぼす。
長い夜になりそうだった。