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辺境の村へ行くためには当然のことながら森を抜ける必要がある。
魔女の住む家は森全体から見ると丁度真ん中辺りに位置するらしく、北へ出るにも南へ出るにもほぼ同じ距離を進むことになる。その距離は一般成人男性が徒歩で踏破すると仮定した場合はおよそ三日、馬を使い休憩を挟んで丸一日かかるという。その換算だとディムフォレスト領内のみで秘密裏に使われる術式動力の車であれば半日で魔女の家にいけることになる、とデボラがこっそり考えたのはまったくの余談だ。
しかし、魔女は馬も車も、勿論自らの足を使うこともない。
「ヨル、今回もお願いしますね」
デボラが声をかけたのは玄関先でおとなしく座っている黒い大狼だ。身を起こせば体高がデボラの肩ほどもある。小柄な馬と同じくらいだろうか。
魔女の友人であり、デボラを最初に助けてくれた黒狼、名をヨルという。命名、西の森の魔女。人語を解し、魔女にも通ずる思慮深い眼差しの狼が、魔女と、そしておまけのデボラの外出を手助けしてくれる頼もしい相棒になる。
森に道という道はない。おまけに森の外の世界では見たこともない動物や植物が我が物顔で跋扈するのが西の森だ。肉食の黒い大鹿や小鹿程度なら獲物にしてしまう大梟。触れるだけで皮膚が爛れる葉や吸血虫。もちろん普通の動植物も生息しているが、人にとって危険な存在もすぐ鼻先で生を営んでいる。
そうした危険な生き物達も、ヨルが傍にいれば近寄ってこない。おかげでこうして村へ出ることもできるし、デボラの日々の植物採集も何を心配することなく安心して没頭できる。
「荷は確認できたか?」
背後からかかった声に振り返る。手に荷を括りつけるための荷籠を持った魔女の姿を認め、デボラは足元に置いた二つの革製の箱にちらりと視線をやった後に軽く笑んでみせた。
「はい。先ほど二度目の確認も終えました」
「よし。準備するから少し待っていなさい」
「わかりました」
言い置いて魔女は手早く革製の荷籠を美しい黒狼の腰辺りに取り付けていく。賢い狼は声一つ立てることなくおとなしく装着が終わるのを待っていた。
(何度見ても落ち着かないわあ)
知性を持つ野生の気高い獣に駄馬の真似事をさせるのは、なんとも言えず申し訳ない気持ちがわくが、これがないと荷が放り出されてしまう。持って行く物も持って帰る物もそれなりの量になるため必須の処置だ。
(おまけにお師匠様と私、二人も乗せて走るのですもの。すごい体力だわ)
人で三日、馬なら一日かかる距離も、黒狼にかかれば一時間もかからない。
「お師匠様、こちらが荷です」
「ああ、ありがとう」
荷籠をつけ終わったところを見計らって一抱えほどの箱を一つずつ手渡す。両脇に垂らすように付けた荷籠にそれぞれ一つずつ入れ込み固定していくのだ。
はじめて見たときは重くないかと心配になったが、当のヨルにとってはこの程度の重さはなんでもないようだった。確かに彼の四肢は力強くしっかりと筋肉がついており、後肢の付け根などデボラの胴回りよりもあるのではないかという太さだ。
「さて、お前も準備はできているかい。ローブはきちんと着たか?」
しっかりと荷が取り付けられていることを確認した魔女が肩越しに視線を寄越す。それに軽く両手を広げてみせた。
「はい。隠し身のローブをきちんと着ております」
魔女と揃いの鋼色のローブの裾を摘んでみせる。
ヨルが連れて行ってくれるのは森を出る手前までで、村近くまでは森から出てきたところを見られないよう、魔女が用意してくれた隠し身のローブを着ていくのが常だった。このローブは顔まできっちり覆い袖口をこするだけで人の目に触れなくなる。光の術式を使っているわけでもないこのローブもまた、魔女の振るう力の産物なのだろう。
「ほつれや綻びはなかったね」
「ええ。荷の確認と一緒にしておきました」
「なら、いい」
乗りなさい、と身軽な動作で黒狼の背に飛び乗った魔女がこちらに繊手を差し出す。暗い森を背景に、こぼれる光が彼女の白い面貌を照らし出す。魔女と黒狼の似通った優しく理知的な眼差しが同時にデボラに向けられる。その、あまりに美しく幻想的な光景に、デボラは覚えた眩しさのままわずかに目を細めた。
ずいぶんと遠いところにきてしまったのだと、今更のようにそんなことを考えた。
□ □ □
木々の緑や森影の闇色がびゅんびゅんと後ろへ駆け抜けていく。時折差し込む光の白も、木の影から覗く小動物の顔もあっという間に背後に置き去ってしまう。遠く近く聞こえる不気味な鳴き声も今だけは怖くない。馬よりもよほど少ない振動で、黒狼は滑るように森を駆け抜けていく。
いつでもヨルの背の上で見る世界は目まぐるしく、そして新鮮だ。頬を切る風も耳元でうなる空気の声も何もかもがデボラの心を掴んで離さない。
浮き足立つ心を抱え、デボラは背後に感じる魔女のぬくもりを感じながら、ふと浮かんだ言葉にかすか眉を寄せた。
(自分に向ける優しさ)
胸中で呟き、そっと目を伏せる。
昼食の席で向けられた言葉は、やはり今も収まるところを見つけられず胸の内をさまよっている。
(私は、私に十分優しいつもりでいたのだけれど)
魔女の目に映る自分は、そうではないということなのだろう。けれど、どうしてもわからない。
(だって、私、ずいぶんとたくさん我が侭を言ってきたもの)
幼い頃でいうなら、乗馬がしたいと親にねだり兄と共に習わせてもらった。遠乗りできるようになってからは、屋敷から離れた領内の森に植物採集へ出かけることができたのでずいぶんと役に立った。他にも、術式の研究然り、植物の採集や実験然り、貴族の娘には到底必要ない知識や技能を多く身につけてきた。これはデボラの我が侭で、自分の欲求に素直であった、自分に優しくしてきたことの証左だと思うのだが。
(何が違うのかしら)
もしかしたらデボラが考えなくてもいいことなのかもしれない。その真意を知らずにおいても、ソルタス家の娘として、侯爵家の長女として生きていくのに必要ない疑問なのかもしれない。
(それでも)
預けた背からは変わらずあたたかなぬくもりが届く。華奢に見える肢体は、けれどしっかりと前に座るデボラを支えてくれる。やわらかなぬくもり。
(お師匠様の言葉は、いつでも私に真摯だもの)
嘘がない。ただ一時匿っただけの娘に告げられない言葉や思いも当然あるだろうが、それでも、その分形にして渡される言葉はいつでも真っ直ぐに、誠実にデボラに向けられてきた。それはまるで家族や領民達の言葉のように偽りなく胸に響く。デボラのことを思ってくれていると伝わるから、胸の内でさまよう言葉も安易に置き捨てられないでいる。
(難儀なこと)
覚えず吐息が漏れる。伏せた視線の先で大狼の見事な黒い毛並みにちらちらと白い光が踊るのに気付いて顔を上げた。いつの間にか走りすぎる景色の速度はゆるやかになり、薄暗い緑を切り裂くように白が視界を埋める。
西の森の終わりは、もうすぐそこにあった。
□ □ □
「また来てねー!」
元気いっぱいの声と共に振られた手にデボラもまた小さく手を振り返す。村の外れまで見送りに来てくれた子供たちは、デボラが手を振り返すと一際高く歓声を上げた。女達もにこやかに手を振っている。それが嬉しくて、デボラはゆるむ口元のまま隣りを歩く師の視線一つ分ほど上にある横顔を仰ぎ見た。
「今日も喜んでいただけましたね」
おかげで必要な物資もきちんと手に入れられた。魔女とデボラ、それぞれ一つずつローブの下で肩から斜めに提げている革箱は行きよりも少し軽くなっている。瓶が減って代わりに調味料を詰めたからだろう。
「ああ、子供たちも炎症が軽くなったと元気にはしゃいでいたからな」
厳しい冬の間に悪化したらしい皮膚炎が化粧水と薬草の併用によりずいぶん改善したのだと、取引に来てくれた親子が笑顔で話してくれた。
「ええ。花冠もいただいてしまいました」
デボラと魔女の頭上には、色違いの花で編まれた花冠がのっている。見送ってくれた子供たちが編んでくれたものだ。ローブの上からのせたそれにそっと指先を触れさせる。瑞々しい茎と花の感触がなんだかくすぐったかった。
「子供たちの感謝の証、だな」
「光栄ですわ」
抑えようとしてもこぼれてしまう笑い声に、魔女もまたかすかに頬をゆるませる。
そうして次は何を作りたいか、化粧水の改良もしたい、薬草も新しいものに挑戦してみたいなどと他愛ない話をしながら歩けば、もうすぐそこに西の森が見えてくる。
村人達の姿が見えなくなるまでは隣村へ向かう街道沿いに進み、途中で外れた後は程よく姿を隠せる岩陰を目指していた二人だ。いつもその岩陰で隠し身のローブを使うことに決めている。あと十数歩の距離までせまった巨岩を目指していたデボラの視界に、突如見慣れないものが飛び込んできた。
人影だ、と思う間に朗々とした低い声が耳朶を打つ。
「西の森の魔女殿とお見受けする」
咄嗟に止まった二人の視線の先で岩陰から飛び出したのは、丈の長い外套を身に纏った一人の男性だった。顔は深く下げられた帽子の鍔に遮られて確認することはできない。ただ、遠目に見てもひどく背の高い人物だ、とそんなことを呆然とした心地のまま思った。
(なぜ)
思わず振り仰いだ師の横顔は険しく、前方に立ちふさがる人物を鋭い視線で睨みすえている。その姿勢のまま魔女の白い繊手がひらめき、あっという間に二人の花冠をしまいローブの縁を深く引き下げる。
「隠れなさい」
端的に寄越された指示にほとんど反射で袖口を擦る。魔女の姿もほぼ同時に見えなくなった。
「森へ」
硬い声に息つく間もなく頷き森へと足を向ける。慎重に、けれど素早く。このローブは姿を見えなくするだけで、足音や声は隠せない。
(なぜあんなに確信に満ちた声で呼んだの。いいえ、なぜ〝西の森の魔女〟がここにいるとわかったの)
まるで、はじめから知っていたみたいに。
わずかの困惑と不安と、それを凌駕する焦燥に首筋を灼かれながらひたすらに西の森を目指す。森にさえ入ってしまえばヨルが迎えに来てくれる。そうすれば――
「お待ちください! 西の森の魔女殿! 姿を隠されようとそちらに居られるのはわかっております!」
男のいる岩陰を避けて森を目指す二人を空気を裂く大音声が追いかけてくる。思わず肩を揺らし、止まりそうな足を叱咤して必死に動かした。
突然の事態に震えるデボラの心など少しもかまわず男はゆっくりと、けれど確実に後を追ってくる。そのよく通る声も一緒に。
「どうか、私の話をお聞きください! 私はルスラン・セルゲヴィチ・メチェーリと申します! 北の洞の隠者殿にご紹介いただき、西の森の魔女殿のお知恵を拝借すべく御前にまかり越しました! 何卒、話をお聞きください!」
懇願に似た響きだった。いや、正しく懇願だったのか。
男の語る言葉に次第に疑問が生まれ始めていたデボラは、ふいにやわらかな何かにぶつかり足を止めた。
「お師匠様?」
囁きにも満たない声がこぼれる。
隠し身のローブを作動させているため魔女の姿は見えない。けれど、確かにぶつかった鼻先に知ったぬくもりを感じて首を傾げた。
「北の洞の隠者殿にご紹介いただいた証も用意してございます! また、魔女殿がお隠れになられた際はお姿を拝見できるまで西の森の前で延々叫べとのお知恵もいただいております! これを実行するのに躊躇いはございません! どうか、どうか一度私の話をお聞きください!」
背後からゆっくりと声が近づいてくる。その言葉のどれが契機だったのか。デボラにはわからない。けれど、確かに鼻先に感じるぬくもりがぴくりと振れた気がした。
「ならば証を」
静かな、けれど不思議とよく通る声がした。
途端に背後の男も止まる。近寄ってきたはずの気配も、声も。
鼻先で身じろぐ気配と共にデボラの半歩先の草が擦れる音がした。体勢を変えたのだ。何も見えないけれど、そうだと確信する。
「証を見せろ。セルゲヴィチ」
かすかな衣擦れの音がデボラの耳に届いた。同時に、目の前の空間に白い麗人が現れる。
いつでも美しい、デボラの師匠。西の森の魔女が険しい眼差しをデボラの背後へと向けていた。