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婚約破棄された令嬢は穏やかな日々の夢を見る  作者: やしろ
第1章 西の森の魔女
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2



 セージ、マジョラム、タイム、エルダー、カモミール。


 歌うように口ずさむ声が途切れることはない。大きくはないけれど、楽しげな拍子に合わせて紡がれる言葉が細くゆるく部屋の中に満ちていく。


「レモングラスにマリーゴールド。マリーゴールドは精油にしても化粧水にしてもお利口さん」


 鼻歌まじりのそれに苦笑をこぼしたのは、作業部屋の真ん中に据えられた大きな机いっぱいに書物を広げた白い麗人だった。


「ご機嫌だな」


 壁際の簡易竈で花を煎じていたデボラがやわらかな声に振り返れば、その先で眩しげに目を細める魔女を見つけ小首を傾げた。言葉の真意を考えないまま、にこりと笑う。


「ええ、とてもご機嫌ですわ」


 なにせ好きなことをしている最中だ。


「お前は本当に楽しそうに作業をするな」

「あら。楽しいのですから、仕方ないのではないですか?」

「延々と花を鍋で煮る作業が?」


 言われて火加減を見ていた鍋に目を落とす。竈といっても平坦な石版の上に火はなく、やはり不思議な技術で熱を生んでいる。熱加減は石版に刻まれた目盛りを押すことで変わるらしい。この技術を術式に応用するのも、今のデボラの一つの目標だ。

 閑話休題。竈と続きになっている傍らの作業台に目を向ければ、鍋の様子を見る前にむしっていた別の花の乾燥した花弁が大量に積まれていた。

 これもすべてはハーブの効能を様々な形で実現するための作業だ。それを思えば。


「とっても楽しいです」


 ふむ、と自らの作業を確認して改めて納得する。

 とても楽しい。


「それなら、まあ、いいんだがな」


 髪と同じ白銀の眉尻がどこか困ったようにほんの少しだけ下がる。それにやっぱり首を傾けた。改めて視線を向ければ、デボラの師匠である西の森の魔女は広げた書物を繰りながら小さく肩を竦めてみせる。その仕草に混じる呆れを見た気がして、けれど特段嫌な気配のしないそれにデボラは笑みで返した。


(今日もお師匠様は素敵だわ)


 作業や扱う薬物に影響を与えないよう窓一つない部屋には、デボラの知らぬ理で灯る明かりが一つ、天井で輝いている。控えめな白い光に照らされる西の森の魔女は、今日も変わらず美しい。

 暗い夜の森で出会ったあの日のままに、腰まである白銀の髪も血の管を透かすほどに白い肌も神秘的なモーブ色の瞳も。野暮ったい暗色のローブに覆われてすらわかる華奢な肢体もあいまって、まさに人知の及ばぬ麗しの五賢人そのものといった風情だ。これは朝も昼も夜も変わらない。

 今日も私の師匠は美しい、と一人満足げに頷くデボラをどこか呆れた目で見ながら、魔女はふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、今日は午後に村へ行くから、お前もそのつもりで支度をしておきなさい」

「はい。私も連れて行ってくださるとなると、北の村でしょうか?」

「ああ。だから今回は札を多めにしようと思っていてね。持ち込むものの一覧は書き出しておくから」

「わかりました」


 一つ頷いて竈へ向き直る。鍋から上がる湯気と混じる花の香にほんのり口元を上げながら、午後の予定について思考は回り始める。


(村へ行く準備は、お昼の用意をして食事を終えてからでいいかしら。ああ、でもついでに補充する食材の確認もしたいわね。お砂糖はあったけど、そろそろ塩が少なくなってきたはず。買い置きがあるかどうかを一度見てみないと駄目ね)


 デボラが魔女の家に匿われてから二ヶ月。その間に学んだ分野は多岐にわたるが、その中でもデボラ自身最も楽しんで覚えたのが家事だった。

 勿論、薬草やハーブの知識、また古今東西の術式に関する書物なども魅力的であり意欲的に学びすぎて師匠に呆れられることもしばしばあるほどだったが、何せ家事は未知のことが多すぎて毎日が新鮮な驚きの連続だったのだ。


 一般的な貴族令嬢の例に漏れず、デボラもこれまで家事とは縁遠いところにいた。デボラが学んできた家事に関する知識は、具体的な家事能力ではなく、雇っている使用人の誰が何を得意としていてどの部署へ配置すれば滞りなく家政が回るか、という管理者視点のものだったからだ。それが初めて自分で料理を作り、掃除や洗濯をして感じたのは純粋な楽しさだった。


(お料理は薬学と似たところがあるし、お掃除も汚れに対して効果のある液剤を見つけるのが楽しいわ。毎日だと大変でしょうけど、作業を知っていてこそ気付ける采配もあるでしょうしね)


 何より、できることが増えれば、それが何であれ不測の事態に対応できる幅が広がる。今、まさに不測の事態で屋敷を出ているのだ。今後どういう状況になるかわからない身の上としては、とりあえず何でも身につけておくべきだとしみじみ感じていた。


(二ヶ月経っても襲撃の首謀者は見つからないうえに実行犯はトカゲの尻尾。お父様達が仰るにはいくつか目星は点けているらしいけど、確証がない状態ですと、なんとも言えないものねえ)


 今現在もデボラの安全は保障されていない。

 それならば、と無理に領地に帰ることなく魔女の庇護下にいる娘というのも、領主であり父親であるベイトゥリー侯爵から見れば頭が痛い問題だろう。


(まあ、婚約が正式に破棄されたのが不幸中の幸いかしら。これで戻ったら実は婚約継続されていましたというのも、ちょっとねえ)


 思わず漏れそうになった吐息を飲み込む。

 あの衆人環視での一方的な婚約破棄宣言とその後のデボラの襲撃事件で、王家からは正式な婚約破棄の申し入れと、内々のものではあるが謝罪があったときいている。ついでに、陛下自らお越しいただいた非公式の謝罪の場で、父が今後一切王家との姻戚を結ばない約定を結んだという話も。


(もともと、お父様が陛下のご学友だった時のご縁と、陛下ご自身の柔軟な考えにかけての婚約でしたものね)


 通信を担う小鳥が囀る父親の淡々とした声を思い出しながら、竈から鍋を作業台に敷いた鍋敷きの上に下ろす。それなりに大きな鍋なので少し腕が震えるが、最近ようやく動作が危なげなくなってきたところだ。

 毎日見つけるちょっとした変化に思わず笑みを浮かべつつも、父親の怒りを抑えて冷えていく声を思い出せば口端には苦みが混ざる。


 今回の婚約を結ぶに至ったのは、ベイトゥリー侯爵が王の親しい友人だったことと、もう一つ。王が教会の力を削ぐため、そして更なる技術の発展の為に精霊信仰のゆるやかな復興と融和を目指していた為だ。

 王家としてはもちろん技術の囲い込みも重要な目的だったろうが、ソルタス家が婚約を承諾したのは王の国教に対する姿勢が決め手だった。


 現在、西側諸国で唯一神信仰を国教とするのはアルバ・ガリカと東隣のイーリス。南隣のベリスとその隣国グラナトも唯一神信仰だが、同時に精霊信仰も息づいており、その教義も信仰の形も前者と比べてずいぶん寛容なものだ。逆にアルバ・ガリカとイーリスの信仰は他を一切認めず精霊は邪神だといって憚らない。そのため、二国の教会特有の神術は効果が偏重しておりひどく限定的なものしかない。光に関する術式にのみ特化しているのだ。


 おまけに国教であるせいか教会の発言権が強いため、精霊信仰を元に生み出された技術に関してはひどく否定的なのが厄介なのだ。ディムフォレストの製品も何度「神の御心にそぐわない」と製品化を却下されたことか。その度に唯一神信仰に寄せて製品説明を変えたり、諦めて自領のみでの流通に切り替えたりと、とにかく苦労させられてきた。はっきり言えば面倒くさい。


(水の力を借りて、が駄目で神の御力をお借りして、だといいのよねえ。それで全部説明しようとすれば細かい教義に引っかかる製品は却下されるし、使えば邪教を信ずる悪魔といわれるし、面倒ねえ)


 この教会の存在によって葬られてきた製品は意外と多い。その技術はディムフォレストでのみひっそりと活用されているのだが、それを歯痒く思ったらしい王自らが宗教改革に乗り出す、その一歩が第二王子とデボラの婚約だったというわけだ。


(でも、あれだけの人の前で泥を塗られては、もう無理ねえ。あの時殿下が仰っていた罪とやらは、お父様がきっちり証拠つきで否定してくださったみたいですけれど)


 ああも公然と面罵されては、いくら臣下といえど再び縁を結ぼうとは思えない。


「困った方ね」


 知らずこぼれた呟きは誰に届くことなく湯気の中に溶けていく。


 美しい婚約者だった。

 デボラの存在から目を背け続ける頑なな婚約者だった。

 今でも時折考える。どれだけ考えたところで詮無いことで、わかったからといってもう一度彼の手を取ることは永遠にないのだけれど。

 それでも考えてしまう。デボラの何が悪かったのか。態度か。言葉か。それとも容姿か。はたまた肩書きか。

 六年間、折りを見ては言葉を送り問いを投げかけてきても、ついに得られなかった答えを今更知りようもないのだが。


(上の立場に立つ者が、臣下を公衆の面前で侮っては謀反の種になる。ご存知ないはずがなかったでしょうに)


 おまけにベイトゥリー侯爵は王家の血が入ったための爵位ではなく、アルバ・ガリカ建国時に併呑された小国家であった為に叙爵されたものだ。それから約四百年、西の森に隣接する唯一の領地として国境を守り続けてきた辺境伯としての側面も併せ持つ。自治領、という意識が強い領主の機嫌を損ねるのはうまいやり方ではない。彼の父親の治世の為にも。


(我が家に謀反の気持ちがないだけで、他のお家でしたら他国につけ込まれる隙になりかねないのに。……今更言っても仕方がないことね)


 あちこちに飛ぶ思考に小さく吐息して、それから振り切るように次の鍋を竈に置く。たっぷり注いだ水に泳ぐのはエルダーフラワーの花弁だ。マリーゴールドに続いてこちらも化粧水を作りたい。


(今回の化粧水は作って効果をみてからだから、最低でも一週間は必要ね。次に村へ行く時にはもっていけるかしら)


 村、というのはそのまま西の森に近い辺境の村のことだ。

 基本自給自足で野菜も肉も森で調達している魔女だが、家畜や塩、砂糖などの調味料、また小麦粉など一人分を調達するには手間がかかる穀物類などは辺境の村で手に入れている。方法は物々交換であったり、また魔女手製のハーブティーや精油、薬草などを売った金で購入しており、そのため一ヶ月に一度か二度ほど村へと出向くのだ。無論、素性は隠して。

 最初は大人しく留守番していたデボラだったが、毎回師匠にねだって聞かせてもらう村の様子ややり取りに目を輝かせているうちに、哀れに思ったのか一緒に連れて行ってくれるようになったのだ。今回で村を訪れるのは四回目になる。

 訪れる村は決まっており、南の村がディムフォレストの村。まさか自領に魔女が来ているだなんて思いもしなかったと驚くデボラに、更なる驚きを与えたのが北の村の場所だ。


(レクティタの村とは思いも寄りませんでしたものね)


 レクティタ帝国。百五十年ほど前に生まれた若き大国。もともと北側とは西の森と死の海を挟んでいるため交通の便が海路しかなく、国交はほとんどない。それでも多少なりと入ってくる情報から、北の大地に数多あった小国や部族を次々と併呑し、ついには一大帝国を築いたという程度の知識はある。

 あるが、まさかその帝国の端とはいえ領地に踏み込むとは想像もしていなかった。

 今は自領に近づくのを控えているため、必然的にデボラが着いていくのは北の村、ということになったのだが。


(おかげでレクティタ語も日常会話程度ならできるようになりましたしねえ)


 西側諸国の言葉ならともかく、一生使わないだろうと思っていた北の言語をこんな所で習得するとは。人生何が起こるかわからない。


「結局、楽しんだ者勝ちですわね」


 うそぶいて、ふつふつと煮える鍋に目を細める。

 どれだけ不安でも不安定でも、未知の出来事が次々襲ってきたとしても。超えていかなければならないのなら、楽しんでしまったほうが、きっとずっと人生は鮮やかになる。

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