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婚約破棄された令嬢は穏やかな日々の夢を見る  作者: やしろ
第1章 西の森の魔女
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1

魔法っぽい何かの設定はふわっと読み飛ばしていただければ。



 鳥の鳴く声がする。知らない鳴き声。


(いいえ)


 胸の中で呟いて目を開ける。

 寝起きの視界を埋めるのは素朴な板張りの天井だ。綾織の天蓋ではない。

 ぐるりと視線を巡らせば足の向こうの壁にとられた扉が映り、続く壁を埋める作り付けの棚とそこに整然と詰め込まれた書物や薬瓶、壷が目に入った。掛け布の上に細くこぼれる光は、ベッドの横にとられた窓から差し込んだものだろう。

 すぐ右へと目をやれば深緑のカーテンが朝の日差しを透かして淡く光って見えた。


(知らない場所じゃない。ここはお世話になっているお師匠様の家)


 久しぶりの確認をしてデボラはゆっくりとベッドの上に体を起こすと、ついでにカーテンを一息に引き開ける。途端に目に飛び込む森の景色もここ一週間で見慣れたものだ。

 朝を迎えてなお暗い鬱蒼とした森だが、それでもそこここに葉の合間を縫ってこぼれ落ちる光の筋が見て取れる。朝の清かな木漏れ日を受けて苔やシダについた朝露がきらめく様は、何度見ても美しい。

 ほう、と息を吐く。


(西の森の深さは話に聞いていたけれど、こんなに植生が豊かだったのは嬉しい驚きだわ)


 屋敷の図書室で読み漁った書物の中の植物が、ここでは実際に見て触れて観察もできれば活用もできる。おかげで気になっていた化粧水や保湿軟膏、薬の試作もできて毎日が充実している。

 おまけに師匠の家には、屋敷の図書室よりも遥かに豊富で多岐に渡る分野の書物が保管されており、もともと術式の構築や研究に興味のあったデボラとしては嬉しい誤算だった。


(王都から領地に帰る途中で襲撃にあったときはどうしようと思ったけれど、これは精霊のお導きに違いないわね)


 薄暗くも美しい森の朝を眺めながら口元は自然と笑みを刻む。


 一週間前、突然の婚約破棄を告げられたあの夜会の日に、デボラは怒り心頭の両親と兄の勧めにしたがってその日のうちに領地へと帰途を辿っていた。両親は事後処理のため、兄は残りの社交期をこなすために王都に残り、後から母だけが処理を早めに切り上げて領地に戻ってくる、という算段だった。しかし、夜中に人知れず出したはずの馬車は道半ばで襲撃にあい、デボラ一人が命からがら近くの森へと逃げ込んだ。


 それが西の森だったのだ。

 今デボラがいる森であり、ソルタス家所領であるディムフォレストに隣接する深き森。おとぎの森。

 西側諸国の子供たちなら一度は寝物語に聞くだろう、誰も分け入ったことのない深く暗い森。

 鋭い牙を持つ人狼や千里を見通す大梟、見た者に死をもたらす黒い牡鹿。

 教会の定めによって悪魔とそしられる深き夜の住人達が跋扈するという森は、同時に北の若き大国、レクティタ帝国との天然の国境であり要害でもある。自分たちも開拓できない代わりに、他国からの侵攻も許さないこの森は古くから世界の西と北を分けてきた。

 そんな前人未到の森のもっとも深いといわれる場所で今、デボラは西の森の主である『西の森の魔女』の弟子として日々をのんびりと送っていた。


(精霊術の術式もたくさん試作できるし薬草やハーブの知識も教えてくださるし、言うことないわねえ)


 森には確かにこれまで見たこともなかったような生き物や危険な獣もいたが、幸いにしてデボラは森に入ってすぐに人語を解す黒狼に助けられ、危なげなく西の森の魔女の家まで案内された。

 おまけにどんな気紛れか西の森の魔女に助けてもらうことができたのだ。


 魔女の庇護下に入ってからは、彼女から森の危険な場所や時間、注意すべきことを教えられ、それを守ってさえいれば領地と同じくらい安全に過ごすことができた。おまけに森に薬草やハーブの採取の為に入る時は、魔女の友人であるという黒狼が護衛のようについてきてくれるのだから、自ら危険に飛び込まない限りは何も心配することがない。


(屋敷に連絡も入れてくださったし。おかげで私の安否だけでなくてエイダやオリバー達の無事が確認できて良かったのだけど)


 襲撃当日、共に領地へ帰るはずだった侍女と護衛、御者の顔を思い浮かべ、髪を整え簡素な日常着に着替えながら今更のように首を傾げる。

 保護された当日は混乱しきりで言われるままに流され、魔女の世話になることが決まってからは森での生活に慣れることに必死で忘れがちだったが、改めて考えてみると謎が多い。

 保護してもらえたのは深く感謝しているしその幸運を素直に喜んだものだが、なぜ世界の五賢人とも謳われる西の森の魔女が一介の貴族の娘ごときを保護してくれたのか。両親に連絡を取ってくれたのはありがたいが、その様子を見ている限り以前から面識があった風でもない。


(声だけだけれど、お父様もお母様も驚いていたし。私も小鳥がおしゃべりするのに驚いたけれど)


 魔女がデボラから事情を聞き、ソルタス家に連絡を取るため用意したのは手のひらほどの大きさの白い二羽の小鳥だった。

 一羽を夜の森に飛ばし、しばらくして手元に残した小鳥が可愛らしく一声したのを皮切りに魔女が突然話し出した時は驚いた。ややして動揺する父母の声が小鳥の小さなくちばしから聞こえてきた時には思わず声を上げてしまった。

 小鳥がいわゆる相互通信の能力を持っているらしいと気付いたのは、大方の話とデボラの当面の処遇が決まってからのことだった。


ディムフォレスト(我が家)でも相互通信の術具はあるけど、こんなに遠距離でできるなんて初めて見たわ)


 アルバ・ガリカにもディムフォレストが開発した相互通信の為の道具はある。

 腕輪やイヤリングなど装身具に組み込まれた術式によって離れていても互いに会話ができるものだが、通信可能距離は限られており、その範囲は最大でも王城の敷地程度だ。

 小鳥は魔女の使い魔らしく、デボラたちには理解できない理で動いているためその原理を学ぶことはできなかったが、現在ある通信技術の改良への糸口にはなりそうだった。


(お師匠様のお話を聞くだけでも一つの手がかりになるものね。訊けば答えてくださるし)


 そこまで考えて、ふと手を止める。

 襲撃を受けた夜。黒狼に導かれるまま訪れた、森に埋もれるようにして建つ小ぢんまりとした家で出会った魔女は、突然尋ねてきた小娘にけれど驚きもせず淡々と迎え入れてくれた。デボラの名乗りにもわかったようにうなずくだけで、慌てることなく暖炉の傍に案内しあたたかな飲み物を与えてくれた。

 死の恐怖に震えるデボラの手を優しく包んでくれた。

 そのときの、雪のように白く冷たい美貌の中で一際目を引く美しいモーブ色が気遣うような色をのせてこちらを覗きこんできたことを思い出して思わず頬をゆるませた。

 優しい人だ。

 けれど同時に謎深い人でもある。


(ソルタス家のことご存知なのかしら。太古の知恵者で有名な方たちだからご存知でも不思議はないけど、でも、俗世に関心のないことでも有名だし、ここ百年の間で五賢人のどなたかが俗世に関わったという話も聞かないし。……それも訊けば答えてくださるかしら)


 世界には五人の賢人がいる。

 それは、少なくともデボラの知る世界の国々の共通認識であるはずだ。

 東の峰の賢者、西の森の魔女、南の泉の愚者、北の洞の隠者。そして世界の中心を細く長く南北に穿つ死の海の真ん中、ただ一つ浮かぶ岩山の頂上にある巨大な大穴に住まうとされる大穿孔の聖者。称して五賢人。

 世界の始まりと共に生まれ、ただ五人だけで歴史を見守り続けてきたという彼らは、深い知恵と失われし力をもって気の遠くなるような時間を生き続けてきたのだという。


(おとぎ話とまでは言わないけれど、代替わりしていたのかと思っていたわ。でも、どうにも……)


 この一週間接した師匠の深い知識と理の違う力をみるにつけ、伝説が架空の物語ではないことを肌で感じる。


 デボラたちこの世界に存在するものは、多かれ少なかれ世界に漂う〝力〟を利用して生きている。アルバ・ガリカでは神力と呼び、遠い南の国では神霊力と呼ばれ、デボラたちディムフォレストの者が精霊力(マナ)と呼び習わす世界に満ちる力だ。

 火であり水であり風であり地であり、光であり闇である力。

 術式はその力を借り特定の効果を生み出すための装置であり、式を刻む媒体や式の形によって多種多様な結果を導く。術式の起動には誰もが生まれ持つ〝力〟を少量流すだけでよく、この術式の進化によって人々の生活は格段に向上してきた。

 火をつけ水を温め、地脈から水を引き大地を穿つ。指先で術式を一撫ですれば夜は皓々と明かりが灯り、蛇口から水が溢れ風呂も沸くし暖炉に赤々と火が燃える。


 しかし、西の森の魔女はこの〝力〟を使わない。

 まったく別の理をもって力を振るいデボラたちには理解し得ない高度な技術をもって生を営んでいる。それはデボラにとって想像もできない事実だった。

 そうして同時に、その事実によって西の森の魔女は正しく伝説上の存在そのものであると確信するにも至ったのだが。


(まあ、どちらにしてもお師匠様が素晴らしい事実にかわりはないわねえ)


 ベッドを整えエプロンを腕にかけると一つ頷く。


「何がどうであれ、今はできることをするだけ、よね?」


 現状、領地へ帰れば命を狙われる。

 今も定期的に通信をしている両親から得た情報によると、西の森に迷い込んだことでデボラの生死が定かでなくなり国内で死亡説が実しやかに流布していることから、ひとまず領地周辺の不審な動きは目立たなくなったらしい。しかし、あの婚約破棄宣言に絡めて内情を探る者や同情めかして情報を得ようとするもの、牽制をかけてくる者などが多く予断を許さない状況は今も続いているようだった。


(もともと我が家は王家から目をつけられているし、そこにつけ込んで追い落とそうとする方や逆に我が家を旗印にして謀反を企む方もいたりで昔から不安定なのよねえ)


 だからこそ、今回の婚約は衝撃的なものであったしそれだけ人々の注目を集めてもいた。最後はこんな結果になってしまったが、王家とソルタス家の婚約はアルバ・ガリカにとって確かに一つの変化の兆しであったのだ。

 唯一の神を奉ずる教会とそれを国教とする王家。

 表向きは国教を尊重しながら、その実土着の精霊信仰を守り続けるディムフォレストとソルタス家。

 その溝は二百年ほど前に一度ソルタス家取り潰し直前まで深まり、けれどソルタス家筆頭にディムフォレストの持つ精霊術、彼らが神術と呼ぶその技術の高さゆえに家の断絶を免れてきた。


「〝力借りるならば精霊の声を聞け〟」


 呟いて目を細める。視界にキラキラと美しい光が踊った。それに知らず口元をほころばせる。

 ディムフォレストに綿々と伝えられてきた言葉だ。

 アルバ・ガリカの国民が神術と呼び習わす技術は、すべて世界に満ちる精霊の力を借りた上で成り立つものだ。

 ディムフォレストではそれを木・火・土・金・水として理解している。

 その認識がなければディムフォレストが生み出すほどの術式を作り出すことはできず、また術式によって導き出される力を十全に活用することはできない。同じ術式を刻んでも、ディムフォレスト領民と他の領民では効果がまったく違うのだ。それでも尚ディムフォレスト製の術式や施術した日常の道具は他を圧倒する精度と効果を持つ。それは周辺諸国と比べても比類ないものだ。それゆえに建国以来、危険視されながらも保護されてきた。


 アルバ・ガリカは西側諸国の中でも比較的生活水準の高い国だが、それを支えるのはディムフォレスト製の生活用具なのだから、それを理解しているだろう国の上層部がいたずらに手を出せず歯がゆい思いをしていることは想像に難くない。


(国防にあてる術器も八割ディムフォレスト製ですもの、そうおいそれと我が家を潰すわけにはいかないでしょう。それでも尚、私の存在が邪魔なものがいて、行動に移してしまうほどの何かがある。あるいは私の死によって引き起こされる何かを狙うものがいる……)


 アルバ・ガリカにおいて、ディムフォレスト領とそれを統治するソルタス家は正しく腫れ物だった。

 高度な術式を施し属性を付加させた武器を作り出す技術、そしてそれを転用した生活用具の開発技術においては恐らく西側諸国でも群を抜いている。だからこそ、今までどれだけ邪魔でも潰せずにいたのだ。潰そうとすれば己が身に返ってくる。それは二百年前に一度経験してわかっているはずだ。

 それなのに、デボラの命が狙われた。


(内憂か外患か。どちらにしても、そうまでして得たいものは何かしら)


 今回の首謀者の目的がわからなければデボラの身の安全はいつまでも保障されない。だからこそこうして魔女のお世話になっているのだ。そうして、デボラ個人としては、できるならこれからもここで暮らしていきたいとも思っている。


(夢のような日々ですものね)


 部屋の壁を埋め尽くす書物や薬瓶を眺めて目を細めた。

 かつて幼い頃に一瞬だけ夢見た世界。大好きな植物の観察や実験をして、術式を編んで施術の腕を磨いて。そうして大好きな人々の笑顔を見るだけの生活。


「愚かなこと」


 呟いて視線を落とす。

 細く日にも焼けていない、丹念に手入れされた手。

 一週間程度の水仕事では、手入れを欠かさなければ荒れることはない。貴族の娘の手だ。なんの苦労も知らない手。その恩恵に付随する責務を忘れるなど、愚かにも程があった。


「デボラー?」


 扉の向こうから師の声がした。恐らくいつも一緒に朝食を作る弟子が台所にいないことに気付いたのだろう。


「はい! 今伺います!」


 手にしたエプロンをつけながら小走りに部屋を後にする。

 手早く顔を洗って、いや、その前に一度台所に顔を出したほうがいいだろう。彼女は少し心配性だから。


(昔の夢を見たせいね)


 久しぶりに寝起きで戸惑ったのも、今更な疑問に囚われたのも。

 一週間前の夜会の夢を見たせいだろう。

 何故命を狙われたのか。何故常に世界に対し中立であり続けた五賢人の魔女が助けてくれたのか。何故匿い続けてくれるのか。

 どれだけ理由を考えても、今のデボラには何一つわからないしすべては憶測の域を出ない。

 それでも、ただ一つ分かっていることがあるから。


(お師匠様の目は、いつでも優しいもの)


 母のような、姉のような、祖母のような。あまり表情の変わらない怜悧な面立ちの、その目の中にだけはいつでも慈しみを見つけることができるから、デボラはこの深い森の中で己を見失わずにいることができる。

 命を狙われても家族から離れても見知らぬ森の中に放り出されても。前を見ることが出来る。

 だから今日も、デボラは笑顔で挨拶するのだ。台所に立つ華奢な背に声をかける。


「おはようございます、お師匠様」


 振り返るその人の、優しく細められたモーブ色の目にデボラはそっと頬をゆるませた。

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