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「英明なるアーネスト・オブ・フォグレイク殿下。我が国の裁判、それも爵位を持つものが法によって裁かれる場は、我がアルバ・ガリカ国主の名の下による高等裁判所のみであること、もちろんご存知のことと存じます。殿下が仰るレディ・アッカーソンへの私の罪とは、お言葉から察するに傷害、器物破損、財産の横奪、脅迫といったところでしょうか。この罪を、私、ベイトゥリー侯爵が長女、デボラ・ソルタスのものとし、その真偽を問い、罪を裁く権利を行使できる国王陛下のご意思によりその名代として、アーネスト・オブ・フォグレイク殿下が今、この場で宣言されたと受け取ってよろしいのですね」
周囲の人垣がざわめく。好奇と不安、不審が囁き声となってゆるくこの場を取り巻く。
(お答え如何によっては王太子の王位継承を待たず、即時の臣籍降下もあるのだけれど、大丈夫かしら)
不穏な喧騒に心なし頬を白くした婚約者の目が初めて揺れた。
〝オブ・フォグレイク〟はフォグレイク離宮で生まれた第二王子につけられた通称であり、即ち彼が王位継承権第二位以下であることを示す。
国名を戴けない王子の権能は、この国においてそれほど強くない。基本的に次男以下は王太子の王位継承と共に爵位と領地を与えられ臣籍降下するからだ。その多くは公爵に叙され、新たに姓を与えられて国を支える貴族となる。
しかし、王位継承前の臣籍降下は事実上の除籍扱いだ。この国の法は王族を罰することができない。代わりに静養という名の軟禁、臣籍降下を謳った流刑に処されるのが習いとされている。婚約者は今まさに、その瀬戸際に立っているのだが果たして気付いているのか。
アルバ・ガリカの国名をその名に戴く権利を有するのは、国内においてただ二人。国主たる国王とその後継者である王太子だけだ。〝オブ・アルバ・ガリカ〟の持つ権威と権能は計り知れない。その中には無論司法権もあり、翻って国主以外に貴族を裁けるものはいない。
本来貴族を起訴するには、申立人が訴状を用意し法務省に提出、省内での審議を経て王に奏上し、王の裁可を受けて初めて裁判所へと回される。国王の命がなければ裁判すら起こせないのだ。
それを、〝オブ・フォグレイク〟しか持たぬ王子が国主の権威を発動させると、この衆人環視の中で宣言することの意味を、わかっているのか。
「それは……」
さすがに言いよどんだ王子に、周りを取り巻く四人がいっせいに眉を寄せ、不快や驚きを示す。
(殿下はまだ更正の余地あり、かしら。もうほとんど意味のない躊躇いですけど)
この婚約破棄は国王の意思を反映していない。それは問わずとも明らかな真実であり事実だ。デボラが何より知っている。
ならば、国主の意思に反してその権威を振るうのは明らかな越権であり専横であり、叛意すら疑われても仕方のない行為だ。そこに気付くだけの頭があることに安堵すべきか嘆くべきか、デボラは少しだけ悩んだ。残念ながら、花と蜜蜂たちはそんな当たり前のことにすら思い至らないようだが。
(大丈夫なのかしら)
男爵令嬢はともかく、残り三人はいずれ国の未来を背負って立つ人材だろうに。
「裁判、訴訟の件に関しましては後ほど国王陛下の令状と共に正式な使者を立てていただければ幸いですわ」
できればの話だが。
そもそもこの婚約は、ソルタス家とその所領であるディムフォレストの持つ突出した神術関連技術の囲い込みを狙う王家たっての希望で結ばれた、多大に政略要素を含んだものだ。ソルタス家が望んだものではない。それに。
「それとは別に、婚約破棄に関しまして。私の意思として、お受けします、と申し上げます」
「は?」
「ですから、お受けします、と」
「なぜ……」
呆然と呟くアーネストに首を傾げる。
「なぜ、と仰られても。殿下のお望みであれば、私としても異存はございませんもの」
何を驚いているのか。そちらが望んだことだろうに。
アーネストもアッカーソン男爵令嬢もその取り巻きたちも、まるで、デボラが拒否するのだとでも信じていたような反応だ。揃って目を見開く様がおかしくて小さく笑う。それに弾かれたようにアーネストが口を開いた。
「何を企んでいる!」
珍しく声を荒らげるアーネストの姿にわずかに目を細めた。
企む。一体誰に何を吹き込まれたのか。
鼻白み、それでもこちらに向けられる焦ったような怒ったような、ほんの少しの戸惑いすら浮かべて揺らぐ青い瞳にかすかな痛みを覚える。
彼が笑うところも怒るところも、ついには引き出すことができなかったと、少しだけ寂しく感じた。デボラの前では、いつも無表情かつまらなそうな顔を崩さなかった麗しい婚約者。
(最後まで恋心も愛情も抱けなかったけれど)
ちらりと男爵令嬢へ視線を向ける。
フィオナ・アッカーソン。
アッカーソン男爵の一人娘。庶子らしい、と教えてくれたのは誰だったか。貴族らしくない天真爛漫さで蜜蜂たちに溺愛されているらしい美しい少女。伝聞の中でしか知ることのなかった令嬢は、確かに愛らしい。
アーネストの腕に縋って震えてばかりの、か弱くたおやかな印象を与える、そんなところばかりは貴族令嬢らしい貴族令嬢。その目に時折閃く優越の色は、きっと気のせいではないのだろう。今も嘲りの笑みが震える唇に見え隠れしている。それを男の前で隠し切る能力はあるのだから、令嬢としては正しい姿だ。
(それに、驕るのも無理ない美貌だものね)
噂には聞いていたが、初めて正面から見た令嬢は確かに男の庇護欲を刺激する可憐な容姿だった。
ゆるく波打つ赤みを帯びた甘い金の髪、けぶる睫に縁取られた潤んだ碧眼。雪のように白い肌も折れそうに華奢な肢体も美人の条件を満たして余りある。大きな目の愛らしい少女。アーネストと並べれば、揃いの人形のようだ。
どちらかといえば忌避される真っ直ぐな黒髪に翠の目。肌も雪白というには足りず、体躯も華奢というには胸と腰に肉がつきすぎている自分と比べれば、その美醜において確かに雲泥の差だろう。デボラは、自らの容姿が特段優れていないことを誰よりも正確に把握していた。醜いといわれるほどではないが、美しいと賛美されることもない。だからこそ、少しだけ思うのだ。もし、自分が彼女のようであったなら。
(いいえ、私は私。もし、なんて思ったところで詮無いこと)
振り切るように小さく首を振り、目を上げる。
「企んでなどおりませんわ。心からの言葉を申し上げたまで。ただ、私の一存では正式な手続きにまで至りませんので、ぜひ当家当主を通しての申し入れをお願いいたします」
そこで言葉を一度切り、捉えた青い瞳にかすかに笑んでみせた。
「最後に、アーネスト殿下」
美しい人。少女達が見る夢そのもののような、麗しい王子様。
この人の妻になるのだと信じていた。
恋も愛も育めなくとも、この国を支えるための協力者にはなろうと、なれると信じてこれまで歩んできた。そのために費やした時間も言葉も、ついに彼には届かなかったけれど。
どこか呆然とした様子の婚約者を真っ直ぐに見つめる。ゆっくりと、一言一言はっきりと、過つことなく言葉が届くように口を開く。
「私も、我がソルタス家も、ディムフォレスト領民の一人に至るまで、こたびの婚姻を望んだことは一度としてない事実を申し上げます」
アルバ・ガリカ王族との婚姻など。
口にはせずにうそぶき、殊勝げに目を伏せる。
「縁結ばれずとも、光輝なるアルバ・ガリカにこれまでと変わらぬ忠誠と献身を」
口角は上げたまま膝を曲げて上体をほんの少し折る。ドレスは右手で摘んで、空いた左手は腹の上に。敵意がない証。
王室儀礼に則った一礼を典雅に終えて、デボラは静かに踵を返した。アーネストの顔は見なかった。必要がないから。
背後で誰かを呼ぶ声がする。父と兄の声も。同じく扉へと向かう母の姿が見える。あとで抱きしめてくれるだろうか。少し遠くから新たな喧騒も聞こえ始めていた。
けれど、デボラの舞台はこれで終わりだ。あとは彼女の領分ではない。こちらを見る人々の好奇や不満、不安、憐れみも嘲りも振り切って、デボラは昂然と顔を上げ、淑やかに茶番劇の舞台を後にした。