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革の長靴越しに感じる草地は柔らかく、馬から下りた足を優しく受け止めてくれる。空気は冷たいが、淡い色した草の柔らかさも自らの足で立ってみて初めて気付く白や黄色の小さな花影も、確かに春の終わり、命輝く夏の息吹を予感させるものだった。
「足元に気をつけて」
「お気遣いありがとうございます」
頭上からかけられた声に顔を上げる。
休憩予定の村近くに着いた一行はひとまず下馬して、これから村に一軒だけあるという宿屋兼食事処へ向かうことになっている。デボラもまた、先に下りたルスランの手を借りて、久しぶりのような気のする大地を踏みしめたところだった。
あまりに自然に差し出された手に手を置いたまま見上げれば、穏やかな眼差しが降ってくる。色だけ見れば冷たい印象なのに、その目は思いのほか気持ちを映して表情を変えるらしい。
(〝お師匠様の弟子〟に敬意を払ってくださっているのね)
魔女の家で行動を共にしている時も思ったが、ルスランのデボラに対する態度は一貫して丁重かつ物腰柔らかなものだった。初日こそ硬質で冷たい印象を受けたが、ほんの数日でずいぶんと気安いものになった。
あの、『魔女の家』という人の世の理の外であるという環境がそうさせたのかもしれない。デボラ自身にも覚えがあるが、あそこでの生活は張り詰めていた気が緩んでしまうから。
お互いの立場を気にせず、さほど腹のうちを読まなくていいというのは心を軽くし、垣根を低くする。助言をもらう相手の身内に丁重に接するだけでいいのだから、気持ちも軽くなるだろう。
「ここで休憩を挟んで、二つ先の町で今日は宿泊する予定だ。弟子殿には申し訳ないが、あと少し辛抱してほしい」
「いえ、私こそ皆さんの足を遅くしてしまい申し訳ありません。もっと乗馬に慣れていればよかったのですけれど」
早馬で駆ければ約一日で着く道程は、デボラに合わせて休憩を入れつつ二日をかけての行程となっていた。魔女の印として赴くとはいえ、明らかに重荷になっている状況は、なんとも言えず申し訳ない。
「気にするな。行程は間に合うように組んであるから、そう急くこともない。それに、早馬は馬も潰すからな。丁度いいくらいだ」
「ですが……」
軽く眉を上げるルスランに戸惑いがちに口を開いたところで、後ろから朗らかな声がかかった。
「そうですよ。閣下の仰るとおり、このくらいの行程のほうが人も馬もありがたいですから。それに時間にも十分間に合うよう余裕をもって予定を組んでますし」
馬を撫でながらにこやかな笑みを浮かべる麦の穂色した髪とはしばみの目を持つ男を、隣りの暗褐色の髪と髭の男が嗜める。
「その通りだが、ニール、お前は少し口を慎め。申し訳ありません、閣下。弟子殿も、このような事情ですので、どうかあまりお気になさらず」
「いや、宮殿内でもないのだから、お前もそこまで堅苦しくしなくていいぞ、ヴラース」
次々にかけられる声に目を瞬く。それから彼らの会話に口元がゆるんだ。
ニールとヴラースはルスラン直属の部下だと紹介を受けている。ミターリ領所属の騎士らしく、ニールは三十前後の朗らかな笑顔が印象的な、ヴラースは彼の上司らしい四十半ばの男だ。
他にもう一人、彼らの後ろに続くやや緊張した面持ちの年若い青年、イワンを含めて今回の旅路の成員のすべてとなる。彼はどうやら近衛の二番隊の隊員らしく、ルスラン曰く「皇帝陛下のお気持ち」らしい。若いが要人警護の任務を主とする二番隊でも優秀な隊員とのこと。確かにみな、武人らしく頑健な体躯で動きも機敏だ。そして。
(皆さん、背が高いのね……)
出立の時も感じたが、こうして並んで立ってみれば小人になったかのような錯覚を受ける。一番低いヴラースですら、ゆうに目線二つ分以上は違う。おそらく民族的な体格の違いなのだろうが。
(ミターリ公が私を小柄と仰るわけがわかる気がするわ)
アルバ・ガリカでは、デボラは女性の中では平均より少し高いくらいの身長だった。小柄で華奢な女性が好まれる祖国ではあまり褒められることのない体格も、環境が変われば小柄に見えるとは、なんとも皮肉な思いがわく。
「弟子殿? どうかしたか?」
「いいえ、何でもございません」
頭上から降ってくる声にゆるく首を振る。
ふとした拍子に浮かび上がる自嘲や己を卑下する気持ちを苦笑一つで飲み込む。今はそんなことで落ち込んでいる場合ではなかった。
「そうか。何かあれば遠慮なく言ってくれ」
気遣わしげな視線とともに寄越された言葉に、デボラの口端も自然と上がる。
「ありがとうございます」
村へ入った一行は、このまま食事処で軽食をとり、馬はその間、宿の人間に預けてこちらも水と飼い葉の補給を受けるらしい。馬や馬車が主な交通手段である為、ほとんどの宿には馬を休ませるための施設が付随しているのだ。こういったところは祖国と変わりない。
昼の営業時間も終わりかけだという、客のいない食堂になんとか滑り込んだ五人は、黒パンにチーズや燻製肉を挟んだ簡単な食事と飲み物で一息つくことができた。
イワンだけは公爵閣下と同じ席で食事を取るなど、と恐縮した様子で固辞していたが、ルスラン自らの勧めもあって結局同じ席を囲むことに落ち着いた。
「いやあ、しかし弟子殿がこんなに小柄な女性とは思いもしなかったですよ」
あらかた食事も終わり、それぞれお茶や果実水で喉を潤していたところで上がったニールの声に、デボラはちょっと首を傾けた。
「驚かれましたか」
「はい。もっと、こう、気難しい年配の方を想像していました」
「まあ」
「ニール!」
あまり気負いなくあれこれ話す性質らしいニールを諌めるのはヴラースの役割になっているようだ。食事中も始終こんなやり取りをしていた為、デボラもそういうものだと慣れてきた。どうやらニールとヴラースはルスランと旧知の仲らしく、主従関係はあれど、やはりこの三人の会話も気安い。一人イワンが畏まっている様子がまた面白い。
重要な任務を抱えているとはいえ、気を張り詰め通しでいてはいつか参ってしまう。緩急が大事な場面で、ニールの気さくな態度はデボラにとってもありがたいものだった。
「ご期待に沿えず申し訳ありません。このような姿ですけれど、お師匠様ほどとは参りませんが、きっとお役に立ってみせますわ」
笑い混じりに返せばニールも大仰な仕草で首を振ってみせる。
「いやいや、とんでもない。こんなにお優しく知恵深い方をお連れできて、これ以上ない幸運ですよ! ですよね、ヴラース様!」
「それは勿論だが、お前はもう少しその喋りを何とかできんのか」
「ははは、今更ですよ」
本当に今更だ。
向かいで交わされる会話に、思わず小さな笑いが漏れ出る。
「身に余るお言葉ですが、ありがたく頂戴しますね」
「いや、謙遜しなくとも、弟子殿は十分に素晴らしいと思うが?」
突然右隣からかけられた声に思わず顔を向ける。上げた視線の先で、隣りで食後のお茶を楽しんでいたはずのルスランがこちらを見下ろしていた。少しもふざけたところのない真摯な薄い青の目が、彼が真剣であると言外に告げている。
「え、あの?」
戸惑うデボラを置き去りに、ルスランはなんでもないことのように続ける。
「精霊術への造詣の深さは勿論、薬草に関しても素晴らしい知識を持っているだろう。それに、短くはあるがその中で見知ったあなたの人柄は、尊敬に値するものかと思うが」
それは流石に褒めすぎだ。
思いもかけない場所から飛んできた、どう考えても分不相応な絶賛にデボラは瞬間どう反応すべきかわからずに固まった。
そんな二人の向かいでは三人の帝国騎士がひそひそとなにやら言葉を交わしている。
「すごい、俺、殿下が女性口説くところ、この長い付き合いで初めて見ました」
「閣下だ、馬鹿者。しかし、あれは口説いてるというかなんというか」
「ミターリ公爵閣下、平然とされてますけど、あれ恐らくご自覚がないのでは……?」
「自覚なくあの言葉が出てくるってすごいな。確かに道中、閣下にしては距離近いしずいぶん気を遣ってるとは思ったが」
「ああ、女性には、紳士的だけれど冷たいと評判ですからね……」
部下同士の密談をしていないで助けを出してほしい。
一体どこでどんな風に間違ったら、こんな突拍子もない賛辞が出て来るのかデボラには皆目見当もつかなかったが、救いといえるのはルスランの言葉に他意がないことだった。言葉のままの感情を抱いてくれているらしい、というのはその目を見ればなんとなしわかる。
今も真っ直ぐに注がれる薄い青の目にあるのは、特別な熱を孕まない、ただ純粋な敬意だ。
それこそが分不相応だと思うのだが、今その問題は横に置いておくことにする。
(西の森の魔女の弟子に向けるにしても、少し評価が高すぎるわ。八割社交辞令だと思うけれど、それでも)
ルスランがデボラに対し、その言動を見て敬意を払うに値する人物だとみなしてくれたことは事実だろう。目的を達する為の、望む助言を得る為の方便があるのだとしても、そうして敬意を向けてくれることは、素直に嬉しい、と感じる。
だから、デボラは縫いとめられたように固まっていた唇をなんとか動かし笑みをのせる。少し不恰好になってしまった気もするけれど。
「私にはもったいないお言葉ですが、そのお気持ちはとても嬉しく思います。ありがとうございます」
伝えれば、凍った湖面のような目が和らぐから、デボラは、まあ、いいかと己の戸惑いを押し込めて笑った。




