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馬上で感じる風はデボラの知るものより幾分冷たい。
春の終わり。もうすぐ初夏を迎えようというのに、空気だけを思えば初春に逆戻りしてしまったかのようだ。乾いた空気が目深にかぶったローブの隙間からするりと入り込み、デボラの耳元を撫で首筋をくすぐっていく。
眼前に目を向ければ、どこまでも続くような薄い青の空と淡い色した草原が地平で交わる。筆で刷いたような雲が浮かぶ空も、広大な草原に時折過ぎる雑木林の影も、何もかもが目新しく映った。
(異国の風景だわ)
母国とはあまりに違う景色の色と空気に、デボラは知らず感嘆の息を吐いた。
レクティタ帝国の帝都クラースナヤへの道行きを駆けるのはルスランを筆頭に彼の部下を含めて四騎。西の森を発ってから一つ目の村を過ぎ、次の村へと向かう途上だ。辺境のせいか、それとも国土が広い為か村から村までの距離は長く、次の村で一度休憩を入れる予定になっているのだが、人里を離れた途端に広がる雄大な景色にデボラは圧倒されていた。
(西の森に近い村まではそれほど景色が違うとは感じなかったけれど、こうして見るとやはりずいぶん変わるのねえ)
アルバ・ガリカは丘陵地帯や森林が多く、地平線などそうそう見る機会がない。果てのないような地を馬で駆けるのは、思ったよりもずっと心が躍るのだと、こんなことでもなければ生涯知ることはなかっただろう。
「弟子殿、何か気になることが?」
ふいに耳元に落とされた声にビクリと肩が跳ねる。景色に気を取られて忘れていたが、今デボラはルスランの馬に同乗させてもらっているのだ。帝国公爵と共に乗るのは、と遠慮したが、やんわりと押し切られて、気がつけばルスランの前に騎乗していた。
(安定感は確かにあるのだけれど……)
背後から包み込むように囲われた腕の中は、鍛え上げられた武人らしくしっかりとデボラを支え小揺るぎもしない。駈足の馬上はそれなりに揺れがあるが、それで不安定になるようなことも極端な疲労が出ることもこれまで一度もなかった。軍馬らしい大きな馬の体格もあるのだろうが、純粋に乗り手の腕がいいのもあるのだろう。
魔女のものとも違う、勿論父や兄とも違う背後の熱は、存在を思い出してしまえば、なんとなしデボラを落ち着かなくさせる。
「いいえ。北の地を実際に目にしたのは初めてですので、珍しくて、つい」
蹄の音や頬を切る風の音に消されぬようにと振り仰いで声を上げれば、すぐ鼻先まで迫っていた白皙がわずかにゆるんだ。
「北の地は初めて見る?」
「はい。西の森と何もかも景色が違うので、驚いておりました」
思った以上に近くにあった形の良い唇がやわく笑みを刷くのを目交いで見てしまったデボラは、どこか呆然とした心地になった。
(お顔の整った方だと思ってはいたけれど、表情が和らぐと印象が驚くほど変わるのね)
いつかも思ったが、少し表情が変わるだけで氷のような鋭い雰囲気が薄れ、春に溶ける雪解け水のようなそれになる。その変化さえ美しいのだから、もはや感嘆しか出てこない。これまでデボラが知る美しさとはまた少し違う美がルスランの上にはあった。
「草ばかりで退屈ではないか?」
風にもっていかれぬよう配慮してくれているのだろう。今にも耳に触れそうな位置で落とされるルスランの低い声にデボラはちょっと首を傾けた。熱が離れ、その間を乾いた風が通り抜けていく。風の流れを感じながら、デボラは眼前に立ち現れては後ろへと駆け去っていく雄大な風景を臨み、そして小さく首を横に振った。
「いいえ」
眼前に広がるのはどこまでも続く広大な草原と地平で交わる薄い空の青。地の果てへと至りそうな、息を飲むばかりの光景だ。
首を捻り肩越しに背後のルスランを仰ぎ見る。
「素晴らしく雄大で、胸に迫る景色ですわ」
風となって駆けていく想像をすれば容易く気持ちが高揚するような、どこまでも駆けて行きたくなるような、そんな景色だ。
(とても好きな景色だわ)
アルバ・ガリカも美しい国だ。緑深く花咲き乱れ、森にかかる霧も王都を濡らす雨も風情のある美しい国だ。ディムフォレストの美しさ素晴らしさも、一日中だって語ることができる。
けれど、今目にしている景色もそれとは違う美しさがある。どこまでも雄大で壮大な、精霊の満ちるすべての事象に頭を垂れたくなるような、畏敬と同時に果てない憧憬を抱かせる風景。どちらも素晴らしく美しいものだった。
地平のその果てまで見えないものかと前方を臨むデボラのすぐ上で短い笑い声が弾けた。それから再びローブに隠れた耳元に熱が近づく。ルスランの顔が寄せられたのだろう。
「弟子殿の旅路の慰めになったのなら良かった。今日いっぱいは村以外このような景色が続くからな」
「それは、とても楽しみです」
心からの言葉を素直に口に出せば、ローブから覗く頬に吐息がかかる。どうやらルスランが笑ったらしい。頬を切る風に紛れることもなく届いたそれに首を傾げた。何がおかしかったのか、よくわからぬままデボラの心は再び眼前の景色と、そして残してきた大切なものたちへと向かう。
(ヨルに乗って駆けたのなら、きっとまた違う風景が見えるのでしょうね。……ヨルも、お師匠様も大丈夫、よね?)
西の森の境で別れた黒狼の滑らかな毛並みを思い出し、つられて別れ際に見た魔女の美しいモーブ色の目が胸裏を過ぎる。
悲しみに翳りながらも、様々な思いを抱えて揺らめく美しい瞳。木漏れ日の光を映しこんできらめく様は、まるで夢のように美しかった。それでも、デボラが一等好きなのは、いつでも穏やかなあのモーブ色の目だから。
(お師匠様の憂いを晴らすお手伝いができるのですもの。それにディムフォレストを、アルバ・ガリカを守ることに繋がるかもしれないのだから、気を引き締めて臨まなければ)
デボラが北の地ですべきことは一つ。
新技術か失われた技術か、魔女の助けをしつつ見極めた結果を帝国の関係者に伝えること。
(空間を縮めてモノを転送するだなんて、その発想がまず斬新で常人には思い至らないものですけれど、確かに新しい技術であれば精霊の助けを借りなければ難しいはずよねえ)
そして失われた技術であれば魔女が一目見ればわかるというのだから、デボラは魔女から渡された眼前の光景を魔女のもとに送ることができるという道具を使って、きちんと演習で起こった出来事の中継をするだけだ。その後は五賢人達がうまいこと処理をする、らしい。その辺りの詳細はデボラには伝えられていないけれど、五賢人が出てくるのなら確実にその装置とやらは人の手から失われるのだろう。
(回収する、と仰っていたものね。新技術であった場合は忠告をする、とも)
新技術であった場合の使用の可否の判断は人の手に委ねられる。
人の世の理に、この世界の巡りに手を出すことを厭う五賢人の線引きは時にひどく冷徹だ。
デボラとて、魔女の気が乗らなければ西の森でさまよい果てていただろう。自ら領域を出ることはなく、ただ時折気紛れに訪れたものに助言を与え、迷い込んだものを庇護する。確かにそれは、過去のどの局面においても世界の巡りを左右するほどの大事ではなかった。
(でも、だからこそ、お師匠様とヨルとの日々は何よりも尊いわ)
デボラがあの夜会の日に領地へ帰らなければ、その途上で襲撃を受けなければ、場所が西の森近くでなければ、手にすることのなかった出会いであり、穏やかな日々だ。
(おつかいが終わったら、次に村へ持っていく化粧水を作って、前回褒めていただいた軟膏も改良して)
脳裏に花冠を贈ってくれた村の子供たちや女たちの笑顔が過ぎる。それが胸をあたためるのと同時にわずかな痛みもつれてくる。
(いつまで)
いつまでこの日々の中に在れるのか。
領地は、父や母は、兄は大丈夫なのか。デボラの身は故郷の中の、どの位置に戻ることができるのか。十二の頃より前の、ただのベイトゥリー侯爵家の長女として再びあの地に帰れるのか、それとも。
(やめましょう。今は、お師匠様から託された『おつかい』をきちんとこなすことだけ考えなければ)
優しい夢想は現実にある不安からの逃避だ。好きなことだけ思い浮かべていれば心は安らぐ。
それでも現実は変わらず不安定で、先の見えない状況はいつでも不安を呼び込む。きちんと今目の前にある現状を受け止めなければ、いずれは自ら破滅を招くことになるだろう。
現状を把握して先のことをきちんと考えなければいけない。けれど、不安に囚われすぎても身動きが取れなくなってしまう。怯えや怖気はいつでも人の意気地を挫いて、必要な判断を鈍らせるものだから。
(今は、自分の成すべきことを一つずつこなしていかなければ)
情報があまりにも少なすぎる中で巡らす思考は、必要なものでもあるが過ぎれば害になる。
現状でデボラができることは限られているのだから、まずはそれをきちんとこなしていくことが重要だと己に言い聞かせる。
(そうして、きちんとこなして、ただいまを言うのよ)
デボラの帰りを待つであろう人々は、今は遥か南西の地にある。




