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西の森はいつでも薄暗い。
それは鬱蒼と生い茂る木々がそれぞれ好き好きに枝を広げているからだ。いつでも薄い日は、けれど苔やシダ類の繁茂を助け、時には謎の植物の成長を促進してもいる。それに薄暗い場所だけでなく、日のあたる場所もところどころにきちんとあり、その光の差し込む美しさをより際立たせる、という点においてはデボラが知る限り西の森に勝る場所はないだろう。
昨夜から魔女の様子に感じる不安を拭えないでいたデボラは、ヨルによってハーブ採取に半ば無理やり連れ出されていた。昼食を終えても家の中にこもっていたせいで心配したヨルに外へ連れ出されたのだ。そして、一人と一匹が外出すれば必然的に同行者はもう一人増える。
「昨日も不思議に思っていたのだが」
ヨルを挟んで隣を歩くルスランが首を傾げる。昨日はデボラの後ろについていた気がするのだが、今日はいつの間にやら隣りに並ぶ男の、頭一つ分ほど上にある薄い青の目を見上げた。
「どうされましたか?」
客人の前でいつまでも塞ぎこんでいるわけにもいかない。少なくとも今日中には事態が動くのだから。そう気持ちを奮い立たせて向かったハーブ採取の同行者は、昨日畑に連れ立っていった時よりもずいぶん気安くなっていた。道々見慣れない植物や動物の影を見ては、あれは何か、これは何かと少年のように興味深げに訊ねてくるルスランに、デボラの重かった心も少しだけ軽くなったような気がする。
今もまた何か気になることがあったのだろう。
促せば、首を傾げながらもあちこちへ向けていた視線をデボラに下ろす。
「西の森は魔女殿の庭であり、同時に城壁であると聞いていた。しかし、こうも簡単に部外者を連れ歩くのはいささか無用心ではないのか?」
「ミターリ公はお客様だと思いますが、そうですね」
道を覚えられたら助言を求める者が殺到するのではないか、とそんなことを聞きたいのだろう。しかしそれは杞憂に過ぎない。
「西の森には危険な動物や植物があちらこちらに徘徊しておりますし、なにより、五賢人以外は迷って到底お師匠様のもとに辿りつくことはできないかと思います。この森は人の方向感覚を狂わせますし、標の精霊陣も働きませんから」
言ってヨルの首もとを一撫でする。
「私もヨルが居なければ迷ってしまいますし、森に生きる動物達のお食事になってしまいます」
デボラの言葉にルスランが目を瞬く。その眉尻が少し下がったのを見て、ああ、困っていらっしゃるのかと昨日よりは多少読めるようになった男の表情を見てそんなことを考えた。
「お食事、か」
「はい、美味しくいただかれてしまいます」
「それは困るな」
「ええ、困ります。ですので、私が外出する際には、必ずヨルがついてきてくれますの」
なんともいえない顔でデボラを見下ろしていたルスランは、それでも納得したのか再び大樹の幹にびっしり生える白い光茸や木々の奥に過ぎる影に目を向ける。
「しかし、本当にここは不思議な生物が多いな。よく見る姿もあるが……」
「はい。危険な生き物も多いのでどうかお気をつけくださいませ。ヨルがおりますのでそうしたものも近寄ってきませんが、万が一ということもございます」
そうして右手に持った杖をぐっと引き寄せる。
「もし万が一がございましたら、ヨルもおりますし、私も微力ながら御身をお守りいたします」
外出時には必携の腰丈ほどの杖を握る腕に力をこめれば、ヨルの向こうでルスランが驚いたように目を見開いていた。
「どうかされましたか?」
今日はこの台詞をよく使うなと思いつつ訊ねる。
「いや、その、弟子殿が? もしや、その杖を使って戦うと……?」
「はい。この杖には雷の精霊陣を施してありますので、ヨル程度の大きさの獣でしたら触れさせるだけで気絶させることが可能です」
目安に使って申し訳ないが、大きさを伝えるのに調度良かった。
この杖は万が一の護身用としてデボラが西の森に来てしばらくしてから作ったものだ。杖、といってもほぼ枝を削りだしただけの棒に近い。デボラの手でも握りこめる程度の細さのそれに、両端と中央の三箇所、帯状に術式を焼き付けてある。勿論、今に至るまで使ったことはない。もっぱら高いところに成った木の実を落とすことに活躍している。そのため、そのうち風の術式も組み込もうかと考えていたくらいだ。
「棒に雷の精霊陣を、か。失礼、見せてもらっても?」
「はい。勿論です」
道ともいえない獣道に足を取られないよう気をつけながら杖を手渡す。ヨルを挟んでもしっかり届く腕の長さに、改めてデボラは北から来た客人の背の高さを感じていた。真剣な顔で杖を検分するルスランの足取りが乱れることはない。そのしっかりとした足運びを見れば、彼の身体能力の高さが窺える。
「弟子殿、差し支えなければ教えてもらえないか。見慣れない形をしているが、この精霊陣はどの国のものだ?」
杖を矯めつ眇めつしながら向けられた問いに、デボラは足元の木の根を気にしながら慎重に言葉を選ぶ。見られて困るものではないが、どう説明したものか。
「どの国、と限定して申し上げることはできないのですが、しいて挙げるとしますと西の森の周辺の国、でしょうか。西の森の精霊たちはレクティタ、アルバ・ガリカ、そして微量ですがイーリスに馴染んだものと西の森の影響を強く受けたものが混在しております」
そこで一度言葉を切りデボラは空に手を伸べた。伸ばした手の先に遊ぶように纏いつく光のきらめきを見、口元をゆるませる。アルバ・ガリカで見てきたものとはまた少し違うきらめきだ。
「ですので、すべての精霊に助力願えるよう三国の精霊陣を組み合わせ、かつ西の森の場に合うように少し手を加えたものがそちらになります」
振り仰ぎ見たルスランは、いつの間にかこちらに真剣な眼差しを向けていた。それにちょっと首を傾ける。
「……そうか。弟子殿独自の精霊陣だったか。この陣を焼き付けてある技術も素晴らしいが、新しい陣を生み出す知識もなかなかないものだ。もしや、弟子殿は精霊の姿が見えるのか?」
この世界に存在する人間は、世に満ちる精霊の力を感じることができる者と見ることが出来る者に分けられる。大半は前者だが、力の保有量が多かったり相性が良かったりすると、その奔流を目にすることができるのだ。過去には精霊自体の姿を見ることができる者もいたという。
しかしデボラに見えるのは力のきらめきだけ。それも領地では特別珍しいことではなかったから、今向けられている感嘆まじりの目がどうにも落ち着かない。
「いえ、そのお力の片鱗は見ることが出来ますが、精霊のお姿までとはいきません」
「いや、それでも十分だろう」
感心したように頷くルスランがふいに立ち止まり、こちらを向く。丁寧な所作で杖をこちらに差し向けた。受け取ろうと、向かい合い両手を差し伸べたデボラの、ローブの下に隠れた目を見透かすように真摯な眼差しが杖と共に渡される。
「だが、私もそれなりに剣の腕はあるつもりでいるので、弟子殿がこれを使うのは最後の最後にしてほしい」
意外なほどに真剣な目を向けられ、デボラは一拍置いた後にゆっくりと頷いた。唇は自然と笑みを刷く。
「はい。お気遣いありがとうございます」
帝国の公爵に守るといわれるのは恐れ多いと同時に、いささか面映くもある。綻ぶデボラの口元を見てルスランもまた満足したようだった。
「では、行くか」
「はい」
目的のハーブの群生地までもう少しだ。
(ありがとうございます、ヨル)
隣りを歩くヨルの背をそっと感謝をこめて撫でると、気にするなというようにふさふさの長い尾がデボラの背を掠める。それに小さく笑った。
魔女を待って家にこもりきりでは、確かに気分は沈んでいくばかりだっただろう。少しだけ軽くなった気持ちを胸に、今日中には出てくるだろう魔女をおいしい食事とあたたかいお茶、そしていっぱいの笑顔で迎える支度するため、デボラは森を行く足取りを強いものにかえた。
□ □ □
家に戻ってきたのは、日が傾き始める頃だった。
徐々に赤く染まりゆく空に背を押されるようにして帰り着いた魔女の家の食堂で、デボラは待ち望んでいた師の背を見つけ駆け寄った。
「お師匠様!」
薄闇に混じる赤い日が、魔女の白い髪を染めている。西の森にかかる夕焼け空を写し取ったような髪を揺らし、魔女が振り返った。駆け寄るデボラを見つめる。その目に、デボラは魔女の一歩手前で足を止めた。
「お師匠様?」
少し上からデボラに降る眼差しはいつでも優しい。
それは今も間違いなく、深い慈しみを宿してデボラに注がれる。それなのに。
「お帰り、デボラ」
「はい。ただいま戻りました。……お師匠様?」
そのモーブ色の目に宿る色に、どこか痛みと悲しみを見た気がして師の顔を窺う。
魔女は、硬く瞑目したかと思うと、ややしてゆっくりと開け、その視線をデボラに合わせた。
「お前に頼みたいことがある。話をしたいから、ついておいで」
囁くように告げられた言葉にも、やはり隠しきれない悲嘆がみえるようだった。




