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婚約破棄された令嬢は穏やかな日々の夢を見る  作者: やしろ
第1章 西の森の魔女
11/18

9



 部屋にこもるといった魔女は、結局本当に一日出てくることはなかった。

 日が落ち、空気のそこここに夜の闇が滲み始めても魔女が姿を現す気配はない。三人分の夕食を作り、けれどルスランと二人で食卓を囲むことになったデボラは、食後のお茶を飲みながらもどこか落ち着かない様子で廊下と食堂を隔てる扉へと視線をちらちら向けていた。


「魔女殿が気になるか」


 かけられた声に、今もまた扉を見ていたと気付いたデボラは恥じ入るように俯く。


「申し訳ありません。お気を散らすような真似をして」


 食事が終わったとはいえ、まだ食卓についているのに客人から気を逸らすのは無作法だった。叩き込まれた作法が飛んでしまうほど、デボラの気持ちは不安定に揺れていた。


「いや。魔女殿が食事を抜かれているのが気になるのだろう。仕方ないことだ。気にしないでほしい」

「お心遣い感謝いたします」


 デボラの不安は、魔女が昼食をとっていないことに起因していた。朝食は空になった皿が部屋の外に戻されていたから気にならなかったが、昼食は手をつけておらず、夕食を置いてはきたがそれも食べてもらえるかどうか。


「今までお師匠様がお食事を抜かれたことがなかったものですから、どうしても気になってしまいまして」


 部屋にこもると聞いてはいたが、食事を取らないとは思っていなかったのだ。一食抜いたところで倒れることもないかもしれないが、食事を取らないほど忙しい、あるいは没頭する何かをしているのなら、部屋から出ずとも体力は使うだろう。ただでさえ華奢な魔女であるから、いっそう不安は大きくなる。かといってこもっている魔女の邪魔をすることも出来ずに、今のデボラには気を揉むことしかできない。


「すまない。私が持ち込んだ件が理由だろう」


 手にしていたカップを置き、真っ直ぐにこちらを見て謝意を口にするルスランに、デボラはハッとして深く頭を下げた。


「私が至らないばかりに、申し訳ございません。五賢人に助言を求めるのは皆に等しく許されていることです。ミターリ公がご自分を責められるようなことではございません」


 自分の態度が間接的にルスランを責めるような結果になっていたことに気付き血の気が引く。今は魔女の弟子として見られているから外交上の問題にはならないだろうが、それを置いても失礼にもほどがあった。


(こんなに感情を抑制できなくなってるだなんて、気が抜けすぎだわ)


 己の失態に唇を噛む。ここ最近、魔女の家での生活に慣れて、少し気が緩んでいるのかもしれない。


(家に帰る前に気を引き締めておかなればいけないわね)


 帰れそうな気配は今のところないが、この人目を気にせず、相手の思惑や与える印象を国にいた時ほど考えずにいられる日々に、知らぬうちにすっかり馴染んでしまっていたらしい。こんなに穏やかな日々は、ほんの幼い頃を除けば、もう二度と手にする機会はないと思っていたから。


「頭を上げてくれ。それほど大仰に謝られることでもない」

「ですが……」


 躊躇うデボラの下げた頭の向こうで苦笑する気配がする。


「ここは西の森の魔女殿の家だろう。人の世の理の外。ならば私の身分も今はないも同然であるし、弟子殿に過分な礼儀を払われる理由もない。違うか?」

「ですが、ミターリ公はお客様です」

「ただの客人にするには過分な礼儀だと思うが。……そうだな、では、先ほど私も謝罪した。そして、弟子殿も謝罪してくれた。これで手打ちということにしないか」


 示された案に、デボラはまだ少しの躊躇いを残しながらも、そろそろと頭を上げた。ローブの影から見える男は、冷たく整った顔に苦笑を滲ませている。ほんの少し下がった眉尻やこちらに向けられるその薄い青の目がずいぶんやわらかいような気がして、デボラは首を傾げつつも男の提案を素直に受けることにした。


「ありがとうございます」

「ああ。それにしても、弟子殿はどこで教育を受けたのだ? ずいぶん礼儀作法がしっかりしているようにみえるが」


 ルスランが口にした疑問に、デボラはすぐさま頭の中に入れておいた『西の森の魔女の弟子』設定を引っ張り出した。


「勿論、お師匠様です。西の森をさまよっていたところを助けていただいてから、ずっと。生憎、それ以前の記憶はないのですが……」


 魔女からの指示通りに語尾を濁し、最後は消え入るような声を出す。寂しげな色がのっていれば上出来だ。


「そうだったか。不躾なことを聞いた」

「とんでもございません。今の私はとても幸せですので、お気になさらないでください」


 案の定それ以上詮索してこないルスランに口元だけの笑みを浮かべた。

 デボラがルスランをその所作で身分ある人だと判断したように、デボラ自身もそう判断される可能性がある。そう指摘した魔女によって作り出された設定の一つは、ここで見事に役に立ってくれた。


(流石はお師匠様)


 胸の中で部屋にこもりきりの魔女への賛辞を贈りつつ、そろそろ一度魔女の部屋の前に置いた夕食の様子を見に行こうかと思った時だった。

 扉が開く音がする。


「お師匠様、お疲れ様で……」


 反射的に目を上げ口をついて出た言葉は先を続けることができなかった。

 無言で扉を開けて立つ魔女の姿は、いつもとかわらず美しい。

 人ならざる、といわれて納得するほどに、雪のように冷たく整った面貌は少しも翳ることなく端然としてそこにある。隈の一つもなく、引き結ばれた薄い唇も常と一つも変わらない。それなのに、デボラの目には確かに己の師が憔悴しているように見えたのだ。


「お師匠様! どうされたのですか? やはりお食事を取られていないから……いえ、今はお茶を……」


 困惑と不安と焦りに押されて駆け寄るデボラを、魔女は白い繊手を上げることで止める。そのまま、デボラを通り越して真っ直ぐに食卓につくルスランへと視線を向けた。いつもは神秘的に凪いだ目がいやにぎらついて見える。暗く燃えるモーブ色に、デボラは言いようのない不安を覚えた。


「メチェーリの子。例の件で話がある。すぐに済む。ついて来い」

「畏まりました」


 有無を言わせぬ魔女に、ルスランは抗うなど思いもよらないという顔で席を立つ。そのまま食堂を出ようとする二人の、否、魔女の背中に思わず声をかけていた。


「お師匠様!」


 何を言いたかったのかわからない。いや、言いたいことはたくさんあった。

 食事をとってください。お茶を飲んで一息ついてください。気持ちを落ち着けるハーブティーを入れましょう。お風呂に入って、心をやわらげて、あたたかいハーブティーに甘い蜂蜜を落として、それで今日はゆっくり眠りましょう、と。

 言いたくて、言えなくて。でも、きっと、言いたいのは、訊きたいのはそんなことではないのだ。


(何が、あったのですか、なんて)


 お師匠様がそんな目をするほどの、何があったのですか、なんて。

 訊けるはずもない。

 デボラは『西の森の魔女の弟子』ではなく、本当はただの貴族の娘だから。人の世の理に生きている一介の小娘が、魔女の領分に踏み入るような真似ができるはずもない。


 声をかけたまま先を続けることもできずにただ一心に師の背を見つめ続けるデボラをどう思ったのか、食堂を去ろうとしていた魔女が足を止め振り返る。デボラを見て、微笑んだ気がした。口端を少し上げ、眉尻を下げて。


「お前はもう、休んでいなさい。私はこれとの話が済んだら、また部屋にこもらねばならないからね」


 いい子だから。おやすみ。

 優しくどこまでも慈愛に満ちて耳に落ちる囁き声に、デボラは頷くしかできなかった。嫌ですと言いたかったけれど、言えるはずもなかった。

 そのまま去っていく二人の背中を呆然と見送りながら、デボラはやり場のない思いのままに胸元を掴みしめた。苦しい。


(どうして)


 胸中で呟き、無人となった廊下へと続く開いたままの扉を見つめた。

 どうして、あんなに辛そうな顔で笑ったの。

 それもついに訊くことのできないまま、いつまでもデボラの胸の中でいくつもの言葉と共に漂い続ける。



  □ □ □



 お風呂に入って体をあたためて、あたたかいハーブティーに蜂蜜を落として。

 本当ならすべて己の師にやってほしかったことを済ませてベッドに入ったデボラは、細く開いたカーテンの隙間から覗く夜空を見上げた。堪え切れない溜め息が漏れる。


(どうしてお師匠様はあんな風に笑ったの。どうしてお師匠様は、あんなにやつれたお顔で、あんな目をしていたの)


 いくら考えても今のデボラにはわからないことばかりが胸に浮かぶ。仕方がない、という言葉で沈めても、何度でも浮かび上がるその言葉をまた今も繰り返しては吐息する。


(初めて見たわ)


 あんなに暗い炎を宿すモーブ色の目を。まるでこの夜の空を炎に変えたような闇がモーブ色の奥で燃えていた。チラチラと星のように瞬く苛烈な思いが覗くそれは、西の森の空に広がる夜そのもののように思えた。

 あんな目は知らなかった。デボラが知るのは、いつだって慈しみに満ちて優しく穏やかな目だったから。凪いだ神秘的なモーブ色が荒れることはなく、時折デボラにはわからない感傷や不思議に懐かしむような色が滲むこともあったが、あれほどの激情を宿したところはこれまで見たことがなかった。


(お父様も、何か不穏なことを仰っていたし)


 おとなしく自室に戻ったデボラの元に届いた父からの通信もあまり芳しいとはいえないものだった。

 領地に帰るにはまだ不安定な状況であると。主犯が見つかっていないのも勿論あるが、他の面でも何か不穏な動きがあるような口ぶりだった。できるなら、もう少し魔女のもとに居てくれとさえ言っていたのを考えれば、デボラの襲撃以外の件でも父の勘に引っかかる何かがあるのだろう。いつもは家族全員の声を聞くことができるのに、母と兄は領地に帰したらしく、今日は王都に残った父だけだったのがまた不安を煽る。


(どうなるのかしら)


 魔女のもとに運ばれてきた事柄も、デボラの身も。

 不安にざわつく胸をそっと両手で押さえた。そうして肌に触れた冷たい感触に気付くと、常につけている華奢な首飾りを手繰って胸元から取り出す。

 生まれたときに叔母から贈られたそれは、華奢な金鎖に指輪を通しただけの簡素なものだ。指輪も花を模した金細工が頂点に一つ咲くだけで石もついていない質素なもの。けれど素朴な可愛らしさがある古い指輪。


 代々ソルタスの血を引く娘に受け継がれてきたものだ。

 不思議なもので、ソルタスの姻戚はその代に一人しか娘が生まれない為、領地内で娘が生まれた家を転々としている指輪がソルタス家に戻ってきたのは二代ぶりだという。そうして誕生と共に贈られた指輪には意匠にもなっているカメリアの花の精の加護があるのだと伝えられ、ソルタスの娘達のお守りとして大切に受け継がれてきた。デボラも、辛い時や苦しい時に何度この指輪に祈りを捧げてきたことだろう。


「〝ツバキ様、どうぞ私たちをお守りください〟」


 指輪と共に伝わる文句を唱え、ぎゅっと拳の中に閉じ込める。慣れた金の感触がしっくりと手のひらに馴染み、わずかな安堵を与えてくれた。

 そのまま深く息を吐く。なんとなし落ち着いた気のする胸のうちに指輪を戻し、カーテンを閉め枕へと頭を預けた。途端に香るカモミールに目を細める。枕元に置いた香り袋のものだ。

 どうか、魔女の上にも良い夜が訪れるようにと祈りながら、デボラはゆっくりと眠りの淵へ沈んでいった。



  ■ ■ ■



 ミターリ公が魔女に連れられていったのは、最初に通された書斎だった。

 きちんと扉が閉まったのを確認すると、魔女は椅子に座る時間も惜しいとばかりにその場で切り出す。


「メチェーリの。例の商人を呼び出す場合、時間はどの程度かかる」

「それは」


 これまで一度も呼び出せたためしのない人物を呼び出せと言われて当惑するミターリ公を余所に、魔女は慌ただしく言葉を重ねる。


「採用を検討する為、もう一度使用したところを見たいとでも言っておけ。商人から直接説明を受ければ気が変わりそうだ、とも」

「検討、ですね」

「検討だ。それで、村で待機している公の部下に指示を出してから、どの程度かかる。部下までの伝令は今、ここで私の使いを出すと考えろ。時間は一時間もかからない」


 魔女の言いたいことを把握して頷くルスランに矢継ぎ早に言葉を浴びせる。しばし黙考したミターリ公は慎重に口を開いた。


「それでしたら、およそ五日あれば、おそらくは。早ければ三日ほどで結果が戻ってくるかと」

「それは村から都までの伝令の時間も含めてか?」

「はい。早馬を使えば帝都まで一日ですので、魔女殿の使いを出していただければ夜の内に村を出、帝都には明日の夜につくはずです」

「そうか」


 ミターリ公の返答に短く返すと、魔女は壁を埋める書棚へと向かう。しばらくして戻ってきた魔女の手には小さな鳥籠が抱えられていた。


「これで公の部下に使いを出す。本来なら直接皇帝にこれを飛ばしたいが、事情があってな」


 言いながら籠を開け中から呼び出したのは真っ黒な小鳥が二羽。手のひらほどの大きさの小鳥を指に止まらせ、魔女は険しい目を向けた。


「いいか。ひとまずレクティタに持ち込まれた転送装置は私たち五賢人の知識によって検分することになった」

「あ、ありがとうございます」


 唐突に齎された言葉に声が震える。明日を待つ必要もなく、このまま部下達と合流することになるのかと考えていたミターリ公に更なる言葉が届く。


「礼を言うには早い。いいか、レクティタに持ち込まれた転送装置は存在しないはずの技術だが、同時にまったくの新しい技術である可能性もある。即ち、この世界の誰も知らない場所で生まれた新技術だ。その場合は原理や性能、危険性を私たちが確実に判断できるとは言い切れない。見てみないとわからん」

「五賢人でもおわかりになられないことがあるのですか……」


 どこか呆然と呟いた言葉に魔女が目を眇めた。


「公らとは違う理の力を振るい長く生きているだけで、私たちも万能ではない。それよりも」


 険しい目をした魔女は、口端を吊り上げ、初めて表情らしき表情を見せた。忌々しそうに吐き捨てる。


「もう一つ可能性がある。それであれば、私たちが確実に判断でき、その危険性や恐ろしさを公らにとくと語ることができる」


 心底気に入らないのだというように、眇めた魔女の目の暗がりが深くなる。何を、と訊きたい気もしたが、その目に気圧されて言葉が出てこない。


「公や公の国が、そしてこの世界の誰もが知らず、私たちが知る技術。失われた技術」


 指に小鳥を乗せたまま、魔女は静かに壁際へと移動する。廊下とは反対の壁に作りつけられた書棚の前に立つと、何か操作したらしかった。途端に重いものが落ちたような鈍い音と共にかすかな振動が響き始める。


 一瞬反射で動きかけた足をとどめた。動いているのだ、棚が。重そうなしっかりとした作りの書架は、手前に動いたかと思うとある位置で止まり、今度は右へとずれていく。


 その様を呆然と見守るミターリ公の視線の先で、一定の距離まで移動した書架は動きを止める。その先に現れたのは、窓だった。夜の闇を塗りこめて真っ黒に染まる小さな窓。

 魔女はその窓を慣れた手つきで開けると、さっと腕を上げた。小鳥を、放したのか。かすかなはばたきを残した鳥は夜の闇に溶けて見えない。


「新技術か失われた技術か。その判断はつけよう。だが、後者であれば、私たちが出向くとその商人とやらになるべく気付かせたくない。検分する為にそちらへ出向くのは再演習当日だ。それも直前が望ましい」

「魔女殿にお越しいただけるのですか」


 万が一にも想像していなかった可能性にミターリ公は目を見開いた。これまで五賢人を訪い運良く助言はもらえた者や、迷い込み、あるいは追われて一時的に庇護された者は話に残っているが、五賢人自らがその領域から出てきた前例はないはずだ。

 驚愕と期待が混在するミターリ公の目に魔女の視線が更に厳しいものになる。もはや睨みつけるような視線の強さで魔女はゆっくりと(かぶり)を振った。


「それについては明日中に返答する。ともかく演習前日まで公はここで待機。部下達も村で待機していろ」

「待機、ですか」

「そうだ。採用にのり気でないレクティタ帝国軍元帥が不在であれば、大佐とやらの期待も高まるだろう」

「……畏まりました」


 夜の闇を背景にして、どこまでも暗い飲み込まれそうな目で唇を歪める魔女の言葉に、ミターリ公は静かに頭を下げた。



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