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婚約破棄された令嬢は穏やかな日々の夢を見る  作者: やしろ
第1章 西の森の魔女
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8



 毎朝の身支度を整えるのに、屋敷にいた時ほど時間はかからない。

 次期公爵夫人として相応しい装いや化粧や髪型はとかく手間がかかるものだったが、魔女の家で暮らすようになってからは簡素な日常着に袖を通すだけ。化粧はしていないし髪型も作業の邪魔にならないよう簡単に編みこんでまとめてしまうだけだ。しいて共通点を挙げるならば肌と髪の手入れくらいだろうか。

 しかし、今日からはそれに追加しなければいけないことがある。


「ローブを深めにかぶること。自室以外ではローブを脱がないこと。会話はすべてレクティタ語ですること。ヨルはいつでも傍に」


 そこまで諳んじて一つ息を吸う。


「私は〝お師匠様の弟子〟」


 言い聞かせるように呟いて一つ頷く。

 後半は身支度関係ではなくただの注意点になってしまったが、全ては昨夜、魔女から厳重に言い含められたことだった。

 急な来客の逗留が決まってデボラが魔女から告げられたのは、帝国の要人の世話に関することではなく、これから同じ屋根の下で過ごさねばならない二日間で何に注意をすればいいのか。気をつけるべき事柄や守るべき決まりごとだった。

 どうやら魔女は、デボラの境遇や立場などを伏せておきたいらしい。その為に〝西の森の魔女の弟子〟としての簡単な設定まで伝えられている。


(まあ、普通に考えて五賢人に助言を請うほどの何かを抱えていることなんて他国の人間に知られたくないものねえ)


 弱味はなるべく外へ漏らさないのに限る。

 デボラは別段レクティタ帝国が何を抱えていようと自国にそれを漏らす気はないし、そもそも抱えている内容もわからないのでは情報としての価値もあまり高くない。しかし、それはデボラ側からの考えであって相手がどう受け取るかはわからない。それならば、確かに必要ない事実は伏せておくべきだろう。


(それを思うと、本当にあれは悪手だったわ)


 ローブを手に取ったところで顔をしかめる。情報がどうの、などと考えていたせいであまり良いとはいえない記憶が蘇ってしまった。婚約破棄をされたあの夜会の記憶だ。


(何故よりによってイーリスとグラナトの方たちのいらっしゃる前であんなことをなさったのかしら。表面上の友誼は結んでいても、つけ込む隙を見逃してくださるような平和な関係でないのはご存知のはずですのに)


 ローブに袖を通しながら小さく吐息する。

 野心家のグラナトと隣国ゆえに小競り合いの絶えないイーリスは、今のところ交戦もなく友好状態が継続しているが、それが明日以降もずっと続くとは到底言えない関係だ。両国とも現アルバ・ガリカ王の治世になってから現在の比較的長めの友好関係をなんとか保っている、と言っていい。その二国の人間がいる前で何故あんな暴挙に出たのか。


(考えても仕方のないことね。今は、お師匠様に頼まれたことをきちんとこなさないと)


 しっかりと目元が隠れるまでローブを深く引き下げる。視界に問題はない。あとは、あの帝国の要人に顔を見られないよう洗顔を済ませてから朝食作りに取りかかるだけだ。パン種は昨日仕込んだものがある。


「でも、夕べ顔は見られている気もしますけど」


 ふと気になったが、まあ、特筆すべき特徴のないデボラの顔など、ずっと隠しておけば忘れてしまうだろう。

 一人納得して部屋を出る。扉のすぐ脇に控えていたヨルに微笑みかけ「おはようございます」朝の挨拶をすると、そっと廊下を窺う。黎明の気配をまだ少し残して冷える空気に小さく首を竦めると、デボラは人の気配のない静かな廊下へと足を踏み出した。



  □ □ □


 

 プチプチと丁寧に花をもいでいく。作業部屋には大量に持ち込んだカモミールの香りが漂い、黙々と作業するデボラと部屋を見渡せる位置で伏せるヨル、そして何故か向かいに腰掛け手伝いを申し出てくれたレクティタ帝国の要人、ルスラン・セルゲヴィチ・メチェーリを包んでいる。


(どうしてこんな状況になってしまったのかしら)


 漏れそうになる吐息をすんでで飲み込む。さすがにそんな失礼かつ無作法なことはできない。手元に落としていた視線をそっと上げ、向かいに黙々と茎と花を切り離している北の帝国の要人の姿を認め、再び花と茎に分かれていく乾燥した花たちに目を戻した。


(手伝っていただけるのはありがたいのですけど、気まずいわ)


 朝はこんな状況になる気配はなかったはずだ。いつものように朝食を作り、昨夜の宣言どおり部屋にこもってしまっている魔女の部屋の前に食事を置き、少ししてから食堂に顔を出した彼にも朝食を提供した。その時は必要最低限の会話だけで、相手が身分ある立場の人間だと思えばごく常識的な距離感だったように思う。


 続いて畑の様子を見に行った時も、彼は見ているだけで特に手伝う様子はなかった。ヨルに見張られ、少し居心地悪そうに木の影に佇んでいた気がする。それから昼までの時間をハーブ関連の作業に当てようと作業部屋にこもることにしたまでは良かった。良かったはずだ。


(確かにお師匠様はヨルと私の目の届かない場所に行くな、と仰っていたけれど、お手伝いはしてくださらなくてもいいのに)


 さすがに皇帝の弟であり公爵でもある人の手を煩わせるのは落ち着かない。最初は読書をしていたはずの彼がどうして急に手伝いを申し出たのか、デボラにはさっぱりわからない。


「あの、やはり手を傷めますし、よろしければ読書の続きをされてはいかがですか? お茶もお入れします」


 躊躇いがちに出した提案に、それまで無言で作業をしていたルスランがゆっくりと目を上げた。初めて正面から見るような気がする薄い青の目が、真っ直ぐにデボラを捉える。


「朝の作業の時から思っていたが、小柄な女性の弟子殿が働いているのを男の私が見ているだけでは申し訳ない気分になる」

「そうは仰いましても、ミターリ公はお客様ですし」


 魔女から教えてもらい増えた語彙を早速使う機会が来た。母国語には遠く及ばないが、それでも彼との会話で困ることがない程度には言葉を覚えこんだつもりでいる。なんならこのままお茶でも入れて強引に本を渡してしまおうか。そんなことを考えていたデボラに、しかし男が譲る様子はない。


「客人と言ってもらえる立場でないことは理解しているので、お気遣いなく。急な訪問で、かつ無理なお願い事をしているのはこちらだ」

「そうですか?」


 小首を傾げる。


「お師匠様がお客人と仰ったのであれば、やはりミターリ公はお客様なのだと思いますけれど」


 監視をつけているとはいえ、客人として遇する、と魔女が言ったからには、デボラにとっては客人だ。顔も素性も隠させてもらうが、それでも不自由のない滞在をしてもらうよう努める気持ちはある。


 手元の作業は止めないまま不思議そうにするデボラに、ルスランは少しだけおかしそうに笑った。眉尻がほんの少しだけ下がったそれは苦笑に近いのだろうが、笑うとずいぶん雰囲気の変わる人だ。湖面に張った氷のような風情が途端に雪解け水のそれになる。


「弟子殿は、魔女殿をずいぶんと尊敬されている」

「ええ、もちろん」


 即座に頷く。それを見た男はついに相好を崩した。それまで強張りがちだった頬をゆるませる男に、デボラはいったい何事かと目を瞬く。


「どうされました?」


 今の会話のどこに笑う場面があっただろうか。わからずに問うデボラに、男はゆるく首を振った。


「いや、申し訳ない。あまりに弟子殿が素直なのでな。すこし気持ちがほぐれた。できれば作業をこのまま続けさせてもらっていいか? 何もしないでいるよりは、ずいぶん気が紛れる」


 それが、彼の抱える案件であると察し、デボラもまたそういうことであれば、と首肯する。国の重大な使命を帯び、かつその結果を待つ間、確かに気は休まらないだろう。今日か、もしくは明日になるまで緊張した時を過ごさねばならない男の心境を思えばあまり無碍にもできない。


「そう仰るのでしたら、お手伝いいただけると私も助かりますし、嬉しいです。でも、もしお疲れになったらすぐに仰ってくださいね」


 化粧水やハーブティーの作成だけでなく、精油や芳香蒸留水を精製するのにも使う為、今回作業部屋に持ち込んだカモミールはかなりの量になる。根気の要る作業なので、慣れないうちは疲れが溜まりやすいのだ。


「ああ。お気遣い感謝する」


 初めて見た時よりも幾分やわらかくなった気のする目もとを見、デボラは少し考えてから花だけにしたカモミールのうち、左の籠に分けた花を少量掬い上げると席を立つ。


「少しお待ちくださいね」


 言い置いて、慣れた手つきで湯をカップ二杯分だけ沸かす。その間に作り付けの棚からポットとカップを取り出して乾燥したカモミールを入れ、沸いたお湯を注いだ。しばらく待てばハーブティーの出来上がり。


「よろしければ、どうぞ。今作業していただいているカモミールのハーブティーです。気持ちが落ち着く作用があります。もしお口に合わなければ蜂蜜も混ぜてみてください」


 デボラは大好きだが、ハーブティーは香りや独特の味が苦手な人もいる。牛乳や蜂蜜を入れると飲みやすくなるが、最終的には好みだ。さて、この北の客人はどうだろうかとローブの影から窺えば、彼は少し驚いた様子でカップを見つめていたが、やがてわずかに口元をゆるめた。


「ありがとう。私の国では、この花はずいぶん身近な花でな。このお茶もよく口にする」

「まあ、そうでしたの」


 カモミールはアルバ・ガリカでも一般的な花だが、それは北の国でも同様らしい。


「実は、弟子殿が広げた花をカモミールと言ったので、それで興味がわいたのだ。生花や茶になったものは見知っていたが、こうして乾燥したものは見たことがない」

「それでお手伝いくださったんですね」

「ああ。馴染み深いものに触れていたほうが気が紛れるかと思ってな。心を落ち着かせる作用があるのだったか? 他にも効果があるのか?」


 口元に寄せたカップから湯気と共に立ち上る香りに目を細めるルスランに、手元の作業を再開させながらデボラは「そうですねえ」呟いた。


「今飲んでいただいているものには安眠、沈静、あとはお腹の調子を整えたり炎症を抑える効果もありますね。精油にも炎症を抑える効能がありますので傷や湿疹、あとはやけどの回復にも向いています」

「いろいろな効果があるのだな。魔女殿や弟子殿は、そういった知識をすべて網羅しているのか」


 感心したようなそれにデボラは少し考え、結局頷く。


「お師匠様は。私はまだまだ勉強中の身ですので、すべて、とまでは」

「そうか。本当に五賢人とはその称号に値する方たちだな」


 少し常識で測りきれない部分はあるが。

 苦笑混じりに付け足した男に、デボラは不思議そうに首を傾げた。そんなデボラの疑問を察してか、迷うような沈黙を挟んだ後、男は目を伏せる。


「いや、弟子殿にする話ではないし、失礼な話でもあるが、私自身はあまり五賢人の伝説を信じていなくてな。国では勿論崇拝されているし厚く信じるものが大半だが、実在すると信じるにはあまりに荒唐無稽に思えたせいだろうか」


 それなのに、かすかな希望に縋って北の洞の隠者を訪ねたのか。

 カップに視線を落とし、男はわずかに口端を上げた。それが自嘲に滲んで見えたのは気のせいか。カップに揺れるハーブティーの薄い金を透かしてみるのは、彼の故郷か、それともその先にある何かか。


(ご自分が信じていなくても、縋らなければならなかった)


 それはどれほど重い使命なのだろう。己が信じていないものに縋ることほど辛く苦しいことはないだろうに。

 デボラは五賢人の伝説を信じてはいたが、自分が見えることは生涯ないだろうと思っていたし、今こうしている瞬間も全ては偶然の産物だと理解している。精霊のお導き。そうとしか言いようのないほどの、奇跡なのだ。


(だって私、あそこで死ぬのだと思ったもの)


 安全なはずの領地への途上で聞いた緊迫した叫びも親しい侍女の悲鳴も剣戟も。馬車を襲われた時に初めて味わった殺気や交戦する際のびりびりするような緊張感を肌で感じた時も。走るのには向いていない靴の踵が折れ、地面に伏した時の手や足の痛みも。走りすぎて耳が割れそうな拍動の音も肺が破れてしまいそうな痛みも、迷い込んだ西の森の身震いするほどに恐ろしい闇も。


 すべてがデボラの死を指し示していた。


 それでも震える足で、少しでも安全な場所を探そうと森をさまよったのも、信じていたからだ。生きてさえいれば、必ず家族が助けてくれると。領民が捜しにきてくれると。己の信じているものに縋らなければ、デボラはきっと折れていた。折れていたら、ヨルが現れる前にデボラは混乱したまま自ら危険へと身を投じていた気がする。幸い、迷い込んで森の浅い部分をさまよっているうちに比較的早い段階でヨルに助けられたが、デボラは自身があそこで死んでいてもおかしくなかったと、今でも思っている。


 己の身一つですらそうなのだ。

 国一つ分の命を負った彼の背には、どれだけの重圧がかかっているのか。

 責任ある立場にあるならば当然負うべきものだろう。

 それでも、己が真実信じられないものに縋る不確かさは、想像するだけで空恐ろしい心地がする。それでも彼は北の洞の隠者を訪れ、見事証を得て今、西の森の魔女の家にいる。


「ミターリ公は、とてもお強い方ですね」


 ルスランが静かに目を上げる。訝しむようなそれに、デボラは口元しか見えないとわかって、それでも心からの敬意をこめて微笑んだ。


「とても、お心がお強い方なのだと思いました。信じていない、と仰いましたが、それでも今、公はここにいらっしゃいます。西の森の魔女の家に、確かに。お師匠様は、公のその強さを称えこそすれ、厭われることはありません」


 なにせ、デボラのお師匠様だ。

 信じている信じていないなどという、小さなことを気にするはずもない。

 確信に満ちて言い切るデボラの言葉に、ルスランはその薄い青の目を見開くと、やがてゆっくりと伏せた。髪と同じ色をした長い白金の睫が影を作る。その様を美しいな、と眺めていたデボラの耳に小さな声が届いた。


「お言葉、感謝する」


 本当に小さく、ともすればカップから上る湯気に溶けてしまいそうだったが、確かに届いたそれにデボラはにっこりと笑った。



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