今度こそ
強い既視感を覚えた。
目の前の光景にどこかで見た場面が重なり、そして一致する。
そう、あれは――
「あ、ああああああっ」
あの時と、同じ。
いつものように透哉と口論になり、顔も見たくなかった私は寝室を出てリビングで横になっていた。明日になればお互い冷静になれる。毎度のことなので、私は明日の朝彼に謝ることを全く疑っていなかった。そんな日が来ないなんてこと、想像も出来なかった。
眠っていると不意にガツン、と何か鈍い音がした気がして意識が浮上する。薄目を開けてみればまだそこは暗く、朝になっていないことが分かった。ならば今の音は透哉が来たのかと思いのろのろと寝ぼけながら上半身を起こす。
ひやりとした風が体を掠め、窓は締めたはずだったのにと違和感を覚えた。けれどまだ頭は覚醒しなかった。
ぼんやりとした意識が鮮明になったのは、がたんと先ほどとは違った物音に反応してその音の方向――窓の方を見た時だった。
目が、合った。
透哉じゃない、まったく知らない男が窓から侵入して、そしてその男がこちらを見たのだ。男は私と目を合わせると、パニックになった様子で焦りながら何かを取り出す。
薄暗い中でひっそりと光るそれは――ナイフだった。
「ひっ、」
言いようもない恐怖を覚えた。がたがたと体が震え立ち上がることも出来ずに床を擦るように後ろに下がるが、そんな私よりも遥かに早く男は近づいて来る。
止める間もなく凶器が、振り下ろされた。
「い、やああああああっ!」
痛い、痛い痛い痛い痛い。
腹に深々と突き刺さったナイフがそのまま引き抜かれ、更に言葉にならない激痛が襲った。いっそ意識を手放せれば苦しまずに済むのに、憎々しいぐらい痛みが主張して意識が無理やり繋げられている。
痛くて痛くて、蹲りながら「ああ死ぬのか」と漠然と思った。たった二十年ちょっとしか生きていないのに、大好きな人と結婚してまだ一年しか経っていないのに。
「詩乃!」
幻聴すら聞こえてきたと最初は思った。だが本当に透哉が姿を現したのを見た時、幻聴だったのならどれほど良かっただろうと思い直す。
「詩乃……!」
嫌だ、来ちゃ駄目、逃げて。そう叫びたいのに、口は戦慄くだけで碌に呼吸すらままならない。透哉の声に男が血塗れのナイフを彼に向け、そして透哉は叫びながら男に飛び掛かった。
私の血を滴らせた凶器が、今度は透哉の体に突き刺さる。
駄目、嫌――!
同じ光景が今、目の前で繰り返される。
しかしその既視感が無くなったのは、それからすぐだった。
透哉は振り向きざまにしっかりとその目でナイフを捉え、思い切り体を逸らした。しかし完全に避けることは出来ずに彼の腕に目測を誤ったナイフが深々と突き刺さる。
真っ赤な血が溢れ、側にいた私の服にも掛かったのに引き攣った悲鳴が出た。
しかし透哉はそれに構うことなく、ナイフを持つ男の腕を強く掴んで凶器から手を引きはがすとそのまま引き倒す。透哉を刺したことで油断していたのか、それとも透哉の力に敵わなかったのか、とにかく容易く男の体勢は崩れてコンクリートの地面に強く叩きつけられた。
思い切り――嫌な音が聞こえた気がした――倒れた男の足を容赦なく踏みつける透哉が少し怖い。
立ち上がれなくなった男の様子を見て少し安堵したのもつかの間、男に向けていた凶悪な眼光をそのままにすぐさま透哉がこちらに手を伸ばしてきた。
「触るな!」
気が付かなかったが、どうやらもう一人別の男が居たらしい。押し退けると言うには優しく肩を掴まれてどかされると、背後から「ぐっ」と呻き声が聞こえた。振り返ればどうやら足払いをしたらしい透哉と地面に転がった先ほどとは違う男がおり、更に追い打ちを掛けるように、そして私から離すように蹴り転がす。
確かに強いとは聞いていた。けれど前世ではもやしっ子で頼りなかった透哉がこんなに強いなんて想像を遥かに超えていた。
こういう時の為に持っていたのか、透哉はポケットに手を突っ込むとそこから何やら紐のような物を取り出して後ろ手に男の両手の親指を纏めて縛った。もう一人も同じように拘束すると、二人を折り重ねるよう軽々と放り投げる。
そこまで茫然と状況を追っていた私は、ようやく我に返って動き出した。
「透哉!」
「もう大丈夫だ」
「馬鹿、どこが大丈夫なのよ!」
酷く平然とそう言った彼は携帯を取り出すと片手で軽く操作し、すぐにしまい直した。
「連絡はした。すぐに一条の人間が迎えに来るから」
私はすぐに透哉に寄ったが、どうしていいのか分からずに取り乱してしまう。いとも容易くと言ったように二人をあっという間に倒した透哉だが、その片腕にはナイフが深々と突き刺さったまま止めどなく血が溢れて来ている。
それなのに彼は混乱している私を落ち着かせるように、痛みなどまるで無いかのように薄っすらと笑みを浮かべていた。
「これくらい何でもない」
「嫌、死なないで! もう透哉が死ぬのは嫌だよ……」
堪え切れずに涙が出て来る。唇を噛み締めても止まらなくて、袖で何度も何度も拭い去る。驚いたように目を見開いて私を見つめる透哉が潤んだ視界に映った。
「え、詩乃、お前……覚えて」
「……今、透哉が刺されてるの見て、思い出した」
「そっか……ごめんな、嫌なこと思い出させて」
馬鹿、違う。透哉が謝ることじゃない。そんなに苦しそうな顔をさせたかった訳じゃないのに。そう思うのに、せり上がってきた感情が大きすぎて喉に詰まって外に出てこない。
とにかく応急処置をしなければならないのに、何をすればいいのか分からない。どうすればいい? ナイフはそのままの方がいいのか抜いた方がいいのか。止血だってどうやったらいいのかなんて知らない。
透哉はこんなになってまで私を守ってくれたのに、私は何も知らない。何も、してこなかった。
それなのに透哉はそんな私を安心させるようにぽんぽんと優しく頭を撫でる。
「泣くな、俺は死なないから。ナイフはそのままでいいからちょっとここ押さえてくれるか、今あんまり力が入らないんだ」
「うん……」
透哉に片手を掴まれるとナイフが刺さった腕の脇の下まで誘導される。私は彼に促されるまま腕を掴んで止血点らしい場所を指で圧迫した。「血が付いてごめん」なんて透哉が言うから、涙声で「馬鹿」と言い返した。
止血をし始めてすぐ、何台もの黒塗りの車が駐車場へと入って来た。恐らく透哉が連絡したという一条の人間だろう。今まで一般客が入って来なかったことを考えると、私は無事だと連絡していただろうから先に人払いなどを済ませていたのかもしれない。
お嬢様! と家で見たことのある男達が掛け寄って来るのを見ていると、隣にいた透哉が小さく呟いたのが聞こえた。
「今度こそ、守れた」
「透哉……?」
彼は血の付いていない方の手で優しく私の頬に触れると微笑み、そしてそのまま卒倒した。
※ご指摘を受けまして止血部分の内容を修正いたしました。