護衛の本性
護衛として呼ばれた男――神崎透哉は、以前の私の夫である。
私と同じで名字は前世と違うものの、名前も同じであるし顔もそっくりだ。
透哉に初めて会ったのは幼稚園。それからずっと特に意識することなく当たり前のように一緒に居て、気が付いたら好きになっていた。幸運なことに彼も私のことを憎からず思っていたようで、何の障害も衝突もなく結婚まで漕ぎ付けることが出来た。恋は障害があった方が燃え上がるというが、そんなものが何もなくても私達は当然のように幸せを掴んでいたのだ。
「詩乃。昨日の話、聞いたわよ」
真新しい制服に身を包み、ぼうっと透哉のことを考えながら歩いていると、待っていたとばかりに玄関で璃乃姉様に声を掛けられる。既に社会人の姉はバリバリのキャリアウーマンで一条家に相応しい力量を持って既に会社を支えている一員である。
普段は毅然とした態度を崩さない姉様だが、今日はやけに楽しそうに口元を緩めていた。
「昨日……ですか?」
「新しく護衛になった男に一目惚れしたんだって?」
「え、えええ……?」
どこがどうなってそんな話になっているんだ。
詳しく話を聞いてみれば、普段大人しくて声を荒げることもない私が、珍しく初対面の男に反応して慌てていた所から、姉様まで話が伝わるまでに尾鰭が付いたらしい。確かにものすごく動揺していたが、傍から見てそんな発想に至るとは思ってもいなかった。
ちなみに記憶を取り戻してからは考え事に耽ることも減りぼんやりすることもあまりなくなったのだが、それでも未だに大人しい性格だと思われているのは私が人前では少々無口になるからである。前世のことなど当然誰かに言ったことはないが、しかし知らないはずのことを知っていたとか、話せば話すほどぼろが出そうで怖くて口を噤むようになってしまっていたのだ。
「詩乃ったら今まで全然浮ついた話もなくてつまらなかったけど、ようやく春が来たみたいで嬉しいわ」
「あの璃乃姉様、それは誤解で」
「大丈夫よ、誰にも言わないから。照れ屋な子なんだから」
一人でうんうん、と納得している姉様に何度か誤解を解こうとするのだが、勝手に恥ずかしがっていると認識されて何を言っても微笑ましげに見られてしまう。
誰にも言わないって、姉様がその話を聞いた時点で結構噂が広がっていると思うんですけど。
「ほら、噂をすれば……例の彼、来たわよ」
「え?」
不意に私から視線を外して後方に目をやった姉様に釣られ、私も後ろを振り向く。そうすれば車庫から車を回して来たらしい透哉がびしっと背筋を伸ばしてこちらに歩いて来るのが遠目に見えた。
「父様が何か言って来たら私も協力するわ。何せ可愛い妹の初恋だもの」
姉様はそれだけ言うとぽん、と私の頭に手を置いて家の奥に戻って行った。この時間まで家にいるということは、今日は家で仕事を片づけるのかもしれない。
「お嬢様、お待たせ致しました。本日よりお嬢様の護衛を務めさせて頂く神崎です」
「……よろしくお願いします」
姉様に気を取られているうちに彼はもうすぐ傍まで来ていた。今度は動揺を悟られないようにゆっくりと言葉を返しながらも、こっそりと透哉を窺う。見る限り二十代前半……恐らく私と結婚した頃と同じくらいの年齢であるようだ。前世では同い年だったので高校生になったばかりの私とは随分年が離れてしまっている。
そのままエスコートされるように車の後部座席に乗せられ、あっという間に発進する。護衛というから運転は他の人間がするのかと思ったのだが、どうやらそれ以外の仕事も任されているようだ。
「……」
沈黙が続く。
無駄口を一切叩くことなく淡々とハンドルを回す男の後姿をちらちらと眺めながら、私は妙な緊張感に体を硬くしていた。
昨日や先ほどは自分のことでいっぱいいっぱいで落ち着いて考えられなかったが、冷静になると自然に一つの疑問が湧いてくる。
この男は、果たして私のことを覚えているんだろうか。
昨日初めて会った時、酷く慌てた私とは対照的に透哉は何事もなく平然としていた。前世のことを覚えているのは私だけなんだろうか。
私だって最初から記憶があった訳ではないし、そもそも普通なら覚えている方が可笑しいのだ。
確かめたくてもどう聞けばいいのか分からない。下手をすれば変人だと思われるし、これから護衛してもらうのに嫌な関係になるのは御免だ。
「あ、あの透哉……さん!」
「如何なさいましたか」
しまった、つい前の呼び方をしてしまいそうになって慌てて言い繕う。そもそも最初から名前呼びなんて馴れ馴れしいやつだと思われたかもしれない。
「いえ、あの……その」
「何か忘れ物でもございましたか? それとも寄る場所でも?」
「……違います。あの、私を……いや、なんていうか」
ああもう、どう言えばさり気無く聞くことが出来るんだ! 自分の話術の無さに打ちひしがれ、挙動不審な態度を取っていることに居た堪れなくなる。
「えっと、ですね。あの、良い天気ですね……?」
「……」
あまりにも言葉が繕えずに何とか口に出したの言葉は酷いとしか言いようがない。もう少し何か言えただろうと、言葉すら返って来なくなった空間にどうしていいのか分からなくなった。
「……っは」
どのくらいの時間だっただろうか。私にとっては途方もなく長く感じたそれも、おそらく数秒のことだったんだろう。不意に沈黙の車内に小さな声が発せられた。俯いていた顔を上げると、表情は見えないものの透哉の体が僅かに震えているのが見て取れる。
言葉かも認識できなかった声はどんどんと大きくなり、そうしてようやく彼が笑っていることに気が付いた。
「くくっ、ははは……」
「あの、神崎さん」
「本当に面白いな、お前。――俺に記憶があるのか知りたかったんだろ? 詩乃」
「え……はあっ!?」
「何を言うか期待してみれば『良い天気ですね』って相変わらずアホだなあ」
話しながらも未だにからから笑い続ける透哉とは裏腹に、私はただひたすら呆気に取られ硬直していた。
この、この男……!
「知ってて私の反応楽しんでたなんて、どれだけ悪趣味なのよ!」
「そういう男だ。知ってるだろ」
信号が赤になってようやくこちらを振り返った透哉は、どこか懐かしい意地の悪い表情を浮かべていた。ああそうだ、こいつは昔から人をからかうのが好きだった。
酷く脱力してしまって怒る気力も無くなってくる。前屈みになっていた体をシートに預け、再び前を向いた彼を軽く睨む。
「……透哉、昨日会った時全然動揺してなかったじゃん」
「お前も上流階級の人間ならポーカーフェイスくらい覚えろ。あんな間抜け面晒してたら家の格が疑われるぞ」
「昨日はあんたの所為でしょ」
あれだけ予想外の事態が起きて何事もなかったかのように振る舞うことなんて無理に決まっている。その無理なことをこの男はやってのけた訳だが。
「というか……お前がお嬢様とか、本当に笑える。くるくるのお嬢様ヘアーとか、部屋着であんなお高いドレスみたいなワンピースとか、有り得ねえ」
「うるさい! なっちゃったものはしょうがないでしょ!」
またもや笑い始めた無神経な男に、前世の私はどうしてこんな男と結婚したんだと遣る瀬無くなった。確かに前世の私はメイクも苦手だったし着飾るお金があるなら美味しい物を食べたい人間だった。しかしだからと言って笑いすぎではないだろうか。それでもぶれないハンドル捌きがすごい。
「いつまで笑ってんのよ、まったく。大体私はともかく、透哉は何で護衛なんてやって……あ、いいわ。分かったわ」
切り返した言葉を途中で止める。彼が護衛のような危険な仕事に就く理由に心当たりがあったからだ。
前世の透哉はオタクだった。それも重度のヒーローオタクである。幼い頃から正義の味方や戦隊ものに酷く憧れを抱いており、新居にも大量のフィギュアを持ちこんで如何に見栄えよく飾るか頭を悩ませていた。
更に見るだけでは飽き足らず、自身もテレビのヒーローのように強くなる為に空手や剣道を始めそれはもう様々な武術を習っていた。……ほぼ全てが三日坊主ではあったが。前世の透哉は運動が苦手で、こう言ってはなんだがひょろひょろのもやしっ子だった。今も以前よりはましになったように見えるがそれでも細い。
生まれ変わって今度こそとばかりに悪をやっつけるような(彼曰く)かっこいい仕事に就きたかったのだろうな、多分。
「というか政治家とか偉い人なら分かるけど、今時はただの社長令嬢にも護衛って必要なんだね」
「ただの社長令嬢って。お前んとこくらいの会社が日本にいくつあると思ってんだよ」
透哉は呆れたように「もうちょっと大企業のお嬢様っていう自覚持てよ」と大きくため息を吐いた。確かに姉様や兄様にも護衛兼使用人が居るが、危険な目にあったという話は聞かない。
「お前はどんくさいからな。誰か付いてないと自分から危険な目に遭いそうだ」
「失礼な。大体透哉はちゃんと護衛できるの? 昔は腕相撲でも私に勝てなかったのに」
「昔は昔だ、まかせとけ。ちゃんとお守りいたしますよ、詩乃お嬢様」
「……不安だなあ」
後部座席からでは運転している後姿しか見えないが、きっと自信満々な顔をして言っているんだろうなと、言葉とは逆に不安になった。