知っている、その顔
昔から、何かを忘れているような気がしていた。頭の中でいつも何かが引っ掛かっているような気がして、もやもやした感覚が消えることはなかった。
それが一体何なのか、考えに耽ることが多かった私は気が付けばぼんやりとした大人しい子供だと周囲から認識されていた。しかしそれは正しくない。私は昔から大人しいという言葉とは無縁な性格であったし、思ったことはすぐに口にも顔にも出るタイプだったと思う。……と頭の中に過ぎったが、昔とは一体いつのことだろうか。
頭にかかっていた霧が晴れたきっかけはほんの些細なことだった。
少し年の離れた兄と姉と一緒にケーキを食べていた、そんなごくごく当たり前の日常。そこで有名店のザッハトルテを一口食べた瞬間にふと思ったのだ。『このケーキ一つで一体いくつのお菓子が買えるんだろう』と。
何でそんなことを思ったのかとその時は分からなかったのだが、その日の夜見た夢で私の人生は大きな転機を迎えた。
次の日、目を覚ました瞬間に私は根拠もなく確信していた。
「私……生まれ変わってた!?」
ベッドの上でばっちりと目を開けながら開口一番に呟いたのはそれだった。
見た夢は、私の前世だったのだ。私と同じ顔をした女の子が成長し、大人になるまでの走馬灯のような夢。夢の中の……前世の私は一般家庭に生まれ、平凡な人生を歩み、そして幼馴染と結婚していた。
ひとつ思い出せばそこから芋蔓式にどんどん思い出は蘇ってくる。そうして私はぼんやりと過ごしていた今と前世を比較し、現在の私はとんでもない立ち位置にいることに今更気が付いたのだった。
今の私、一条詩乃は――所謂お嬢様であったのだ。
平々凡々な中流家庭で暮らしていた前世を思い出し、当たり前のように眠っていた天蓋付きベッドに眩暈がする。ぼやぼやと何も考えずに暮らしていたが私は一体どれだけ贅沢をしてきたのだと愕然とした。
私の父は大企業の社長、祖父は会長で代々我が一条家が会社を継ぎ、その度に会社を大きくしてきた。一番上の兄も非常に優秀でまず間違いなく次期社長になると言われている。
前世を思いだした私には恐れ多いハイスペックな家族の中に生まれてしまったのだが、そんな中で私はどうなんだというと……言葉にするのも悲しいレベルである。
学校の成績は前世を思い出す前からなんとなく覚えていたのか悪くはないものの決して優秀とは言えない。しかしながら成績は努力すれば多少はどうにかなる。なるが、私の一番の問題はそこではない。
何が一番大変かって、それなりに美形一家に囲まれた中私だけが前世と同じ平凡顔だったことである。
前世から引き継いだのは記憶と容姿、そして名字は違うが名前も同じだった。
「うわぁ」
毎朝鏡を見る度に思わず声が出る。何度見ても慣れないものである。容姿は平凡だがしかしそれでも私は正しくお嬢様である訳で……つまり、髪型も服もお嬢様そのものなのである。
勿論似合わない物を無理やり着せられているのではなく、そこは平凡顔をいかに上手く料理するかを最大まで突き詰め、ぱっと見た感じでは特に違和感もなくお嬢様然とした装いになっている。
しかし、である。昔からこの顔を見慣れてきた私にとって、この恰好は本当に精神的にきつい。綺麗に巻かれた焦げ茶の髪に一体いくらするのか考えたくもないシンプルながらも高級感溢れるワンピース。鏡で確認する度にコスプレしている気分になって辛い。
前世では本当に普通の暮らしだった為、近くのお嬢様学校に通う綺麗な女の子達を横目に「お嬢様っていいなあ」なんて考えたことも少しはあるが、人間やっぱり適材適所であると痛感せざるを得ない。
さて、そんな私も中学を無事に卒業し、明日から高校生である。
進学先は私立の有名なお金持ち学校であったため、内心庶民だと馬鹿にされないだろうかとか、漫画に出て来そうな女王様タイプが居たら怖いななんて思いながら戦々恐々としていた。
そうして無駄に神経をすり減らしていた夜、私は珍しく両親に呼ばれることになった。
「お父様、お母様。詩乃です」
「入りなさい」
記憶を取り戻しても、以前の両親を想って彼らとの関係が悪くなることは一切なかった。というのも、元々今生の両親と関わることなど殆どなかったからだ。仕事に忙しい彼らは子供の世話を使用人に任せて自分達は各国へ飛び回っている。ならば兄弟はどうかというと、こちらは沢山いる兄弟の一番下の妹だということもあり酷く甘やかして遊んでくれた。ただ会う度にお菓子をくれるので嬉しい反面体重の維持に相当神経を使うことになったのは余談である。
まったく軋むことの無い扉を開くと、そこには両親の他にもう一人男性が控えているのが目に入った。黒いスーツを着こなしたその男は会社の人間だろうか。
気になって視線を送っていると、僅かに俯いていた男が顔を上げる。そして私の目が彼の顔をはっきりと映した時、私の意識は一瞬飛びかけたのだった。
「詩乃、お前も高校生だ。以前よりも外出も増えることだろうし専属の護衛を雇った。明日から使え」
「神崎透哉です。お嬢様、よろしくお願い致します」
落ち着いた素振りで頭を下げた男――神崎を見上げながら、私はぱくぱくと言葉にならずに口を動かした。
数秒その場を沈黙が支配した後、私はとうとう堪え切れずに叫ぶ。
「え、えええええええっ!?」
「詩乃、静かになさい」
「あ、はい……」
混乱のままに上げた声は母様によって即座にぴしゃりと窘められる。父様も言葉にしないまでも「何叫んでんだこいつ」というような冷たい視線を向けてきた。
恥ずかしくなって体を縮めてしまうが、正直叫んだのは仕方がないというか、予想外過ぎたというか……。
酷く動揺しながらも、私は再度男を失礼にならない程度に――もう遅いかもしれないが――見た。酷いという訳ではないが決して整っているとも言い難いどこにでもいそうな容姿、特に身長が高い訳でもなく、日本人なら当たり前の黒髪を短く切り揃えた真面目そうな表情を崩さない二十代くらいの男。
私は、この男をよく知っている。
「あ、あの、よろしくお願いします」
なにせ、私の前世の夫だったのだから。