お付き合いを始めるまで 2
「あの、福田さん、すみません。これ、以前福田さんが担当していたと聞いたんですけど、この資料って持ってますか?見つけられなくて。」
「あれ?あそこになかったんだ?」
はい、と申し訳なさそうにしている後輩。
「じゃあ、バックアップじゃないとないなあ。ファイル名はプロジェクト番号だから、すぐに見つけられると思うよ。」
「ありがとうございます。」
「あ、福田さん。」
「福田さん、すみません。」
「あのー、福田さん。」
ん?なんか、最近忙しくないか?
「あ、美佳子さーん。」
ちょっと間抜けな感じの呼び声は、隣の部署にいる二つ後輩の杉山だ。見た目もファッション誌の「OLモテコーデ」なんかに載っていそうなふんわり系の女子で、黙って笑っていれば可愛い。
黙って「笑って」いれば。
仕事が物凄く出来る女でその見た目に騙されて何人の男を返り討ちにしたのやら。黙々と仕事をし、仕事中は般若の面が顔に浮かんで見えるという噂が囁かれている。ただ、スイッチが切れた瞬間、般若がゆるキャラフェイスになるレベルの間抜けになって、へらへら笑いながら声をかけてくるからこれまたすごい。
結婚しているものの、旦那さんが地方に出向することになり、週末婚状態。なので社内じゃ飲む相手に事欠くと、互いに良く誘い会って飲みに行く。
もしかしたら、全く知らない振りをしてくれていた人がいるのかもしれないけど、会社の中で私が不倫してたことに気が付いていたのは杉山だけだった。
一度だけ、気が付いてますよってことを態度で示された後には何も言わず、周囲に言いふらすこともなく。ノリは軽いけど、人のプライベートへの踏み込む加減がとても上手いので、付かず離れず良い距離で付き合える。
「明後日の金曜、予定あります?デートとか、デートとか。」
わざとケンカ売るような聞き方をしてくるのも相変わらず。返事のかわりに眉間に皺を寄せて視線を送る。
「久しぶりに飲みに行きません?せっかくの花金ですよ、花金!」
花金って……氷河期の人間が言う言葉か?
ま、でも最近杉山とも飲んでなかったし、久しぶりに良いな、と思い軽い調子で頷く。二人で仕事帰りに店に向かえば……。
「えっ?」
「ごめんなさーい。美佳子さんと飲むって言ったら、なんか実は飲んでみたいって皆が言ったんでー。」
なぜか、うちの部署や近くの部署の後輩達までがいた。
「別に良いんだけど……。」
え?何で?私なんかと飲んでみたいの?
歓送迎会がない限り飲みに行くこともなく、あまり親しくしてこなかった後輩達の新たな一面を知ることが出来て楽しかった。
「福田さん、最近何かあったんですか?なんかすっごい雰囲気変わったんですけど。」
髪切っただけなんだけどね。
「福田さんは厳しいから、変な事言うなって課長言ってたから、逆に構えちゃってたかも。」
は?
「迷惑じゃなかったですか?こういう会、好きじゃないから誘わない方が良いって聞いてたんですけど。」
はあ?
何となくハブられてると思っていたら。まさかそれも課長か……?。
「迷惑じゃないですよ。どっちかっていうと少人数で飲む方が多いから、そう思われてたのかも。」
どんな状況でも、ミリセカンド単位で笑顔を張り付ける技はアラサー独女の特技だよね。だって、たまに居るもん、無神経に「え?結婚してないの?」って聞いてくるやつ。コンマ一秒だけ睨んだら、笑顔向けるなんて朝飯前だ。
すでに真っ赤になってべろべろな杉山が絡んでくる。
「ホント何かあったんですかー?美佳子さんってば、きゅーに髪切ったかと思ったら何か生き生きし始めて、雰囲気も丸くなるし。あっ!もしかして恋ってやつですか!!?」
本当に人妻か?むしろ三十路か?なんだこいつのノリは?これで仕事出来るから、すごいと思う。
「いや、むしろ別れたんだけど。」
ええーっと声が響き渡る。
いやあ、やっぱ反応が若いわ。おばちゃん、そんな反応出来ない。
一瞬、杉山が「あ、そうなんだ」って顔をしていたのが見えた。こいつもミリセカンド技を習得しているらしく、すぐにいつものへらへらした顔になった。
「メイクとかも変わりましたよね!前までは、出来る女!って感じが全面に出てて話しかけづらかったですけど。」
「うんうん、今の方が雰囲気に柔らかくて話しかけやすいです。」
「こうやって飲むのも嫌いじゃないなら、この前もお誘いした時来てくれれば良かったのに。」
『福田は童顔だから、なめられないようにした方が良いかもな。化粧もそうだし、普段の態度とかも。』
突然、付き合い始めた頃にもらったアドバイスが、頭の中で再生される。
数年前、自分がする仕事は一通り覚えた頃で、部下、後輩への接し方や対処に悩んでいた頃だった。今思えばなんとも馬鹿なことだけど、相談ついでに飲みに行くうちに、「不適切な関係」になってしまったのだ。
『あと後輩から誘われても、飲みに行かない方良いよ。俺らだって、部長が来たら気使うだろ?声かけられてもそれ社交辞令だから。下の立場じゃ、声かけない訳にいかないんだからさ。』
ビールジョッキを握る手に力がこもった。
もしかして、……あの男……。
今ここが駅のホームで目の前に立ってたら、後ろから刺した後に突き落としてるわ!
やっぱ、あいつが疫病神だったんだ。
週明けデスクに塩撒いたろか!
それとも塩で周りを固めてやろうか。
いっそ岩塩ブロックで後頭部殴って抹殺したら、浄化されて消滅しないかな。
あまりの腹立たしさに思わずビールをあおる。ぐびっぐびっと喉を爽快に通り過ぎるビールのお陰で、多少のイライラがアルコール消毒された。
なんだか後輩の認識に誤解があったみたいだけど、杉山のお陰で解けたし。ビールの一杯や二杯おごってやるか。
「ねー、言ったでしょ。この人結構飲んべえだって。誘ったら来てくれるよー。いっつもこんな調子だもん。どうせ、デートの予定もないんだし。ねー、美佳子さん?」
「すーぎーやーまー!」
青筋と笑みを浮かべる私を見て、杉山はちょっとお花を摘みになどと抜かして立ち上がった。この都会の居酒屋のどこに摘む花があるんだ?逃げんな!
ふと、バッグの内側がピカピカと点滅している。あさってみると、清沢君からの着信履歴が表示されていた。
電話してくるね、と言って立ち上がると、入れ違いに戻って来た杉山がにやにやしてる。
「もしかしてニュー彼氏ですかー?」
まあ、ヤることヤってるし彼氏みたいなもんだよなあ、なんて思いつつ杉山を無視して電話をかけ直した。
「福田さん、あの……、実はその。」
どうにもはっきりしない声。
何でも良いからさっさと言ってくんないかな?と苛立ちながら言うと、ぼそぼそと声が聞こえてきた。居酒屋の喧騒の中、聞き取れないような音量なのに半泣きの声はなぜかはっきりと聞こえた。
「水道止められちゃって……、漫喫行く金もなくて、シャワー貸してもらえませんか?あと、すみません、水……、水も、もらえませんか?実は……気付いたのさっきで、電話したらもう金曜の深夜だから対応してなくて……、お金払っても週明けじゃないと開けてくれないって。あの、ほんとすみません。」
ニュー彼氏?
冗談じゃない。
こんな情けない彼氏要らないから!!