お付き合いを始めるまで 1
最近、旦那の様子がおかしい。
ちょっと前は、残業があっても元気に帰って来た。きっと小学生の時、野球とかサッカーとかに夢中になって走り回った後、お腹すかせて帰って来た時と同じ顔して。娘が寝てしまった後だったら、必ず娘の寝顔を見ていたのに。
なのに、最近は違う。残業があったりするのは相変わらずだが、物憂げに溜息を吐いたりして。あと、スマホの画面を眺めてしょっちゅうメッセージが無いかを見たりしている。
以前が小学生男子なら、今は思春期の恋煩いしている女の子みたいな。
前々から怪しいとは思っていたけれど、調べてみた方が良いかもしれない。スマホは元々ロックがかかっていたので分からない。レシートやカードの明細もおかしい所はなかったけど、レシートは捨てて、現金で払っているかもしれない。
まーた、浮気の調査か。
世の中不公平だよな、なんて思いながら溜息を吐いた。
興信所に来る依頼なんてほとんど浮気の調査だけど。まあ、今回もクロだろうなあ、奥さんの話の感じだと。話を聞く限り、残業が多い人らしいから、多分残業、接待と言って浮気してるんだろうなあ。
奥さんから残業と言われた日にだけ調査をして、これで5回目になる。本当はもっとちゃんと調査すればよいのだけど、それをすればするだけ依頼料も高額になるし、今回は浮気をする日時に目星が付いているので、その日にだけ調査をする、という契約になった。
これまで連絡があった日のうち3回は本当に残業、1回は接待とは言っていたけど同僚と飲みに行っていた。飲み歩くのに文句を付けられたくないから、そう言っているのだろう。
今日は残業と言っていたのに、割と早い時間にビルから出てくる姿を見つけた。もしかすると、今日は当たりかもしれないと思って、カメラを回す。ビルの前でしばらくスマホをいじっていたが、一人の女性が出てきたところで声をかけた。外れか……、ただの知り合いだろうな、ビルの前で声かけるなんて。と思っていたら、二人が連れ立って歩き始めて、慌てて後を追った。もしかして、当たりか、と思ったけれどすぐに女性の方がタクシーに乗り込んで帰ってしまってやっぱり違うと分かった。
「ええ?何もなかったの?」
様子がおかしいと調査を初めて一ヶ月。お財布に余裕がなかったため、毎日は無理で、怪しいという日だけ興信所に頼んだ結果は、限りなく白だった。
「はい。以前もしかしたら、とお伝えした同じ会社の部下の女性ですけど、一ヶ月の間、特に何もありませんでした。どうやら、この女性には若い彼氏がいて、割と頻繁に会ってるみたいですね。少なくとも、ご主人、浮気はしてないと思いますよ。ご連絡を頂いた日に、同僚や別の会社の友人と飲みに行く時は何度かありました。もしかしたら、何か仕事のストレスでしんどい時期なのかもしれません。過去にさかのぼって調べることもある程度可能ですけど、どうしますか?」
「そうですか。」
確かに、もしかしたら最近娘の小学校をどうするかとか、次子を産むかどうかなどと色々騒ぎ過ぎたのかもしれない。
大変な時期に家でも煩く言われたから、誰かを飲みに誘ったり、メッセージで愚痴を吐いたりしていたのかも。そう思うとなんだか申し訳なくなって、せめてしばらくは好物の夕食を準備して待っていようかなと思った。
実はもう一日だけ調査を続けていたら、違う結果になっていたとも知らず。
え?なんで、福田さんから電話?
とりあえずでバイトは見つけたのだけど、前のこともあって流石に懲りて定職を探していた。襲った相手から電話があったのは、そうやって職探しで歩き回っている時だった。電車に乗ってて気が付かなかったけれど、2回着信が残っていた。あの後、話をしているうちになんだかんだと気が合って、飲みに行く友人がいないという話に。結局、そのうちの飲みにでも行こうという話になって、気がつけば連絡先を交換したのだった。
今更慰謝料払えとかだったらどうしよう、と思いつつ何となくかけ直した方が良いという直感が働いて電話をした。
「あのー、清沢さん。バイト、しない?」
珍しくちょっと弱々しい声で福田さんが切り出した。ファミレスで良いなら奢ってくれると言う有難い条件を出され、ほいほいと呼びだされて行く。
ちょっと違う意味だけど、胃袋握られたのか、これ?
「ストーカー?」
「うん、まだはっきりはしないのだけれど。」
いつもの福田さんのにしては歯切れの悪い返事だったけれど、要約するとこうだ。
何となく会社帰りに、見られている気がするのだと。今の所、家までは来られていない気がするから大丈夫だと思うけど、夜遅い時なんかは結構びくついているらしい。
福田さんは両腕を組んで、口だけでストローをくわえてコーラをすすっている。
この人たまに、やること子どもっぽいよね。
「特に何かあった訳じゃないんだけど、ちょっと気味が悪くて。」
どうやら俺はかなり変な顔をしていたらしい、不思議そうに福田さんがこちらを見てくる。あ、その上目遣い、可愛いと思うよ、売りにしたらいいと思うよ。
「だって、レイプ魔は襲っちゃうのに、ストーカーは怖いって……。」
あ、俺って実はコミュ障だけど、口は滑りやすいのかも。悪いトコ取りじゃないか。
「うるさーい!!」
いつもの福田さんでした。
最終的には福田さんに押し切られて、バイトがない日に、福田さんの会社の向かいにあるカフェで履歴書を書いたりしながら待って送って帰るということになった。
何もなく、二週間程が過ぎた日。
「ねえねえ、今日、給料日だから奢るよ!どっかで飲んで行こう!」
女子力高いダイニングバーとか連れて行かれたらどうしようかと怯えていたのだけれ、足を運んだ先は意外にも赤提灯がぶら下がっている居酒屋だった。
給料日後って会社の人と飲みに行くもんじゃないのか。会社という所に居たことがないから、分からないけど、周りを見る限り、仕事帰りの人が多い印象だった。
「どう?新しい仕事見つかりそう?」
「いや、中々。履歴書だけなら割と行けるんですけど…」
「面接か。」
改めて言われると凹む。
「それなりの技術持ってるわけだし、多少、口下手だって仕事出来るなら良いと思うんだけどなあ。なんなら、交換して欲しい新入社員なんていくらでもいるわ。」
管を巻きながらジョッキをあおる福田さんは、完全に背景のサラリーマンのおっさんに溶け込んでいた。
着信があったので、福田さんに断りを入れて外に出た。まだ、夏だけど夜は少し涼しくなったと思う。
電話は母親からで、体はどうか、職はどうか、帰って来ないか、の一通りのことを違う言葉で三回ずつ言われた。
それに当たり障りの無い相槌を返す間にも、何人かスーツ姿のサラリーマンが店に入って行って、Tシャツとデニムの自分がやけに場違いな気分になった。いわゆる「普通」の働き方が全てだとは思っていないけど、大多数からはみ出してしまったからか「普通」が羨ましくなってしまう。
苦行と精神の鍛練を終えて店に戻れば、福田さんと、仕事出来ます感溢れたスーツ姿の男が見つめ合って、……じゃなくてすごく険悪な雰囲気で睨み合っていた。
「だから、もう外では会いませんって言いました。」
誰?と聞こうと近づくと、福田さんがこちらに気が付く。まだ状況を掴めていない俺の腕をぎゅっと抱きつくようにして福田さんが掴む。
「それに、私もう彼氏出来たんです。若い方が良いっていうのは男だけが思う事じゃないんですよ。」
へ?彼氏って俺?
仕事出来そうな男が、不審そうに俺のことを見てきた。そりゃそうだよね。どっからどう見ても、恋人じゃないよ。弟だよ。
「清沢君、帰ろう。家帰って飲みなおそうよ。」
そう言うと、叩きつけるように会計を済ませ、外へと引っ張り出され、素早く捕まえたタクシーに乗り込んだ。もちろん、腕に抱きついたまま。脈拍が早い。俺じゃなくて、福田さんの。腕に感じる柔らかな感触にどぎまぎしたのは束の間で、強張って震える腕と異様に早い脈拍に俺の酔いもすっかり醒めていた。
「あ、あの。」
「ごめん。変な事言って。」
「さっきの人は?」
「元彼。ってか不倫相手。で、ストーカー。」
なんだそれ。不倫ならストーカーすんなよ。むしろ、その色々なエネルギー、嫁に使え。お前みたいなやつが二人も三人も女と付き合うから、コミュ障組には回って来ないんだろうが。
福田さんの部屋の前まで来ても腕は離してもらえなくて。
離して、って言おうとしたけど、腕は震えているし、ずっと無言だし、店に居た時は真っ赤だった福田さんの顔が青白くなっていて、余程嫌な事があったんだなあなんて思っていたら、
「うっぷ、きもぢわるい……吐きそう。」
……ってええええええ!!!!鍵!早く鍵!!!
「ううっ。」
で、粗相が服にかかって、結局またお泊りになりました。
まさか人生二十年の短い期間に、二度もジャンピング土下座見るとは思わなかったよ……。