彼女のプロフィール 2
今日は、社内コンペのプレゼンの日。それだけじゃない、勝負の日だ。
いつもよりずっと早く目が覚めた。
一番新しくて、一番高い勝負下着を身につける。
髪を巻くのもいつも以上に気合を入れて。さすがに派手な化粧は出来ないけど、パックもしたし、下地もファンデも丁寧に塗った。
シンプルだけどラインが綺麗な、実は良いお値段のワンピースに、真新しいストッキングを下ろす。仕事用の靴の中でも一番ヒールが高いのを選ぶ。ジャケットを着てバッグを持つが、首元が寂しくて大ぶりのアクセサリーに変えた。
昨日の晩、色々な物をゴミ袋に突っ込んだ。デートで行った映画のパンフレット、もらったプレゼント。それだけじゃない。着なくなった服や靴。捨てられずにいた化粧品も、最低限の物だけ残して思いっきり捨てた。昔買ったアイシャドウなんてどうせ古くなって、三十路の肌には悪くなってる。
「おはようございます!」
すれ違うマンションの住民に挨拶をする声ですらどこか弾んでいるのが分かる。思わず手に持ったゴミ袋まで振っていた。こどもみたいに勢いをつけてゴミを投げる。右手にかかっていた重みがふわてっと消えて行く。
半透明のごみ袋は綺麗な弧を描いて、すとんとゴミ捨て場に落ちて行った。
「よっしゃ!」
思わずガッツポーズして振り返ったら、管理人さんが微笑ましそうに見ていて、笑ってごまかして逃げてきた。
びっくりするくらいに体が軽い。
どれだけ今まで捕らわれていたのかと笑いがこみあげてしまう。一体何が私を引き止めていたと言うのか。
いつもと空気が違ったのだろう。彼は怪訝そうにこちらを見ていた。 その視線をものともせずに、キーボードを叩く。
昼休みになれば声をかけようとする彼にそんな隙を与えず、時間ピッタリに会社を飛び出し、銀行に向かった。
「定期、解約してください。3/4で新しく定期にして、1/4を普通に入れて欲しいんです。」
窓口のお姉さんは笑顔で『かしこまりました』なんて言ってるけど、内心毒づいているかもしれない。
結構な額動かしちゃったもんな。
時計を見れば12:38になっていた。急ぎ足で会社に向かいながら、今は割と手透きな時間であろう友人に電話する。
「今、大丈夫?」
『どしたの?この時間かけてくるなんて。』
「今日、空いてる?お酒、付き合ってよ?」
私の声の調子でおおよその見当が付いたらしく、ほっとしたような声が帰ってきた。
『良いよ、20時過ぎくらいでも?』
「もちろん。」
「課長。こちら、指示を受けていた資料です。」
勘違いを招かないように、と職場じゃ笑顔をあまり見せずにいた私がにっこりと笑って書類を渡したものだから驚いたように、しばらく私の顔を見ていた。もしかしたら、そのせいで氷の女とか鉄仮面とか影口を叩かれていたのだろうか。だとしたら、この男は間違いなく疫病神だ。さっさと「お払い」しないと。
「あ、ああ。」
書類には会議室の予約を早めた旨、最終確認に30分程前に一度来て欲しいという旨を伝える付箋。怪訝そうな顔をして入ってきた。
「準備はどうだ?」
周囲に人がいる時に、わざと声をかけて入ってくる。ブラインドも下ろさず、あえて見えるようにしていた。
「会議までには。」
また笑顔で答えた。 扉が閉まる。
「今日の夜、行きません。」
眉を顰めて、私の真意を探ろうとするので、素直に告げる。
「これからも。」
彼はじっと私の顔を見つめてくる。前はこの沈黙が嫌いだった。
何度か良心の呵責に苛まれたり、自分のものにならない悲しみを覚えたり、心が揺れて関係の解消を仄めかすような事を言った時、彼は微かな笑みを浮かべてじっと私の目を見つめてきた。 心が不安定というのは、簡単に元鞘になる状態でもあるということ。 情けないことに、結局、いつもいつも私が別れられずに今までずるずると引っ張っていたのだ。
今なら卑怯者と罵ることだって出来る。
嫌だとも、分かったとも言わずにただ黙って。
別れようと別れまいと私が彼を想って夜に泣いていると知っているくせに。
でももうそんなことは起きない。小娘ではないのだ、自分が悪くなくたって頭を下げるくらい、簡単に出来る。
「今まで申し訳ありませんでした。いつも課長に泣きついてばかりで。」
私を見つめる目に初めて動揺が走った。今頃になってようやく私が本気だと気がついたのだ。
「課長には感謝してます。辛い時に何度も支えになっていただいて。なので、」
顔上げ、背筋を伸ばして顎を引く。唇の両端が無意識に上がっていた。
やっと解放される。
「もう仕事以外の時間に会うことはしません。」
これでもう、書類を渡す度にデスクの家族写真に苦しむこともない。かけられない電話番号を眺めるだけの夜も来ない。
沈黙が部屋に満ちた。
「そうか、分かった。」
「準備が整いましたら、またお声かけします。」
その後のプレゼンもかつてないくらいに自信を持って出来た。
こんなに気分の良い金曜日はいつぶりだろう。
「お先に失礼します。」
友人との待ち合わせに駅へ向かう。どのビルもまだ明りがついたままだ。遠くの高層ビルのネオンが夏の都会の空気に揺れてきれいだった。 明るい都会の夜でも、月だけは一際明るく輝いていた。その手前を真っ直ぐに横切って、飛行機の航空灯が遠ざかっていく。
あれ?こんな風に景色を見ながら歩いたのはいつぶりだったっけ?足元のアスファルトが剥がれている場所なら知っているのに。
ちょっとだけ悲しくなった。
寂しいんじゃなくて、自分が情けなくて。
どれだけ綺麗な物を見逃していたのか。
世界はこんなにきれいだったのに。
目の前の偽物の幸せに縋りついて、どれだけの幸せを見逃していたんだろうか。
「別れたの?」
私な顔を見た友人は開口一番そう言った。疑問の形はしていたけれど、確信した口調で。
この友人は理屈をこねて、不倫は良くない、とか別れた方が良いなんてことは言わない。真摯な眼差しを私に向けて、幸せな選択肢を選んでほしい、とだけ忠告してくれた。その後は、一緒に笑ってお酒を飲んでくれる素敵な友人だ。
「うん。何か決心が着いたっていうか。」
窓の外の景色に目を向ける。都会のネオンをホテルのバーから女二人で見下ろした。若い時は、こういう景色を見るのは恋人とだと思い込んでいたけど、実際やってみれば友人とこうしている方がずっと気楽だった。
「そっか。」
安堵が混じってた声に視線を戻せば、笑みにも安堵が混じっていて、この優しい友人を心配させていたんだな、と改めて反省させられる。
バルーン型のシャンパングラスを掲げた。
「奢り。ドンペリとはいかないけど、良いの一本入れちゃった。」
「ありがたく頂くね。どんなことにしたって、この歳で新たなステップを踏み出すなんて、滅多に出来ることじゃないもん。おめでとう、美佳子。」
クリスタルグラスの澄んだ音が暗い店内に心地よく響いた。
「由希、ありがとね。」
「どういたししまして。これで独り身の仲間入りだね。」
「何言ってんの。由希にはAleが居るでしょ?」
「居ないようなもんでしょ、地球のどこかほっつき歩いてるんだから。下手したら、地に足ついてないかもしれないし。」
「ま、でも由希が待っててくれるから、Aleもああやって飛び回れるんだよ。今はどこにいるの?」
「ブラジルのどこかっていうのだけは知ってるんだけどね。」
そう言って由希は苦笑いする。AleことAlexは映画にでも出て来そうなラテン系イケメンで、地層の調査とかで世界中を飛び回っている。地に足ついてないというのは冗談でもなんでもなくて、たまに海に潜ったり空から写真を撮ったりしているらしい。
「飲もうよ!こんなに良い場所で帰宅時間を心配せずに飲める独り身を楽しまないと。」
ウィンクをしてくる仕草がAlexと全く同じで、恋人同士だなとほんの少し羨ましくなったのは内緒だ。