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活字をください

作者: 中谷鳴

 世の中活字離れが進んでいるとか、騒いでおりますけれども、わたくしは活字が無いと、もう空腹や渇きのようなものを感じて苦しくなってしまう次第なのです。

それが起こりましたのはいつからだったでしょうか。祖父と同居していて厳しい家に育ったわたくしは、小学二年生で大人の読むような難しい本を読ませられておりました。しかし、その時わたくしには何か生き別れの母に出会ったような、一種の感動が湧き上がって参りました。もちろん母はその時、台所でカレーなどを作っていたわけですが……。それはまるで興奮、そしてわたくしは夕飯のカレーなど入らないほど満ち足りておりました。太宰治全集を読破して、わたくしはその間チョコレートを片手に読んでいたのですが、それが一週間もその状態であったというのです。それを、わたくしは本を読み終えて、初めて「ああ、わたくしは本を読む為にチョコレイトだけを食べていたのだなあ」と気付く次第なのです。

これは確かに父母を心配させました。なにせ、食うこともせず勉強もせず、ひたすら読書の道に走るのです。これは本の中だけで人生全て悟ったような気になり、ませた子供が出来上がるのではあるまいか。父母の心配はそれでした。そこで、父母はある日わたくしに読書を制限したのです。読むのは一週間に一冊だけ、残りは真面目に勉強なさいと、そう言うのです。ところが、そうなるとわたくしはその一週間で五キロも痩せてしまいました。その間、食べることが出来ないのです。何を食べても吐いてしまい、渇いたような状態が続き、ついには脱水症状を起こして医者が呼ばれました。それで原因というのは、これはストレスによる胃炎ではないかなどと申されて、薬を置いていくというのですが、わたくしにはもう原因なぞ分かりきっておりました。そこで、夜中家のものが寝静まったところで、文庫本を片手にあんぱんを食べ、ジュースを飲み、それで次の日に、母親が空のあんぱんの袋を三つみつけるのですが、これを誰が食べたか、というのでわたくしですと答えますと、おや胃炎でものが食べられなかったのではないの、と訊きますので、文庫本を読んでいると食べられたのですとことの次第を説明したのです。そうなると、どうもわたくしという子供は活字が無いと物を食べることさえ出来ぬらしい、ということになりまして、わたくしは自由に本を読むことが出来るようになったわけです。

しかし、受験が近づいてもわたくしがあまりに本ばかり読み耽っておりますので、勉強の方はどうかと訊かれます。しかし勉強と言っても、わたくしは色々な本を読み耽るばかりですので、さっぱりテストなどを受けておりません。呆れかえった家のものが、これはもう駄目だろうと思っていたのですが、これがどうしてか、テストというのは活字で出来ておりましたので、ぎりぎりわたくしの許容範囲でありました。それにわたくしは理科から科学から数学から純文学と、なんでも取っては読んでおりましたから、点数は良く、無事高校に合格致した次第でありました。

しかし、ここまでは良かったといえるでしょう。勉強をするのと同じくらいの本を読んでいたがために、テストでも点数が取れたのですから。そして、わたくしの食生活も、きちんと営めたという訳です。しかしながら、今度は社会人になるため面接というものがありました。わたくしは勿論、文庫片手に試験に臨んだのですが、やはり文庫は置くように、といわれます。そして、君がこの会社を志望した理由……などと髭剃り跡の濃い中年男性が訊くのですが、わたくしの意識は朦朧とし、ついには失神してしまいました。

 精神科の先生が仰るには、どうも本を読んでいないとわたくしは重度の不安神経症になるらしいのです。

 それで、失神したということでもう一度面接を受けさせて頂いたのですが、その時には本の台詞を心の中で必死に反芻し、なんとかへとへとになりながらも合格致しました。これは本当にもう自分が何を答えているのかもさっぱり覚えていませんし、ひやひやものでありました。

 とにかく危ない橋を渡りつつも、無事社会人になれたわたくしですが、もちろん普段の業務など出来ません。なにせ、その間も本を読んでいないと治まらないのです。今日の会議の議題をワープロで作るというような作業ならば出来ましたが、業績を数字で表すような活字のほとんど出てこない作業は全くできず、度々失神しておりました。失神している最中も、誰かが本の内容を読み聞かせないとなかなか正気に戻りません。そういうようなことで、結局わたくしはくびになってしまいました。

 くびになっても、わたくしは朝早く起きて本屋に行き、そこでずっと立ち読みをします。お金が無いからです。そうして、立ち読んでいる内に閉店時間になります。もちろん店員さんには酷くきつい目で見られます。が、構っては居られません。しかし、その内「いい加減買わないならこの店に来ないでくれ!」と言われまして、このお店には来ることが出来なくなりました。仕方が無いので今度は図書館に参ります。図書館に最初に行かなかったのは、休館日が多いので、本屋で立ち読みしている方が良いと思っていたのですが……どうやら誤算だったようです。そう言うわけで、ともかく図書館が開くとすぐに中に駆け入り、本を片っ端から読み漁ります。そして閉館時間まで粘り、これは前からやっていたことですが、家で読むための本をどっさりと借り込みます。それで家に居る時間を繋ぐのです。

 しかし、わたくしのこのペースがどんどん酷いものになってまいりました。

 なにせ毎日のように読んでいますと、活字を追うスピードも速くなってしまいます。一度読んだ本をもう一度読むのは、この渇きに効果は無いのです。だから新しい読んでいない本が次から次に必要となります。わたくしはもう図書館に通い詰になります。しかし持ち出し禁止の本までもをどんどんどんどん読んで、その内に二年五ヶ月たちました。

 この図書館には、もうわたくしの読んでいない本は無くなりました。

 なにせ一日中年中本を読むだけが生きる術なのですから、わたくしの読む本の量は異常です。

 そのため、また本屋に通い詰めて新しく出来上がってきた本や、古書などの中から掘り出し物を探すしかありません。他の町にいっても、他の町の図書館では借りられませんし……。それで、あんなことが起こってしまったのです。本屋の店員が――なにせ、この町には本屋は数えるほどしかありませんから、みんなわたくしの顔を覚えてしまっています。

「買わないなら帰れ! 活字泥棒!」とわたくしのことを非難致しました。そして、わたくしが丁度読んでいる本を取り上げようとなさいます。わたくしは抵抗しました。抵抗に抵抗を重ねます。だって、本を読まなければいずれわたくしは死んでしまうではありませんか。だから、力ずくで本を引っ張りました。

 …………。

 その反動で、店員の方は本棚の角に頭をぶつけ、怪我をなさいました。その怪我はどうやら大変なものであったらしく、そうしてその方はお亡くなりになりました。

 今、わたくしは刑務所に居ます。しかし、刑務所にも図書館のようなものがありますし、事態をみかねた父母は小学校や中学校で書いた作文や、町の役場のたくさんの書類や、色んな活字を集めて回ってくれて、刑務所の中で生活するわたくしに届けてくれます。

 しかし、そんな風にしてもわたくしの読んでいないものはどんどん減っていくばかりです。

 見せて貰えない文書も、手に入れることの出来ない文書もこの世にはいっぱいあるというのに。あいにくわたくしは外国語が読めませんし……。

 この間、吐血致しました。

 そろそろ手持ちの活字が無くなります。

 その時、わたくしはやはり……いいえ、もう何も言いますまい。


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― 新着の感想 ―
[一言] 笑えるような、笑えないような、心当たりがあるような、ないような、そんな感じの話でした。
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