野ばら
野ばら
まだ春遠い冬の一夜のお話。
いつもなら積もるほどの雪なんて降ることもないのに、今年に限って何故か車が動けない程降り積もって…
引っ越しの予定が一週間伸びてしまった。
狭い部屋が積み重ねた段ボールで益々狭くなり、比較的でかい図体の俺には、居心地が良いわけないけれど、引っ越しが伸びた所為で、梱包したコタツをまた出して、ほっこり温まる。
うん、悪くない。
そう思ってコクリコクリと眠り始めた時、玄関のチャイムが鳴った。
眠いのと、あったかいコタツから出たくなくて、しばらく様子を見ていたが、鳴りやみそうもないので立ち上がり、狭い廊下を歩き、狭い玄関に立ち、ドアを開けた。
「こんにちは!…じゃなかったこんばんは!」
目の前には誰もいない。いや、目線を下げたら見知らぬ子供が俺を見上げていた。
5つか…6つくらいだろうか…
近所の子だろうか…
近所付き合いには自信があったはずの俺だが、見たことのない子供だ。
自分の家と間違ったのなら、俺の顔を見ればあわてるはずだろうが、そんな素振りはなく、その子はにこにこしながら俺の顔をじっと見ている。
「あ、の…なにか用事かな?」
少し屈んで優しく訪ねてみた。耳当てのある赤い毛糸の帽子が懐かしい。
俺も小さい頃は、こんな帽子を被っていたものだ。
「ねえ、寒いからおうちに入れてくれる?」
真っ赤な頬と白い息を見て、無下に断れるはずもなく、俺はその見知らぬ子を狭い我が家へ招いた。
その子は躊躇いもせずにブーツを脱ぎ、「さむ~い」と連呼しながら、早足に廊下を歩き、リビングのコタツに素早く潜り込んだ。
「うわ、あったか~い、きもちい~い」
無邪気な声に、俺の警戒心も薄れる。
「何か飲むかい?ココア…と、ダンボールに片してしまった…」
「箱、たくさんあるねえ~」
「引っ越しするんだ」
「おひっこし?」
「うん」
なにかお菓子でもないものかと辺りを探すが、こんな時に限って何もない。
「ごめん、なにもないみたい」
「プリン食べたい」
「プリン?」
「うん。ボク、プリン好きなんだ」
「…」
近くのコンビニに行けば望みは叶うけれど、この子を置いて出かけるのも、一抹の不安が残る。
「ねえ、プリンがいい」
「今はうちにはないんだ」
「あるよ、冷蔵庫にきっとあるよ」
「…」
仕方がない。一応冷蔵庫を覗いて、無かったことをこの子に確認させ、それでも強請られたら、ひとっ走りコンビニまで行ってこよう。
もう雪も降ってないし、走れば五分で戻れるし…
そう思って冷蔵庫を開けてみると…あった。プリン。
しかもふたつ…
…そっか…昨晩、一緒に食べようって紫乃が買ってきてくれたんだっけ…
今日も仕事が終わったら来てくれるって言ってたけど…
ひとつ、この子に食べさせても許してくれるよね。
「あったよ、プリン」
「わあ、良かった~」
プラスティックのさじと一緒にプリンを差し出した。
「あれ?これぷっちんってするやつじゃないね」
「そうだね。これはもう少し高級な…ちょっと大人なプリンだね。クリームブリュレって言うんだよ」
「…うん、上のところがカリカリしてて中がふわふわだあ~。ぷっちんよりもおいしいかも~」
「そう、良かったよ」
「本当はね、おかあさんの作ったプリンが一番好きなんだ。でもお仕事いそがしいから、わがまま言っちゃだめなの」
「そう…なんだ」
昔を思い出すな。
俺も同じだった。
共働きで自営業を営んでいる両親の姿は、子供の俺から見ても忙しそうで、我儘を押し通すことはなかなかできなかった。
でも俺には姉貴が居てくれたから、さみしい思いをせずに済んだんだ。
「おいしかった、ごちそうさまでした」
「おそまつさまでした」
「…おにいさん?」
言いにくそうだったから「俺は千葉啓介って言うんだよ。啓介って呼んでいいよ」と、進めた。
「…啓くんは、どこにおひっこしするの?」
「…」
すぐに答えられなかったのは、俺自身の気まずさがあるからだろうか。
この春、無事大学を卒業することになり、そして希望の「聖ヨハネ学院高等学校」の教員として就職することになった。
付き合っている恋人の藤宮紫乃は、もともとヨハネの教員で、俺の教育実習の指導教員だった。俺は彼に一目惚れをし、そして俺の想いを紫乃は受け取ってくれた。
ヨハネの教員になって、紫乃と一緒に机を並べて、仕事もプライベートもいちゃいちゃしたい!ってのが俺の願望で、その為に一生懸命に勉強して、採用試験に合格したんだ。
ふたりで話し合って、この横浜のアパートから、紫乃の住む鎌倉のマンションに引っ越して、一緒に住むことに決めた。
憧れの同棲生活だ。
でも…まだ両親にはカミングアウトしていない。
姉ちゃんには俺がゲイだってことも、紫乃の事も打ち明けてて、力になるって言ってくれているけれど…
親の…特に母親の顔を見たら、なかなか男が好きで一緒に生活します、とは面と向かって言えないものだ。
まあ、こうなると札幌に居る親たちと距離があるのが救いなんだけれど。
「啓くんは好きな人いるの?」
「え?あ…うん、いるよ。とっても大事な…死ぬまでずっと一緒に居たいって思う人…紫乃って言うんだよ」
「ふうん」
俺、何言っているんだろ。こんな見知らぬ子供に。
親に告白できない代わりをしているのだろうか…
俺は紫乃の良いところを、この見ず知らずの子供に話し聞かせていた。子供はニコニコと面白そうに聞いている。
「じゃあ、啓くんはしあわせなんだね」
「…うん。…ああ、とっても、とても幸せなんだよ」
「良かったね、啓くん」
「あ、ありがと…え~と、ボクの名前聞いてなかったね」
「たぁくんって呼んでね」
「…たぁくん」
「うん。じゃあ、ボク、そろそろ帰るね。おかあさんが心配してるから」
「う…ん」
こたつから勢いよく立ち上がったその子は、脱いだ帽子とコートを羽織り、足早に玄関に走っていく。
俺は追いかけながら「そこまで送って行こうか」と。声を掛けた。
「大丈夫。来た道はちゃんと覚えているから」
慣れた手つきでブーツを履き、立ち上がるとくるりと俺の方を向き「啓くん、プリンおいしかったよ」と、笑った。
「クリームブリュレだよ」
「そうだったね、クリームブ…りゅれ、ふふ…」と、恥ずかしそうに笑う。
「じゃあ、ばいばい。啓くん」
玄関の戸を開け、手を振るその子に俺は聞いた。
「ねえ、たぁくん…君は、しあわせかい?」
その子は少し驚いた顔をして、そして屈託ない笑顔を見せた。
「うん、とってもしあわせだよ。だから心配しないで、ね」
「…」
「ばいばい、啓くん。紫乃って人とずっとなかよくね」
「ありがとう…ばいばい」
アパートの外廊下を走り、階段を降りる姿を見送り、俺はすぐさま携帯から母親へ電話をする。
『あら、啓介。珍しい。どうしたの?』
「母さん、驚かないで聞いてくれ。今ね…俺、公孝兄さんに会ったよ」
『…』
「確か…今日が命日だったよね」
『…そうよ。今日が23回忌だったの』
やっぱり…そうだったのか…
「…兄さん、俺のことが心配で来たのかな」
『そうね、啓介のことは、啓くん啓くんってそりゃあこちらが引くぐらいに、ものすごく可愛がっていたから』
「小さい頃、俺がしていた赤い毛糸の帽子、母さんが兄さんに編んであげたんでしょ?」
『…うん…たぁくんに。いつも忙しくしてて、あなたのことも公孝と小緒里にまかせっきりで…』
小緒里姉さんと公孝兄さんは二卵性双生児だった。
六歳の時、バイクに跳ねられ、公孝兄さんは亡くなっていた。
俺はまだ二歳だったから、兄さんのことはほとんど覚えていない。
仏壇に飾られた小さな写真の兄さんしか…
『今もね、あの子がプリンが好きだったから、仏様にお供えしていたのよ』
「そう…でもね、母さん。兄さんは俺んちのプリンを食べて行ってくれたよ。おいしそうにさ。でもおかあさんの作ったプリンが一番美味しいってさ」
『…』
しばらくの沈黙の後、電話の向こうで、母の嗚咽が聞こえた。
「ねえ、母さん。兄さんね、向こうで幸せだから、心配するなって、笑っていたよ」
そして俺は公孝兄さんと話した一部始終を、詳しく母親に話し聞かせた。
勿論、紫乃の事も。
俺も幸せになるよ。
兄さんを心配させないように。
しっかりと自分の道を歩いていくからね。