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本能

作者: 文屋カノン

第91回オール読物新人賞落選作を加筆訂正しました。

「原発が爆発したからよ」

 と仁川(にかわ)ひばりは言った。武藤巡(むとうめぐる)の話では三十六歳ということだったが、頬からあごにかけて入った線が、彼女を年齢以上に老けさせている。

「まあ放射能とかこの先の日本とか、怖いですものねえ」

 と湯川(ゆかわ)双葉(ふたば)は応じた。東日本大震災によって福島原発が爆発したのは先月のことだ。そうすると三十六歳のひばりが、結婚していながら子供を産まない理由として、原発を挙げるのはいささか遅すぎる気がした。

 しかし双葉はそれには触れず、まずひばりに共感してみせた。武藤に頼まれ三十四年生きて初めての取材というやつを行なう羽目になったが、人の意見を聞きたい時は、まず共感してみせることだと、双葉は経験から学んでいる。

 ところがひばりは、きっとまなじりを正すと

「違うの。わたしは小学生の頃から、いつかきっとこんな事故、ううんもしかしたらもっと酷い事故が起きるんじゃないかと思ってたの」

 とカフェのテーブル越しに座る双葉を注視した。ひばりの白目の勝った目に、双葉はぞくりとした。知的でありながらいや知的だからこそ、突き放したような冷たさを感じさせる目だ。

「とっくに思ってたのに、この間やっと爆発した原発のせいで、種子保存の本能に逆らいたくなったんですか」

「この間の爆発に自分の心の象徴を見たの。小学生の頃から反対してたのに、周囲は誰も耳を貸してくれなかった。わたしは自分が間違ってるのかと思って、ことあるごとに原発推進派と反対派の意見に目を通してた。何度そういったものを読んでも、わたしには推進派の主張が納得できなかった。そうこうしてたらこの惨事。馬鹿馬鹿しくなってしまって子供など産むものかと思った」

 後半のセリフの滑りがいい。日頃から何度も、そのセリフを吐き出していることがうかがえる。

「原発だけじゃないんですね」

 と双葉は促した。ひばりとは対照的に黒目の勝った目に力がこもる。

「だけじゃないわ。圧倒的勝利を収めさせるべきじゃない政党に投票しては、支持率の下落と共に政府を非難する国民。いずれこけるマスコミの寵児に肩入れして、うっかり株まで買って自殺する人。そういった人間が多数を占める世の中が嫌。愚か者ばかりが住む世界に子供を産みたくない。それどころかわたし自身が、この世に耐えられなくて自殺したいくらい」

「ひばりさんみたいに先見の明がある人が亡くなったら、世の損失じゃないですか」

「わたしには肩書きが無いんだもの。何かに気付いて発信したって、誰も本気で聞いてくれない。坑道のカナリアの役をしたくても無理なのよ。そうすると勘のいいわたしはいずれ起こる世のトラブルを一人で予知して震えて暮らさなきゃならないの。うんざりよ」

 吐き捨てるように言った後、まずそうな顔でひばりはコーヒーをすすった。

 この人はおそらく、自分の賢さが重荷なのだろうと双葉は考えた。知性など少なければ少ないほど人は本能の赴くままに行動できるからだ。才は才に滅ぶの典型だろう。

 しかししょっぱなから原発とは。この意見は、果たして武藤を喜ばせるものなのだろうか。それとも気落ちさせるものなのだろうか。双葉は先日の武藤とのやりとりを想起し始めた。






 小学生時代の同級生である武藤と双葉が再会したのは、先月末に開かれた、同窓会でのことだった。世は自粛ムードだったが、同窓会の出席者たちは誰も中止にしようとは言わなかった。彼らはもう三十四~三十五歳だったから、天災が起こる度に集まりを自粛していては自らの首を絞めることを理解していた。また何よりこの地方は、自営業者が多かった。

 同窓会に向かう双葉の足は少し重かった。まだ子供がいなかったからだ。結婚は二十八で済ませてあったし夫は誰もが知っている企業に勤めている。また今時、三十四で子供がいなくても珍しくはない。高齢出産が三十五と言われる時代に於いて、最後の可能性を持った年代だ。けれど双葉は憂鬱だった。無職の身の上が恥ずかしかったからだ。

 子供がいるのなら、専業主婦でも言い訳ができると思う。また夫が資産家なら専業主婦でもサマになる。だが節約にいそしみながら、専業主婦をする子無し女は拠り所が無い気がした。それでいて同窓会を欠席することは思いもしなかった。双葉は地元で結婚し地元で暮らしているからだ。同窓会だけとんずらしても同級生との付き合いはある。むしろ自分のいない場で噂されるのが嫌だった。

 せっかくの同窓会で、普段付き合いのある者たちと交流しても仕方が無い。双葉は率先して懐かしい面子の席を回り近況を尋ねた。自分のことを話したくなければ、相手のことを話すしかない。すると武藤に捕まった。武藤は自分のことをしゃべりたくて仕方が無かったからだ。

 フリーのライターになるつもりだと、武藤は意気揚々と語った。あの頃は愛らしかったどんぐり眼が濁っていたのは、空になっていたビールジョッキのせいか。

 フリーの、ということは、現在は出版社に勤務してフリーを目指しているのかと双葉は思ったがそうではなかった。武藤は職を転々としていたが出版に関わる仕事は、一瞬たりともしたことが無かった。

「だから俺は今度はライターになろうって思ったって訳。今まで失敗した仕事は、俺に合ってなかったから駄目だった訳だからさ」

「なるほどね」

 実は全く納得していなかったのだが、双葉は感心してみせた。武藤が何にチャレンジしようと知ったことではなかったからだ。

「そうだ。布村(ぬのむら)。お前俺の下請けやらねえ?」

 今思いついたといった様子で武藤は提案した。二人の通っていた小学校は、児童たちの口が悪いことが伝統だった。とはいえ二十二年経っても尚、こちらを見下した口調でこられるとは。気分を害しながら一方で双葉は懐かしさを覚え「下請けって?」と尋ねた。旧姓で呼ばれるのは久し振りだった。

「今あっためてる案件あるんだけどさ、それの取材やらねえ?」

「何の?」

「子供産まねえ女の、聞き取り調査」

 双葉はしばし黙り込んだ。自分が不妊治療に通っていることを、小耳に挟んだのだろうかと訝った。挟んでいたとしたらなぜそのような話を持ってくるのだろうか。嫌がらせか。

「どうして、あたしに?」

「若い女にやらせられないだろ。これからいくらでも孕みますって女が取材に行って、話取って来れるかっての」

「じゃあ、自分でやればいいじゃない」

「男だったら尚更、腹割ってもらえないだろうが」

 だったらそんな企画はやめてしまえばいいと双葉は思った。そういった企画は、例えばどこかの編集部に勤めている人間が、提案すべきものであって、これからライターをやろうという人間が、手を出すジャンルではない気がした。初仕事は人に取材させるのではなく自分の靴の裏を減らすべきだろう。

 しかしそんなことを出版に携わったこともない双葉が言っても説得力が無い。そこで

「もう若くない、子供もいないあたしならうってつけって訳ね」

 と皮肉を言った。ところが武藤は

「その通り」

 とまるでわが意を得たりといった様子で、人差し指を双葉の眼前に突き出した。

 いちいちやることが目障りな男だ。そろそろこの場を辞そうと思い双葉は

「でもあたしなんか、そんな仕事無理だよ」

 と謙遜した。いや真実、双葉はそのような仕事が自分に務まるとは思っていなかった。

 すると武藤は

「最初はネタ元提供するぜ。布村は話聞いて内容をまとめてくれればいい。一人につき五千円出す」

 と提示した。双葉は少し心が揺れた。そもそも双葉が無職なのは不妊治療をしているからだ。病院へ定期的に通うことを優先する身としては、時間的に都合のいい仕事が条件になるが、買い手市場の今そんな都合のいい仕事は無い。それなのに不妊治療には金がかかる。

 この聞き取り調査は、ひょっとしたら割のいいバイトになるかも知れないと、双葉が考え始めた時、武藤はすかさず

「もし布村がネタ元確保した場合は、七千円にアップするし」

 と餌をちらつかせた。

 酔っ払いの戯言ではないのか。用心しながら双葉は

「財源、ある訳?」

 と尋ねた。もう長いことマスコミが財源、財源と言うために何だか言葉がうつってしまった。

「親の遺産あるし」

「ご両親、亡くなったの?」

 切なげに眉をひそめてみたが、双葉には武藤の両親を悼む気持ちは無かった。彼らに会ったことがなかったからだ。それより肝心なことを思い出した。武藤の両親は土地持ちだったのだ。武藤は両親の遺産を使って新たな仕事をしようとしている。

 武藤の左手薬指に指輪は無かったが、はめない男は珍しくない。

「奥さんは、承知してるの」

 と双葉は念のため尋ねてみた。

「承知も何も、俺の財産だし」

 後から妻にやいのやいの言われなければよいがと、双葉は少し気にかけた。それは今にして思えば、虫の知らせというやつだったかも知れない。






「武藤第一ビル」の名称を確認して、双葉はドアを開けた。三階建てのこじんまりしたビルだが、武藤の持ちビルはこれだけではない。テナント収入だけで充分食べていけそうな気がするが、武藤は何も道楽をしようというのではない。仕事をしようというのだから文句をつける理由は無かった。ただ経験も無いのに突然フリーライターを志し、何一つ自分では書かない内に双葉を下請けにしている辺りは、道楽のような気がしないでもない。

 階段を上り双葉は指定された二階に上がった。どうやらワンフロアに一つずつしか、部屋は無いらしい。

 ノックをしたが返事は無かった。ドアノブを押してみると扉が開く。同時に武藤のちゃらけた声が届いた。

「じゃあさあ、お前の知り合いで子供のいない女いねえ?」

 どうやらネタ元を探しているらしい。同窓会の翌日に電話を寄越した時は、とりあえずということで仁川ひばり一人を紹介されたが、あれから他のネタ元はできたのだろうか。だがそれは、今日の取材の成果を報告してからの話だ。双葉の取材が武藤の気に染まなければ切られてしまうだろう。

 電話が終わるのを待っている間、その部屋に設置されたスチール机やら、社長が座るのではないかというような立派な椅子などを、双葉は眺めていたかった。しかしあからさまにジロジロ見るのもはばかられ、双葉は窓の外に目をやった。目前の国道には車がびゅんびゅん走っている。駅にも近いし立地としては申し分無い。

 しかしライターの卵という立場の人間に、立地のいいビルの一室が必要なのか、双葉にはよく分からなかった。武藤の両親は大層大きな家を息子に残した。ならばその中の一室を書斎にすればいい気がした。別にこのビルは武藤の持ち物だから、彼の好きにすればいい。ただ武藤が使わなければテナント料が取れるのだから惜しい。

 おそらく武藤は、ライターを目指す自分のために、自宅とは別の仕事部屋が欲しいのだろう。形から入るタイプなのだろう。それが悪いとは言わないが武藤は金があることが災いして、今までも仕事を変える度に親の身代を潰していたのではないかという気がした。

「よう悪かったな。それで仁川ひばりどうだった?」

 電話を切った武藤は、簡易応接セットに座るよう双葉に促した。席を勧めてくれるのはありがたいが、取材元を呼び捨てにする武藤が不快だった。そもそも日本は少子化が進んでいるとはいえ、結婚しているのに子供をつくらない女は少ない。少子化の原因は結婚しない男女が増えたためだと言われている。

 そんな中で、結婚しているのに子供をつくらない女を捜すなど至難の業だろう。それなのにせっかくの取材元を軽んじるのは、どうかと思われる。とはいえ今は取材の報告のために武藤に呼ばれたのだ。そんな時に提言をするのはいかがなものかと思われる。

 革張りのソファーに身を沈めながら、双葉は

「世の中馬鹿ばっかだから、こんな世の中に子供産みたくないって」

 とかなり省略して答えた。

「ほざきやがって」

「ご回答は、お気に召した?」

「ああ、どうせ子供産めるのに産まねえ女なんて馬鹿女だと思ってたからな」

 どうやら武藤は、産まない女を否定する趣旨で原稿をまとめたいらしい。

「じゃあ今後も、あたしに取材やらせてくれるの?」

「ああ頼むよ。布村はさあ子供の頃から国語が得意だったよな。期待してるぜ」

 そんな昔のことを覚えていてくれたのかと、双葉は嬉しくなった。






 次のネタ元の星合(ほしあい)まゆらに、双葉は仁川ひばりの話をした。まゆらはまだ二十九歳だったため具体的な話を振って反応を見たかったからだ。これくらいの歳の女は、「子供などいらない」と言いながら、数年後にはあっさり出産しているケースが珍しくない。どうせ取材をするのなら、双葉は相手の本音が知りたかった。

「放射能が怖くて生めないって言うんなら、気持ち分かりますけどね」

 と言ってまゆらは、オーガニックの紅茶を飲んだ。このカフェはオーガニック商品だけを提供するということで、ここを選んだのはまゆらの希望だ。もっともオーガニックと有機農法は別ものだし、世には低農薬というものもあるが、まゆらがそれらを完全に理解した上で、オーガニックを選んだのかどうか双葉は知らない。

「放射能に汚染された物を、子供に摂取させるのは抵抗ありますし、自分自身が食べるのも怖いですね。もちろんより安全な物を子供にあげたいですけど、わたしだって子育てしなきゃいけない訳だから、発がん性のある物を気楽に食べる訳にいかないんですよ。わたしまだ二十代だから、がんになったらあっという間だろうし。子供を残して死ねないですしね」

 淡々と語る。口では怖いと言いながら怖さを超越しているようだ。

「じゃあまゆらさんも福島以来、子供を産みたくなくなったって訳?」

双葉の問いかけにまゆらは「いいえ」とあどけない笑顔を浮かべた。「とっくです」

「とっく?」オウム返しをする双葉の脳裏に、原爆二世、三世といった単語が浮かぶ。それともチェルノブイリの被爆者やその子供。

「短大時代に、何かの講義を受けてる時に……」

 まゆらの唇は全く違う答えを放った。双葉はその若々しい唇を見詰めた。

「教授が言ったんですよ。講義とは無関係な与太話だったんですけどね。『確率上、百人に一人は障害児を産む』って。その時、百二十人が講義を受けてたんですよ。それで、そうか。ここにいる学生の一人か二人は障害児を産むのかって、やけにリアルに感じたんですよね」

「障害児を産むのが怖いから、出産をしたくないの?」

「そうです。よく自分の子の障害を知ってから、『どうして自分の子が』ってパニックになる人いるじゃないですか。わたしは自分の子が障害児になる確率を踏まえたから、産む選択を放棄することにしたんです」

 それにしても百分の一の確率ではないかという言葉と、障害児を受け入れられないのかという問いが同時に双葉の頭をよぎった。迷った末、双葉は前者を口にした。

「百分の一の確率って少ないですか。だとしたら自分の車が事故る確率って、どれくらいなんですか。どうして運転者には任意保険に入ることが勧められるんでしょう。海外旅行に行く際に、治安がよくても保険に入るのはどうしてですか」

 まゆらの問いに双葉は黙り込んだ。確率の問題ではないのだ。起こってしまっては困る事柄に人は保険をかけたがる

 店を出た双葉は武藤に連絡しなければと思いつつ、ケイタイに手が伸びなかった。障害児を産むのが嫌だから出産をしないらしいと伝えれば、武藤は「馬鹿女め」と、さぞ喜ぶだろう。クライアントの機嫌がよくなるのを分かっていながら、なぜ自分の心に澱のようなものがへばりついているのか、双葉には分からなかった。






「つまりその、まゆらちゃんて人は、障害児が生まれた場合の保険がかかってないんでしょ」

 と萩田(はぎた)()()はつぶやいた。美緒は双葉が初めて開拓した取材元だ。何せ友人なので話は早かった。美緒は双葉と同じ三十四歳の既婚者で子供を産む気が無い。

「保険? 障害児が生まれた場合の保険って?」

「色々あるじゃん。自分の健康、両親や親戚の手助けのあて。資産」

「そういえば体が弱いって」

 障害児を受け入れられないのかと、内心でまゆらを責めていた自分を双葉は恥じた。全ての女が同じスタートラインに立てない以上、誰しもが、苦労を負う根性を持てる訳ではない。

「差別が無知から生まれるのは常識でしょ? 彼女が無知ゆえに、障害者を差別してるんなら、そもそも障害のある子が生まれる可能性なんて頓着しないと思うよ。百分の一の可能性にそこまで想像力を持てるんだから、優しい人なんでしょ。別に出産する人が優しくないとは言わないけどさ」

「そういえば優しさは想像力だって言うもんね。あたしは今回、まゆらちゃんに対する想像力を欠いてた気がする」

「じゃあその想像力で、わたしが子供を産まない理由を当てられる?」

 双葉は今までの会話を回想した。美緒は保険としてまず自分の健康を挙げた。それに美緒は確かに、双葉の知り合いの中で最も体が弱い。あまりにも多くの持病を抱えているので病名を覚えられないくらいだ。

 同情しつつ双葉は

「健康に自信が無いから?」

 と尋ねた。しょっちゅう寝込むため、家の中がしじゅう散らかっている美緒の狭い団地では赤ん坊がはいはいをする場所も無い。

「正解。不妊症ではないけどこんなに体力が無くちゃ、障害児も健常児も育てる自信が無い。無料のベビーシッターや家政婦さんでもいれば別だけどね」

「……もし健康になれたら、子供を産みたい?」

「不健康の辛さを知ってるから産まないね。この歳まで体が弱かった人間が、奇跡的に健康になったとしても、高齢出産で体を壊しかねないし。健康になれたら養子をもらいたいな」

 血管が透けそうな白い顔で美緒は夢を語った。血がつながってなくてもいいのかと、双葉は驚いた。しかしよく考えてみれば、どうして血がつながっていなければならないのか双葉はよく分からなかった。






 武藤のケイタイに連絡しまゆらと美緒の話をすると、彼は

「障害児を生むのが嫌だとか健康に自信が無いとか、ワガママな女たちだよなあ」

 と平凡な声で批判した。双葉は「そう?」と問い返した。

「ワガママだろ。愛がねえよ。障害があるなら受け入れられないなんて」

「あたしも最初はそう思ったんだけど、その後で美緒と話したら考えが変わって。まゆらちゃんは体が弱いから、障害児が生まれることが不安なんだと思うの。まゆらちゃんは障害は無いけど、でも体が弱いからこそ、健康じゃない人の大変さとかを普通の人より知ってる訳でしょ? そうすると自分の子供が、もしかしたらそういう苦労をするかも知れないって不安は健康な人より持ち易いと思うの」

「障害のある子供抱えて頑張ってる親なんかたくさんいるのに、随分逃げ腰な話だな」

 障害児を産んでしまった母親は、自分の責任だと思い、罪悪感に駆られるケースが多いという。そんな事態になりたくないから、子供を産んだことを後悔したくないから出産を望まないまゆらが、なぜ罵倒されるのか双葉には分からない。もうこれ以上言っても無駄だと悟った。

そこで双葉は

「あのさああたしに依頼してる原稿は、どうゆう論調で書けばいい訳?」

と話を変えた。

ひばりの取材をした時に

「子供を産めるのに産まないなんて馬鹿」

 と言っていたくらいだから、彼女たちがどんなコメントをしても、武藤は馬鹿女として紹介するのだろうことは分かっていた。しかし双葉は今、それをはっきり確認したくなった。

 だが武藤は

「とにかくこれまでの三人分の原稿メールで送れよ。それ見て赤入れるからさ」

 とミステリアスを演出した。

「直し要求もあるってこと?」

「場合によってはな」

「やだ。それで五千円じゃ割に合わない」

 最初に思ったより手軽な仕事ではなかったことを、双葉は実感し始めていた。そういえばこの仕事を始めて夫の靖史(やすし)にも言われたのだが、所得税はどうしたらいいのだろう。それは武藤に聞くべきなのだろうが双葉はその気になれなかった。武藤となるべく、話をしたくなかったからだ。武藤の仕事を受け関わり始め、双葉はお互いの相性が悪いことを感じ始めていた。

 しかしこの仕事を辞めようとは思わなかった。会社勤めをしていた頃、上司に言われた言葉を記憶していたからだ。

「人間関係が理由で会社を辞める奴は、また同じ理由で会社を辞めるケースが多い。だからそれを理由に転職するのはよせ」

 その教訓には実は

「コロコロ転職すると、ボーナスで損をするからな」

 という続きがあった。だが双葉はそれを忘れていた。「人間関係が理由で会社を辞める奴は、また同じ理由で会社を辞めるケースが多い」というセリフが印象的で、洗脳されたからだ。

実績の無い自分のために、親の遺産を使って仕事用の事務所を作ってみたり、ネタ元を探してみたりといったことには熱心な武藤。それでいて自分では、何の取材もしないライター志望。そんな男となどさっさと関係を絶った方が賢明な気がするが、結局双葉は新しいネタ元の取材を命じられ、今までの三人を取材した原稿を、メールで送る約束をさせられた。






「両親や親戚の手助けのあてが無くて、出産に踏み切れないって気持ちは分かりますよ」

 と持田(もちだ)()有里(あり)は言った。芽有里は三十五歳の子無し既婚者という触れ込みだ。

「だってわたしの周りで実家の助け無しで子育てしてる人、一人もいないんですもん。世の中には、実家の助け無しで子育てしてる人もいることは分かってますけど、身近にいないと怖いんですよね。ほら虐待とかって、周囲に相談できる人がいなくて子育てに追い詰められた人がしちゃうっていうじゃないですか。だから最近は、子供を社会で育てようって風潮になってますけど、ネットに『子供は社会が育てるんじゃない。親が育てるんだ』みたいに、親の責任を促すカキコミとかあって賛同者も多かったりすると、すっかりやる気が無くなるっていうか。いや別に親になるからには責任持って育てるつもりですよ。でも世の中の多くの人が、助けを求める人を拒絶して、そしてそういうカキコミした人に限って、実は親きょうだいに子育て手伝ってもらっていながら、自分だけで育ててるような顔してる訳ですよ。そういうの考えると面倒臭いなあって」

 三十一歳だというのに童顔で、こんな人から、まともな取材ができるのかと訝っていた双葉だったがとりあえずは安心した。これだけ饒舌なら、とりあえず原稿に書けることはいくらでもある。とはいえ原稿に載せる文章は、どうせなら選び抜かれたものにしたいと思い双葉は

「面倒臭いっていうのは?」

 と尋ねた。

「『子供は社会が育てるんじゃない。親が育てるんだ』とか、正論ぶってカキコミする人に賛同者が多ければ、世間が育児をしてる人に優しくなくなる可能性がありますよね。別に子供手当てとかお金の問題じゃないですよ。助け合いのことを言ってるんです。それでもめげずに、死んだ両親にも入院中の姑にも頼らず子供産んだとしますよ。その場合うちは夫が忙しいから、わたし一人で全てをやらなきゃいけないんですよ。それで思い詰めてもし虐待まがいのことをしちゃったら、また世間に叩かれる訳ですよね。そしたら馬鹿馬鹿しくて産みたくなくなりますよ」

「芽有里さんは、随分世間を意識してるのね」

 最初に取材をした仁川ひばりと似たところがあると思った。世間は馬鹿ばっかだから、こんな世の中に子供を産みたくないと、ひばりは言っていた。芽有里はそこまでは思っていないが、世間に腹を立てている点では変わらないようだ。

「そりゃあそうですよ。少子化問題って世の中の問題じゃないですか。これから高齢化社会になる日本を、若い世代に支えてもらわなきゃいけないのに、若者予備軍が圧倒的に少ないから少子化の解消が叫ばれてる訳ですよね。だから国民が出産することは、最早義務的なものになりつつあると思うんです。それなのに助けてくれる身内がいない人に、何がしかの補助を出すとかせずに、どの子育て家庭も一律の給付金が出され、それに逆上した国民の中には、『子供は親が育てろ』とか言い出す人がいて、何かやんなっちゃいましたよ。これだけ嫌な思いをさせられて国のために子供を産むなんて冗談じゃないですね。助けてくれる人もいないのに、何でそんな苦労をしなきゃいけないんだか」

 芽有里にとって出産は本能ではなく義務なのか。それは今の時代、仕方の無いことなのか。何やら考えさせられながら双葉はふと

「子供は好き?」

 と尋ねた。

「好きです。だから産みたくないんです。もし虐待とかしてしまったら困るから」

 そう答える芽有里の陰りのある目に、双葉は心臓を掴まれたような心地がした。

 





「武藤第一ビル」の一室で武藤と双葉は対峙していた。双葉の書いた原稿が、武藤の気に入らなかったのだ。

「何で、産まない女の側に立って書くんだよ」

 と青筋を立てる武藤に、双葉は

「何で、産まない女の側に立って書いちゃいけないのよ」

 と返した。

 武藤のことはクライアントでもあり上司でもあると、双葉は考えていた。だから意向を尊重するつもりだった。同時に、不妊治療まで受けながら子供を授かろうとしていた身としては、産めるのに産まない女への反発もあった。ところが産まない選択をした女たちを取材したところ、双葉は彼女たちを説得できる材料が無いことに気付いた。

 とはいえ別に、世の中に子供を産むべきではないと発信したくなった訳ではない。子供を産むことが人の幸せだという考え自体も変わっていない。それは人間には、種子保存の本能があるからだ。生物として本能に従った方が幸せなのは当然だ。人が本能に逆らいたくなった時、そこには大いなる理由が存在する。自殺志願者が決して幸せではないのと同様に。

 双葉はそこに光を当てたかった。本能に逆らわせる理由に光を当てたかった。誰かの協力によりその理由を何とかできるのなら何とかしたい。その流れを作ることこそが、産まない女を取材した自分の使命だと思えた。少なくとも所得税のことを、相談する気を起こさせない武藤の思惑に乗ることよりも、人間として遥かに重要な任務に思えた。

笑ってはいけない。納税は日本人にとって重大な義務だ。その義務にまつわる話題を口に上らせる気を失せさせるほど、相性の悪い相手の思惑を考慮するなど、双葉にとっては億劫なことだった。

いきり立つ双葉を前に、武藤は軽く肩をすくめてみせた。何を欧米人みたいなジェスチャーをしていやがる。双葉が沸騰していると、武藤は「なあ」といきなり双葉の肩を抱いた。

「何すんのよ」

 双葉が手を振りほどこうとすると、武藤は

「興奮すんなよ。大事な話してんだからさ」

 とたしなめた。そう言われてしまうと自分が過剰な反応をしているようで、双葉はおとなしくなった。

「お前さ、今がどんな時か分かってる?」

 武藤のだらしない声が、左耳を浸食する。利き手の逆側から責めてくる武藤の腐ったような賢さに双葉は感心しながら

「どんな時って、どういう意味よ」

 と言葉を投げた。その声はとげとげしさの中に甘さを含んでいた。

「『戦前・戦後』っていう言葉と概念があるように、『震災前・震災後』って言葉と概念も、生まれるんじゃねえかと思わねえ?」

「生まれるかもね」

 答えながら双葉は気が気ではなかった。自分の肩を抱く武藤の手が、よからぬ動きをするのではと心配になる。そしてそんな不安を抱く自分を自意識過剰ではないかと恐れる。自分はもう若くはない。高齢出産にリーチのかかった三十四歳だ。だから武藤も自分にこの仕事を任せたいと言ってきたのではなかったか。

「戦後ってがらっと価値観が変わった時代だったろ? 今も大衆は、変わり得る時に来てんだよ。何らかの強いメッセージを欲してんだよ。震災でいっぱい人が死んだ今産んで増やすことは善なんだよ。大衆の価値観に寄り添えよ。空気読めよ。震災の復興に税金が投入されなきゃいけない今は、出産適齢期の女は、誰に助けられなくても自主的に産んでくれなきゃ困るんだよ。大衆の要望を汲み取ってそれをメッセージにすりゃうけるんだよ」

「つまりあなたは、自分が伝えたいことや問題提起したいことがあるから、ライターになりたい訳じゃなくて、ただ単に大衆の共感を得たいだけ?」

 武藤の体を引き離すチャンスだとばかりに身をよじったのに、びくともしない。どうしてここまで強い力で自分を抱いているのだろう。双葉は混乱した。

「お前、自分の善悪の価値観で人間が世に出れると思ってんの? 自分の意見なんてどうでもいいんだよ。それより今大衆がムカついてることに注目しろよ。震災だ原発だそれによる不況だで、みんなむかっ腹立ってんだよ。政府や東京電力を槍玉に上げてるだけじゃ足りねえんだよ。みんな頭の片隅で分かってんだよ。今の政府を選んだのも自分たちで、原発についてだって、今まで真面目に考えたことが無かったってな。だから奴らを責める資格がねえことを分かってるんだよ。でも一連の騒動が腹に据えかねる。だから誰かを攻撃したいんだよ。産んで増やす本能に逆らってる女なんて格好の相手じゃねえか。ガス抜きしてやろうぜ」

 つまり武藤は、大衆の怒りの矛先を、産まない選択をした女たちに向けようというのかと双葉はぞっとした。

仁川ひばりが頭の中を駆け抜けた。小学生の頃から原発に反対していた女が、小学生だからと周囲に聞く耳を持ってもらえず、そして今、原発に関心を持たなかった社会の八つ当たりの道具にされようとしている。いや原発に反対していなかったからといって、例えばまゆらや美緒や芽有里が、そういった角度で槍玉に挙げられていいのか。

 ここまで善悪にまつわる価値観が違う相手とは、まともにやり合っても無駄だと、双葉は思った。そこで

「あなたはそもそも今回の原稿をどうする気なの? どこかに持ち込むの?」

 と話をずらした。

「まあまずは、持ち込みだよな」

「大衆はもしかしたら、あなたに乗せられるかも知れないけど、その持ち込んだ出版社の人間はどう思うのよ。彼らが気に入らなきゃ今回の原稿は世に出ない。あなたの言う大衆の目に触れるきっかけが持てないのよ」

 自分の発言を聞きながら双葉はハッとした。大衆はもしかしたら、武藤に乗せられるかも知れないと自分が考えたことに気付いたからだ。仁川ひばりの、白目の勝った目元がちらつく。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ産みたくないという気持ちが分かった気がした。

「売れると思われれば気に入られるに決まってんだろうが。出版不況なんだぜ。奴らも商売なんだ。倫理観なんて二の次さ」

 武藤の指先が双葉の肩をかすかになぞった。付き合い始めの頃に男がよくする仕草だ。特に官能的でもない場所を指がなぞる。セックスを連想させる場所ではないからと、二人きりではない場所で、男が撫でる行為。恋人に触れられることは大抵の女にとって純粋に心地好い。だからつい身を任せている内にその男に触れられることに慣れる。そして案外易々とベッドまで運ばれる。こんなに早く許すつもりではなかったのにと思いながら。

 まずいことになったと双葉は思った。武藤の案を嫌悪しつつも、本当に武藤の扇動に大衆が影響されるのか見たくなったからだ。武藤を嫌悪しつつも、扇情的な気分になったからだ。そんな自分が厭わしくなっていると武藤が

「つーことで、書き直し頼むわ」

 と双葉から手を離した。

 つい先ほどまでは逃れたくてたまらなかった武藤の骨太な体が、変に恋しい。言うことを聞いてしまいそうだ。

「あたしの原稿が気に入らないんなら、武藤くんが書き直せばいいじゃない」

 かろうじて双葉は搾り出した。それでも「あなた」という呼称が、「武藤くん」に変わっていた。双葉は相手に怒りを覚えている時は、相手の名前を舌に乗せるのを忌々しく感じるタイプだ。

「ああ俺、文章って書けないんだよ」

「は?」

「だからお前雇ったの。やっぱお前って文章上手いわ」

 文章が書けないのに、ライターを目指すと臆面も無く言い放った。そして先ほどはあのような野望をとうとうと語ってみせた。それが武藤という男なのだ。

 何やら対話が虚しくなり双葉はビルを出た。武藤は追って来なかったし、ケイタイも鳴らさなかった。何を考えているのか分からない。文章が書けないのなら双葉が必要なはずだ。とはいえ代わりの人間などいくらでもいるような気もした。いっそ代わりの人間を探して欲しかった。先ほど感じた劣情の渦が双葉の体内に巣くっていたからだ。

 靖史以外の男、それも武藤のような大言壮語を吐き散らすような男に、うっかり欲望を抱いている事実が疎ましかった。双葉は帰宅する足を速めた。靖史に抱かれなければならなかった。

 自宅に帰ると、双葉は風呂を沸かし美味しい夕飯を用意した。震災で仕事の減った靖史は六時前に帰って来たが、寝室に行く前に求めるのははしたないことに思えた。自分をせっつく情欲に素知らぬ顔をしながら、双葉は靖史と食卓を囲み食器を洗った。

 先に寝室へ入り、布団を敷いていた靖史の大きな背中に抱きつきながら、双葉は「しよう」とささやいた。靖史は

「何、今って排卵前だっけ」

 と大真面目に尋ねた。

 妊娠し易い時期でなければ夫婦の営みを求めてはおかしいか。女として妻として、双葉は大変な辱めを受けた気がした。枕を壁に投げつけたくなり双葉は端を握った。中に詰められた無機質な何かが不似合いな音を立てる。乱暴なことをしたら、かえって惨めになる気がした。

「やっぱり、いい」

 と双葉は黙々と布団を敷いた。素直な靖史はならばやっぱりいいのだろうと考え、格別フォローもせずに布団敷きを手伝った。






「それで双葉は、どう思ったの」

 とまるで道徳の授業のように萩田美緒は尋ねた。しかしここは教室ではない。美緒の住む団地だ。ついでに言うなら狭く掃除の行き届いていない団地だ。

大量の郵便物が積まれたキッチンのテーブルを挟んで座っていた双葉は

「武藤くんと、ヤりたい」

 と黒目の勝った目を伏せた。

そして

「最低だよね。あたし。武藤くんの企みを聞いたんだからそれを阻止するにはどうしたらいいか考えるとか、せめて武藤くんの企みに憤慨するとかすればいいのに。……いやもちろん憤慨はしてるんだよ。だけどそれ以上に武藤くんに肉欲を感じてしまって、それが今のあたしにとっての最重要課題なの」

 と打ち明けた。

 こんなことを暴露するのは、双葉が美緒を信頼しているからだ。この病弱でやせた掃除の苦手な女友達は、ある意味ではあらゆることを受け入れる。

「別にいいんじゃないの。産まない女を悪者にしたって」

 と美緒は白く透き通った顔で微笑んだ。双葉は顔を上げた。

「わたしたちの本名が出る訳じゃなし、取材した側がどういう意図で作成しようと、誰かは必ず悪意を持つもんよ」

「でも大衆は、ジャーナリズムに乗せられるものでしょ」

「その原稿が世に出て、産まない選択をした女が責められるようになったら、別にわたしたちは、意志を持って産まない訳じゃなく、妊娠できないんですって顔してればいいだけだから構わないよ。てゆうかわざとじゃなくても産まなければ、風当たりが強いのは震災前からの現象だしね。今更だよ」

 風当たりかと双葉は考えた。双葉も姑からの孫の催促に辟易している。

「でも元々風当たりが強いものが、ますます強くなったら可哀想じゃない」

「仕方ないんじゃない? 日本に住んでる大抵の人にとって、日本は復興しなきゃ困るんだし復興には若い力が必要なんだから。子供が多い国っていうのは活気があるしね。武藤くんの出した物によって産む人が増えたら、むしろいいことじゃん」

「でも武藤くんみたいな人に、種付けされたいって思っちゃってるあたしはどうなのよ」

 まるで他人事のように双葉は憤った。

「好きになったの?」

 と美緒は尋ねた。美緒は武藤の中学生時代の同級生だ。

「いや嫌い。あたしはただ武藤くんの厚顔無恥な遺伝子が欲しいんだと思う。あたしは臆病者だからバランス取りたい」

「本当に武藤くんから、遺伝子もらう勇気ある?」

「いや理性で、まずいだろうと思ってる」

 どういう訳でこんなにも頭と感情がバラバラなのかと、双葉は頭を抱えた。いや感情ですら一つのものではない。双葉は武藤に惚れていないのだ。

「今、惚れてなくてもその内惚れるかもよ。先走った性欲を正当化するために相手を好きになっちゃうことあるじゃん」

「そんな。困るよ」

「でも女ってそういうとこあるよ。理性も何も無くヤりたい男とヤる女じゃともかく、理性が勝つ女には理由が必要になるもん」

 確かに武藤に惚れれば問題は解決する気がした。しかし武藤に惚れたら、問題は大きくなる。双葉は靖史と別れる気が無いからだ。女心に疎い男というものは腹立ちの対象であると同時に愛しさを起こさせる場合がある。双葉は靖史を愛していた。

「どうすれば好きにならずに済むと思う? どうすれば欲望も無くせる?」

「もう、会うのやめれば?」

 無表情に提案する美緒を、双葉は悲痛な面持ちで見詰めた。背後に桶に浸かった食器が置かれたシンクが見える。こんな時に美緒以外の物を観察し始めた自分を、双葉は奇妙に思った。そして納得した。美緒の目を見るのが辛いのだ。だから無関係な物に目がいくのだ。洗われていない食器やくすんだシンクから双葉は美緒の体の弱さを思った。体が弱いから子供を諦めようと決めた心地とは、どんなものだろうかと。

 そこまで思いを馳せながら双葉は言った。

「不妊治療の費用が欲しいの」

 と。

 最低なことを言っていると、自分で分かっていた。世の中にはせっかく親のいない子がいるというのに、遺伝子にこだわる自分。そのために子を産まない女を悪者にする企画に乗っている自分。産めないという点では彼女たちと同じカテゴリーにいるというのに。そして靖史の子を産むため稼ぐという名目で始めた仕事によって、他の男の遺伝子を、欲しがり始めた自分。

 そんな自分の罪を双葉は認めたくなかった。だから続けた。

「女はやっぱり子供産まなきゃ駄目だと思う。子供を産んでいさえすれば、あたしは子育てに追われて他の男に欲情してる暇なんて無かった。子供を産んでいれば、子供を守るために操を守れると思うの。子育てのために子供の父親を確保し続けなきゃいけないって、危険を冒しちゃいけないって、無意識で思えたと思うの」

 鼻がつんと痛くなって、双葉は自分が悲しんでいることに気付いた。心で靖史を裏切ってしまったことに悲しんでいることに気付いた。

「双葉は、疲れてるんだよ」

 意外に優しい声を出した美緒を双葉は潤んだ瞳で見詰めた。雑然とした部屋がかすむ。虚弱体質で掃除が行き届かないことなど、些細なことに思える。暴言を許し尚且つ自分をいたわる美緒をたいした女だと思う。

「被災地以外の地域に住んでても、震災ショックで自殺した人もいるらしいよ。震災直後に初めての仕事をして疲れてるんだよ。とりあえずたっぷり寝たら?」

 自分の心の裏切りは疲れのせいなのかも知れないと思うと、双葉は気が楽になった。そうだ。疲れのせいなのだ。戦後最大の困難がやって来たのだから疲れるのは当然だろう。






 美緒の助言を素直に受け、双葉は前夜の内に、明日一切の家事を放棄すると靖史に宣言した。アラームをセットせずに布団に入ったのはどれくらいぶりだろう。目覚めると時計の針は午後四時を過ぎていた。自分が本当にそこまで疲れていたことに唖然としながら、双葉は布団の中でぐずぐずした。心身にまとわりつく惰眠の名残が心地好い。たまには怠惰な生活もいいと思った。先ほどまでいた眠りの世界にまだ手が届きそうだ。

 しかし脳は覚醒していた。武藤のことを思った。やはりヤりたい。こんなに眠ったのに。双葉は腹を立てた。風邪を治すために沢山寝たのに、翌朝全く治っていなかった時のように腹を立てた。ケイタイを見ても武藤からの着信もメールも無い。新たな取材元が見つからないから連絡を寄越さないのか、それとも話し合いの途中で部屋を出て行った双葉に、怒っているのかは分からない。

 どちらにしろ報酬は受け取っていないのだから、それが欲しければ、双葉から連絡しなければならない。しかし連絡をするためには原稿の書き直しをする必要がある。

 世の中は愚か者ばかりだから、こんな世の中に子を産みたくないと言った仁川ひばり。

 障害児を生むのが怖いから、出産をしたくないと言った星合まゆら。

 体が弱いから子供を産めないと言った、友人萩田美緒。

 子育てを助けてくれる親族がいないから、産みたくないと言った持田芽有里。

 突き返された原稿を再読しながら双葉はふと気付いた。スタンスの問題以前に、内容があまりにも薄いのだ。それは双葉に原因があった。一件五千円という契約だったため、取材時間はなるべく、短くした方が得だと思い、せっかく待ち合わせ場所にやって来てくれた彼女たちからろくに話を聞かなかった。

 今双葉はこの点に着目した。もしもっと深い取材をすれば、スタンスを変えなくても武藤はOKを出すかも知れない。もし出されなかったとしても、双葉自身がそれをやり直したかった。取材を始めた当初と違って産まない女たちへの反発は無い。それよりも双葉は知りたかった。産まないと決めた彼女たちの心をもっと深く知りたかった。

 二度目の取材など億劫がられるのではないかと懸念していたが、最初に連絡をとった仁川ひばりは、呆れるほど簡単に会う約束をしてくれた。それもいきなり今夜会えないかと言う。ちょうど靖史が実家へ寄って来るという話だったので双葉は二つ返事で承諾した。

 ところが指定されたのが温泉施設だったので、双葉は妙な心地になった。三十四にもなれば重力に逆らえない体になってくる。一度しか会ったことの無い相手に、肌をさらすことに抵抗があった。

だが考えてみれば、四時過ぎまで寝ていたくらいだから双葉は疲れているのだ。だとしたら温泉に浸かるのは、ひばりを満足させられる上に、自分の体も癒せるベストなプランに思えた。

 最初に二人は高温サウナに入った。高温サウナというものは、混み合っている上に女たちが無言なのが常だ。双葉はタオルを口元に当て、熱気を直接吸い込まないようにしながら傍らに座ったひばりを眺めた。ひばりの小柄な体は華奢な上に引き締まっており、早い話が顔より体の方がずっと若かった。

隣に座るひばりから若やいだ熱気や湿度が伝わってくるようで、双葉はドギマギした。 子を産まないと宣言し、世間をそしるひばりが、こんなにも初々しい姿をしていることが切なかった。

次にミストサウナに入るとそこは無人だった。ひばりと双葉は、それぞれ長椅子に体を横たえた。いくら湿気がもやになっているとはいえ、湯に隠せない裸身を露出させることになる。しかし先ほど高温サウナで熱せられたため、双葉はすっかりどうでもよくなってしまった。

ミストサウナは双葉の好みだ。まぶたを閉じて降り注ぐ潤いに浸っていると、ひばりが

「それで? 何をお話すればいいの?」

 と尋ねた。

とてもリラックスしていたので、ひばりの質問に双葉は戸惑った。しかし自分から誘い出しておきながら、何だかサウナに入ったらどうでもよくなったとは言いがたい。全身に散り散りになっていた理性と情熱を終結すると、双葉は

「あたし実は取材の仕事って、ひばりさんが初めてだったんですよ」

とつぶやいた。ひばりの横顔は湯気に隠れて見えない。

反応を確認できないが仕方が無い。双葉は

「それで原稿まとめてみたんですけど、本当はもっと、ひばりさんに伺わなきゃいけないことがある気がして」

 と付け加えた。

「どんなこと?」

「ひばりさんが子供を産みたくない理由は、前回おっしゃっていたことだけですか?」

 自分で質問しておきながら、双葉はその内容に驚いた。つまりひばりが子供を産まない理由はまだあると双葉は踏んでいる訳だ。

「ねえ、あなた、双葉さん」

 ひばりの声がやけに湿っている。初めて会った時はもっと乾いた女だった。

「あなた、温泉は好き?」

「……好きですが」

「わたしは大好き。疲れてても温泉に入れば吹っ飛んじゃう。でも妊娠中は温泉に入っちゃいけないのよ」

 まさか温泉に入れなくなるのが嫌で妊娠を避けているのかと、双葉は愕然とした。

「ふふ、驚いた?」

 茶目っ気たっぷりにひばりが笑う。声が美しい。まるで本物のひばりのように。

「ねえ双葉さん。『病あれば必ずその地に薬あり』って言葉ご存知?」

「いえ。でも『FOODは風土』っていう言葉なら聞いたことあります。FOODは『食べ物』の英語で……」

「知ってる。どっちもその土地で採れた物が住人に合ってるって意味よね」

 ひばりが話を引き取ったので双葉は唇を閉ざした。ひばりは続ける。

「そうするとわたしたちがこうして、原泉の多い地域に住んでることについては、どう思う?」

「あたしたちの体に、温泉が必要ってことですか」

「うん。わたしたち先の東日本大震災で悲しい思いをしたわよね? でも日本は地震の起き易い土壌である一方で温泉が豊か。どうせこの、日本という土地に生まれてしまって地震という恐怖におびえなければならないのなら、温泉の恩恵も受けなくちゃ」

 こういう、ある意味での合理的な割り切りがあるからこそ、ひばりは自殺をしないのだろうか。完全に割り切れないからこそのほのめかしからは逃れられなくても。そう双葉はひばりを分析した。小学生で原発に反対していたような聡さが、ひばりを追い詰めそして抜け出させている。

「体のことをお考えになるなら、出産なさってもいいんじゃないんですか。産まないより産んだ方が体にいいって言いますよ」

「昔に比べれば減ったけど、出産には死の危険があるじゃない」

 しかし温泉は、湯当たりの危険があるではないかと言いかけて双葉はやめた。湯当たりでは死の危険に対抗できない気がしたからだ。そこで

「『この世に耐えられなくて自殺したい』っておっしゃったひばりさんが、死を恐れるんですか」

 と矛先を変えた。ひばりは口をつぐんだ。

「お気を悪くなさらないで下さい。あたしはただお伺いしたいだけなんです。厭世観をお持ちなのに、一方で健康を気遣って温泉に入ったり、死を恐れて出産をしないのはどうしてかって」

「別に死を恐れてはいません。言葉のあやよ。死を願って出産するなんて愚かなことじゃない? 今時、出産で死ぬ確率の方が少ないんだから」

「まあ、そうですね」

「死を恐れて」は余計だったと双葉は後悔した。自殺志願者は通常、死より生を恐れているからだ。

「健康を気遣うことは、どうして理解してもらえないのかしらね。死にたい気持ちが分からない人は皆そう。死にたくてもとりあえず自殺という選択をしないんだったら、健康でいられた方がいいに決まってるじゃない。肉体的苦痛は誰だってごめんよ」

「つまり生きるなら元気で生きていたいし、それが駄目なら死にたいってことですか」

 確認しながら双葉はなるほどと思った。妊娠をすれば、程度の差こそあれつわりで苦しむことになる。腹がせり出してくれば腰痛や足のむくみに悩まされる。

「あなたは、物分りがいいわあ」

 湿った女らしい声が響き短い沈黙が流れた。そして

「いいわ。ホントのこと言うわ」

 という言葉が続いた。双葉は耳をそばだてた。

「わたしは親に虐待されてたから、自分もしちゃうんじゃないかって怖いのよね」

 双葉は思わず長椅子から身を起こした。白い闇が乱れ、ミストで湿るひばりの姿が垣間見えた。ゴムでくくった髪の後れ毛が縮れながら細い首筋にまとわりついている。その柔らかい雰囲気に双葉は胸苦しさを覚えた。

 うろたえた双葉にひばりは

「別に今時、虐待なんて驚くことないじゃない」

 と諭すように言った。これだけ幼児虐待のニュースが流れても、それを身近に感じる人間が少ないせいで、ひばりはいつも面倒な思いをしていた。

「でもひばりさんは今三十六歳ですよね? ひばりさんが子供の頃ってまだ、幼児虐待って聞かなかったと思うんですけど」

「表面化してないだけで実際はあったのよ。てゆうかあの頃と今と、どっちが虐待が多いのかは知らないよ。ただ言えることはわたしは親に虐待を受けてたってこと。だからわたしは六歳の頃から自殺願望があったの。その自殺願望も、子供を生む勇気が持てなかった原因の一つ。子供を残して自殺するのはさすがに心苦しいしね」

 双葉の胸は鉛を飲んだように重くなった。するとひばりが、塩サウナに行こうと言い出した。ひょっとしたらひばりは暗い話題を誤魔化すために、まるでテーマパークのように風呂の多いこの施設を、提案したのではないかと思われた。

 塩サウナに入る時、ぶよぶよに太った中年女が三人出て来るのとすれ違った。彼女たちが出て行ったのでそこも無人だった。話をするのに丁度いい。やれ嬉しやと思いつつ双葉はすれ違いざまに中年女たちのたるんだ体を観察した。確率論からいって、子供を産んだはずの女たちだ。確かにこの女たちを抱いた男が存在するのだと双葉は感無量になった。

 先に入ったひばりは、ひじやひざに塩を刷り込んでいた。壁に書かれた説明書きによると塩を刷り込むことによって角質が取れるらしい。だから乳首にも刷り込めと言う。いくら女同士とはいえ、初対面で乳首に塩を刷り込む訳にはいかないと双葉が考えていると、ひばりが刷り込み始めた。繊細なのか無神経なのかよく分からない女だ。いけないと思いつつ双葉はひばりの乳首を見た。子を産んだことのないせいかその色は薄い。

 この乳房を幼子がふくむことは金輪際無いのだろうか。角質を取るのは誰のためか。夫か。夫との営みのためか。産む気は無いのに営むのか。

 何やら脳内がみだらになったので、双葉は慌てて

「さっきの、虐待の連鎖ですけど」

 と声をかけた。すでに椅子に腰掛けていたひばりは立ったままの双葉を見上げた。やはり白目の勝った目だ。ただもう冷たさは感じない。

双葉は中央の塩置き場から、塩を手づかみしながら

「そういう話って聞きますけど、どうして自分がされた嫌なことを、子供にしちゃうんですか。しなきゃいいじゃないですか」

 と尋ねた。

「わたしもそう思ってたんだよ。ただ生きてる内に、話はそう簡単じゃないんだって分かったの」

 年齢の割に若い体をしているひばりだが、くるぶしの辺りが茶色い。本人も自覚しているらしく塩を刷り込み始めた。そのためその視線は下向きだ。

「どういうことですか」

「人間って模倣の生き物だから、反面教師しかいないとどうしていいか分かんないのよ。虐待をしなければいいことは分かってるけど、じゃあ何をしたらいいのか、分かんないのよ。だって甘やかすのだって悪いことでしょう? しつけをしなきゃいけないのは分かるんだけど、どこまでがしつけなのか分かんないのよ。自分の感覚で決める訳にいかないじゃない? わたしは正しい教育を受けてないんだから」

 双葉の手の中で塩が砕けた。虐待致死のニュースが流れる度に聞かされる、「しつけのつもりだった」というフレーズが浮かぶ。あれは方便ではなかったというのか。

「死ぬまでやったら、しつけじゃないと思います」

「そんなの分かってるよ。じゃあ聞くけど結果的に死ななければしつけな訳? うちの親は、雪の降る中子供を薄着で外に追い出したり、弟のペニスに包丁突きつけたりってことを気分でやってただけど、それってしつけ? うちのきょうだいは誰も死ななかったけどしつけなの?」

「そんなのしつけじゃありません。『気分で』なんて」

 言いかけて双葉はハッとした。では世の中の親は、気分によらず常に冷静な判断で子供をしつけているのかと疑問が湧いたからだ。人間である限り、感情に左右されることは免れない。しかしひばりの親に子供を育てる資格があったとは思えない。では子育てをする資格は、どの程度まで理性が無くても得られるものなのか。

 要するに自分は、ひばりと同じ疑問を持っているのだと双葉は気付いた。どこまでがしつけなのか。親は子供を叱る際どの程度まで感情的になっていいのか。

「わたしは正しい教育を受けてないんだから」

 先ほどのひばりのセリフが双葉の脳裏に絡む。確かにひばりは、正しい教育というものを受けていないようだ。しかしでは自分は? 虐待をされたことはない。両親は揃っていたしごく普通に育てられたと思う。ならば自分は正しい教育を受けたと言えるか。自分は本当に道を踏み外していないと言えるか。何をもってそう言えるのか。

 双葉は室内に視線を走らせた。円形の室内には、壁に設置された四つの水道を挟むように壁際に椅子が幾つも置かれている。双葉はひばりの隣に崩れるように腰を下ろした。

 自分は何も持っていない。丸裸だと思う。そして……。

何が正しいのかよく分からない。






「不妊治療を、やめたい」

 と言い出した時の靖史の態度に、双葉はしっくりしないものを抱いた。靖史は特に驚くでもなく

「じゃあ、やめたら」

 と答えたからだ。

 ここでやめてしまったら、今までの努力は何だったのかということになる。それなのに靖史はなぜやめる理由を尋ねてくれないのか。靖史は子供など、たいして欲しくなかったのか。

 色々とわだかまりつつ双葉はそれを口にしなかった。世の中には、妻が不妊治療に音を上げているのに許さない夫もいると聞く。それに比べれば、不妊治療をしたいと言えば賛成し、やはりやめたいと言えば賛成する靖史は楽でもあった。

 しかし楽はいいのだが、胸に穴が空いたような気分だった。これまで妊娠することを目標に生きてきたのに、その目標がこの両の手からすっぽり抜けた今、どうやって生きていったらいいのだろう。会社へ行く靖史を送り出した後、朝食の片付けをしながら双葉はしばし考えた。答えは簡単だった。裕福ではないのだから仕事をするしかない。もう不妊治療で病院に通う必要も無いのだから、仕事の選択肢は増える。

そうだ。武藤の顔色を伺いながら、不本意な原稿を書く必要も無いのだと双葉は思い当たった。一度受けた仕事を投げるのは無責任だとは思う。しかし依頼者と自分のスタンスが違うのだから無理も無いことに思えた。とりあえず仁川ひばりの原稿は書き直した。本当は星合まゆら以下三名にも、追跡取材をして書き直したかったが、仁川ひばりの書き直し原稿を読んだ時点で、武藤が自分にもう仕事を回さないだろうことは予想できた。

 すると洗濯機のブザーが鳴った。双葉が脱衣所に向かおうとすると、更にドアチャイムが鳴り響いた。こんな朝早くに誰だろうか。不審に思いながら「はい」と声をかけるとドアの向こうから「俺」という声がした。武藤の声だった。

 素顔のままであること。干さねばならない洗濯物。まだ掃除をしていない室内が双葉の頭をよぎった。しかし双葉はすぐドアを開けた。ドアを隔てた押し問答が隣近所に知られることを恐れたからだ。

 酒臭さと共に武藤はドアの内側に滑り込んできた。どんぐり眼が濁っている。朝まで飲んでその勢いで押しかけて来たらしい。どうしてこんな男に欲望を感じていたんだろう。冷え冷えとした気分で双葉はスリッパを揃えながら、「何事?」と尋ねた。

「原稿見せろよ。原稿」

「それ見るために、朝っぱらから乗り込んで来た訳?」

「書き直したんだろ? 見せろよ。ちゃーんと俺の指図通りにしたかあ?」

 絡もうとする武藤をリビングの椅子に座らせ、出がらしの緑茶を入れた。

「俺、もう飲めねえよう」

 武藤が甘えた声を出す。

「何、馬鹿言ってんの? お茶よ。それ飲んでシャキッとして。シャキッとできないんなら帰って。ここはダンナの社宅なのよ。ご近所の目があるんだから」

「ふふっ。何かさ。布村ってスッピンも可愛い」

「余計なこと言ってないで、さっさと読みなさいよ」

 ぴしゃりと音を立てて武藤の前に原稿を置くと、双葉は洗濯物を干し始めた。突然、生活圏内に闖入してきた武藤が不快だった。酔った勢いで訪ねても許されると、高を括っている武藤が不快だった。必要以上にバサバサ音を立ててシワを取ると、ハンガーに素早くシャツやパジャマを着せる。靖史のパジャマは見られても構わないが、自分のこのベージュピンクのパジャマは、見られたくないと思う。

 猫の額のような狭い庭に洗濯物を干し終えて室内に戻るまで、武藤は静かだった。酔っているとはいえ武藤の関心は双葉の書いた原稿にあるらしい。欲望の消えた今、それは双葉にとって問題ではなかったが問題だった。心の準備ができていないのに、仁川ひばりの原稿を通して二人は対極に立つのだから。

「何だよ。これ」

 という武藤の不機嫌な声が脱衣所に届いた時、双葉は震えた。自分のやったことは恥ずかしいことではないと分かっていても、目の前の人間の期待に応えられない時、恐ろしくてたまらないのはなぜだろう。

「ひばりさんとまた会ったの。それで加筆したの。何度も何度も読み返した。あたしはその原稿をもう手直しできない」

 早口で言い立てる双葉に、武藤は「あのなあ」と呆れた声を出した。酔いはすっかり冷めているようだ。

「正しい教育を受けてないから、子供を産めないとか、そもそも正しい教育を受けた人間など存在するのかなんて論調にしたら、誰にも子供を産む権利無いじゃねえか。お前俺がこの前言ったこと分かってないの?」

「分かってるわよ。でもあなたのプランに乗っかるのが嫌なの。あたしはそもそも今回の震災で、価値観とか考え方が変わったなんて言ってるような、甘っちょろい人間は大嫌いなの。ばっかみたい。歴史を紐解けば太古の昔から災害や悲惨な事件は数限り無いのにあの震災が考え方を変えるなんて。あんなことで考え方が変わるような人間は、ただの無知よ」

「当たり前だろうが。だからその無知で馬鹿な人間を俺らが動かすんだろ?」

 どんぐり眼が濁っている。それが酒の酔いによるものではないことを双葉は悟った。武藤は自分の、小賢しさに酔っている。

「無知な大衆を動かすことが、楽しい?」

「お前は、楽しくないの?」

「楽しくない。無知な人間に関わるのは面倒臭いし大勢に間違った影響を与えるのも嫌」

 洗濯機の底から、双葉は下着をつかみ出していた。目と鼻の先のリビングには武藤がいるのになぜか気にならなかった。どうでもいい気がした。考えてみれば自分はごく当たり前に子供が欲しいと願い、不妊治療まで受けていたのだ。

それが仁川ひばりを始めとした、産まない女たちと語る内に、どうして血がつながっていなければならないのか分からなくなり、不妊治療をやめる決意をした。そのことにより双葉は仕事も替わることになるだろう。つまり人生が変わるのだ。それに双葉は東日本大震災によってショックは受けた。

わずかな期間に随分と揺さぶられた。様々なことがどうでもよくなった。厄介ごとや罪悪感はごめんだから、無知な大衆をおかしな方向に向かわせるのは気が乗らない。けれど小さなことはどうでもよかった。

気が付くと武藤が背後に立っていた。まずったと双葉は思った。男の来客、しかもこんなにもずうずうしい男が来ているというのに、下着を干そうとしていたとは。しかしこれは小さなことだ。もしここが被災地だったなら、下着を他人に見られることなど日常茶飯事だろう。だが双葉は肝心なことに気付いた。ここは被災地ではない。頭がくらりとした。何だかよく分からない。

落ち着けと双葉は自分に言い聞かせた。自分は……、被災地の人々を気の毒だと思った。募金もした。けれど冷静でいなければならないと思った。有史以来、悲惨な天災の記録はあるのだから動揺しすぎるのは恥ずかしいことだと思った。そのせいで金に目がくらみ、武藤の案にも乗ろうとした。いやそれだけではない。産む本能に忠実であるために武藤の案に乗ろうとした。それなのに産む本能を手放した。

そして今本能が危険を予知している。慌てて洗濯機の中に下着を戻そうとすると、武藤が

「何で? 干さないの?」

 と粘った声で尋ねた。

 双葉が黙っていると、武藤は

「俺が、干そうか」

 と洗濯機の中をまさぐった。結婚してもう六年だ。そこにあるのはレースの施された勝負下着ではない。実用的な綿の下着だった。ごくごく日常的な。






それでも結局双葉は武藤に唇一つ許さなかった。武藤を招き寄せたものが、日常的な下着だったからだ。不倫という非日常が何のきらめきも無い場所で始まることが、双葉にはつまらなかった。そしてそんな不満を抱いた自分を双葉は恥じた。本来なら貞操観念から拒絶するべきと思われたから。

自分を嫌悪し続けるのが憂鬱で、双葉は星合まゆらに電話をかけた。まゆらに追跡取材をすることが、正しいと思った訳ではない。ただ明らかに正しくない心地から逃げたかった。まゆらは明日公園でと指定した。別にカフェだろうと公園だろうと話を聞く分には双葉はどちらでもよかった。翌日、双葉は、以前美緒にもらったオーガニックのペパーミントティーをポットに詰め自宅を出た。

公園に着いた途端落ち着かない気分が双葉を支配した。桜が満開だったからだ。先の震災を受け花見不謹慎論が沸きあがっている時に、そうとは知らず、こんな場所で待ち合わせをしてしまったからだ。しかし今更どうにもならない。双葉はずんずん歩きながら空いているベンチを探した。公園は賑わっていた。皆のん気に花見をしに来ていたのだ。昼間だったためか酔っ払いの姿は無かった。

昼間おとなしく桜を愛でる分には、許してもらえるだろうかと考えた時、双葉はトイレの側にようやく空いたベンチを見つけた。こんな便利な場所に確保できるとは、何と幸運なのかと双葉は感激した。ただそこは、トイレが目に入ってしまうため空いていたのだった。けれどそんなことは双葉にはどうでもいいことだった。そしてまゆらにとってもどうでもいいことだった。

「いい場所に、席取れましたね」

 と現れたまゆらは、機嫌のよさそうにうふふと笑うと

「ほら都知事が、こんな時に花見は不謹慎って言ったじゃないですかあ」

 と双葉の隣に腰かけた。希釈したアロマがふわりと香る。

「都知事がああ言ってくれたおかげで、たかが花見が、悪いことしてる気分でぞくぞくするんですよ。それでいて花見をしなければしないで、せっかく咲いてる桜をないがしろにしてるみたいでやっぱりぞくぞくするんです。今、日本って気が滅入ることばっかだから、都知事はわざと、あんなこと言って、国民を楽しませようとしてくれてるんじゃないですかね」

 変わった子だと思いながら、双葉はペパーミントティーを注ぐとまゆらに勧めた。「どうも」と受け取ったまゆらは

「えーと、子供を産まない理由をもっと詳しく聞きたいってことでしたよね」

 と本題に入った。

「産まない理由は確かに沢山ありますよ。ただそれらの理由っていうのは、わたしの場合は、たった一つの理由を正当化するためのものなんですよね」

「どういうこと?」

「わたし二十四の時、ジャンキーと付き合ってたんですよ」

 まゆらが手元の紙コップに視線を落とした。その中には、まゆらがこだわっていたオーガニックの飲み物が入っている。そんな女がジャンキーと付き合うものなのだろうか。

「彼は、『ドラッグはやめた』って言ってて」

 まゆらが続ける。その向こうにはベビーカーと母親らしき女の後ろ姿が見えた。赤ん坊に桜を見せようとやって来たのだろう。健やかな母子をバックに、薬物依存者との恋愛を語り始めたまゆらは何かと不謹慎に見える。

「わたしは信じちゃったんですよね。でもやめたとはいえ、彼の体に残ってるだろうドラッグの影響については考えました。彼は覚せい剤もやってたって話だったし、自分の年齢考えたら、付き合う相手イコール結婚相手なんだろうと思いましたから。だから彼と結婚するなら子供は諦めなきゃいけないと思ったんです。本当はわたしは、子供がすごく欲しかったんですよ。だから自分が子供というものを諦めることができるのかって、随分悩みました。そして子供より彼を取ったんです。子供を産むのを諦めて彼と付き合うことにしたんです。そしたら……、彼、ドラッグやめてなかったんです」

「それで?」

「彼と別れました。そしてドラッグどころか酒もタバコもやらない人と結婚しました。なのにわたしもう、子供が欲しいって思えないんです」

 にわかにまゆらが辺りと見分けがつかなくなった。双葉は目を凝らした。まゆらはまるで舞う桜の花びらのように頼りなかった。

「産みたいと思ってたのに、本能に逆らって産むまいとしたんです。強い理屈が必要でした。だから障害児が産まれるかも知れないとか、障害があっても産まれてくることは幸せなんて考えるのは傲慢だとか自分に言い聞かせたんです。そうしたらいつの間にか、そもそも子供というものは産まれてきて幸せなのか、分かんなくなったんです」

「その彼は? その後どうしたの?」

「わたしと二股かけてた女と、できちゃった結婚しました」

 何だ。そのオチは。双葉が呆気に取られていると、まゆらは

「もちろん付き合ってた時は他に女がいるなんて知りませんでしたよ。でも別れた後、すぐ彼に聞かされて、わたしびっくりしなかったんですよね。どういう訳か」

 と小首を傾げた。風にさらわれそうなほど頼りない姿だ。それでいてどのような災害が起ころうと不変に咲き誇る桜のように、しなやかにも見える。

「やめたと信じてたとはいえぞくぞくした? 彼と付き合うことは」

 意地悪かも知れないと考えながらも双葉は尋ねた。「しましたよ」と、まゆらは軽快に答えた。

「誤解しないで下さいね。わたしは当時彼を愛してるつもりだったんです。だから立ち直った元ジャンキーを振り切ることは、偏見だと思い込んでました。わたしは自分の正義感らしきものにぞくぞくしたんです。周囲の反対を押し切って、メリットの無い相手の胸に飛び込む自分が純真に思えました。でもその結果得たものは、子供を産めない自分の心です。そしてわたしの人生を変えてしまった彼はデキ婚ですよ。障害の心配を口にするわたしに彼は何て言ったと思います? 『その可能性も含めて、俺は子供を受け入れるつもりだからさ』ですよ。自分がクスリをやってたことによって、障害のある子が産まれるかも知れないっていうのに何なんですか。その上から目線。やましいところの無い人が障害児を受け入れるのとは全く違うんですよ」

 後半は泣きそうな声だった。まゆらを落ち着かせなければならないと、双葉ははらはらした。しかしまゆらは言い終えた後ペパーミントティーを飲み干し人心地をつけていた。そういえばペパーミントには、精神安定作用があるという。

双葉がホッとしていると、不意にまゆらが

「それで……、この話、武藤さんにするんですか」

 ときまりが悪そうに尋ねた。

「そりゃあだって、あなたをあたしに紹介したのは武藤くんなんだから」

「でも今言った、二十四の時に付き合ってた元ジャンキーの彼って、武藤さんのことなんですよね」

 双葉は仰天した。まさか武藤は昔の女を自分に紹介したというのか。自分と付き合うならば出産を諦めねばならないとまで思わせ、そして自分と別れても尚、出産できなくなった女を一度でも愛した女を、この取材に紹介したのか。それも馬鹿女として世間に叩かせる目的で。

その時、背後で「どういうこと?」と鋭い声がした。背後のベンチでベビーカーを傍らに花見をしていた母親らしい。双葉とまゆらは女に同時に目をやった。よく見ると母親は持田芽有里だった。

「ちょっ、芽有里さん」

 双葉は叫んだ。どうして芽有里がここにいるのか分からなかった。いやそれよりも芽有里がなぜ赤ん坊を連れているのか分からなかった。

「その子供、誰の子ですか」

 双葉はベビーカーの上を指した。そこには一歳くらいの男の子が、天下泰平とばかりに寝息を立てていた。

「わたしの子よ」

 と芽有里はなぜか毅然として答えた。子供がいたなんてと双葉は愕然とした。芽有里は子供を産んでいながら、産んだこともなくこれからも産むつもりはないと偽って、取材を受けたというのか。双葉が抗議しようとすると芽有里が付け加えた。

「わたしと武藤の、二人目の子」

 芽有里が何を言っているのか、双葉にはよく分からなかった。するとまゆらが言い添えた。

「武藤さんの奥さんですよね。わたし知ってます。武藤さんに写真見せてもらったことあります」

 まゆらの得意な声色によって双葉は、武藤が遊び人であることを理解した。ある種の女は最終的に本命になれなくても構わないものだ。男の秘密さえ握っていれば満足できる。武藤はまゆらの性質を見抜いたのだろう。

 双葉が分析していると

「そう。あなた……、まゆらさんは知ってたの。でもわたしは知らなかった。まゆらさんの存在も、武藤がクスリをやっていたことも」

 と芽有里が声を震わせた。どうやら武藤は取材元を確保できず、妻に旧姓でも名乗らせたらしい。

だまされたことに双葉は腹を立てた。芽有里を問い詰めたかった。しかし芽有里の方が遥かに大変な問題に直面している気がして、言い出す気になれなかった。

逡巡した挙句、双葉は

「あのう、よろしかったらポットと紙コップ置いて行きますから、お茶でも召し上がりながら、お二人で気が済むまでお話なさったら?」

 と提案した。二人はけげんな顔をした。

「あたしもう武藤くんの仕事はしません。奥さん使ってやらせ取材なんて最低。ただ芽有里さんが武藤くんの過去を気にする気持ちは分かります。だからまゆらさんは、芽有里さんが納得するまで説明して差し上げたら? まゆらさんだって結婚してるんだし、やましくはないでしょう? ただあたしがこの場にいる必要は無いと思うから失礼するけど」

 二人は何やら不安そうな顔をした。突然起こった出来事に対応できないらしい。だがそれは双葉も同じだった。これ以上二人と接している勇気は無かった。武藤と関わった二人と接している勇気は無かった。

 踵を返し歩き出した。舞う桜が美しかった。うっとりしているとケイタイが鳴った。液晶に萩田美緒の名前が浮かぶ。友人の名前が浮かぶ。今日の出来事を語れる相手は美緒しかいないと双葉は確信した。

夢中で「もしもし」と出た電話に、美緒は切羽詰った声で告げた。

「子供ができた」

 双葉は目を閉じた。脳内に桜吹雪が舞う。どうしてこんなに重なるの。酷すぎると思う一方、被災地の人々の大変さに比べればたいしたことではないと思う。思わなければならないと思う。価値観も考えも変わらないけれど少なくとも混乱した時の尺度にはなる。有名な災害に遭った人々というものは。

「……、そうおめでとう」

 避妊はしてなかったんだねとの言葉を飲み込みながら、双葉は祝福した。自分の腹であれ友人の腹であれ、宿ってしまった命を否定することは双葉にはできなかった。

「おめでたくない。どっちの子か分かんないんだから」

 何のことか知らないが、それでもめでたいと双葉は思った。

「ダンナの子か武藤の子か、分かんないのよ」

 武藤と会うのをやめるよう、美緒に助言されていたことを思い出した。美緒は自分が武藤と関係していたからこそ、双葉を彼から遠ざけようとしていたのだ。双葉は全てを打ち明けていたのに美緒は秘密にしていた。裏切りはきつかったけれど、美緒を罵る訳にはいかなかった。少なくとも今は秘密を打ち明けてくれているし、美緒は妊娠というものをして不安定だから。

 ケイタイの向こうの美緒に、双葉はことさらに優しい声で語りかけた。

「それでもめでたいよ。ダンナさんも武藤くんも血液型一緒なんだから」

 そうか。自分は武藤の血液型を知っていたのかと双葉は驚いた。もしかしたらヤりたかっただけではなくて、自分は武藤を好きだったのかも知れない。好きだったからこそヤりたくなったのかも知れない。一瞬そんな思いがよぎったがすぐに双葉は打ち消した。別にそうとは限らないではないかと。

 息を飲む音がケイタイの向こうから聞こえた。双葉の提案に、美緒はたじろいでいるらしい。本能に逆らい産むまいとしていたのに性欲という本能に抗えず妊娠した美緒。それも夫以外の遺伝子を宿してしまった美緒。彼女がどんな選択をするのかと、双葉は耳を澄ませた。


 今のところ私の作品の中で、最も社会派な作品に仕上がりました。向いてるのかどうか分からないので、是非感想を頂きたいと思います。

 

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