昔々の伝承歌
たった一人の人間が伴奏もなく歌っているだけなのに
周りの空気が変わる
大きな声ではなく むしろ囁きに似ているそれは
しかしまるで静かな湖に落ちた一粒の雫のように波紋を広げいつしか波へと変わる
その声は人間の身体にも沁みこんでいく
抵抗はできない
爪先から髪の芯まで
気づけば歌に、声の旋律に飲み込まれている
カタチがない分それは不可侵
恐怖であり悦楽
そこに在るのに存在はしない
歌いながら歩く少年の表情はやわらかい
舞台上で歌う時のような悲壮感や孤独はなく
瞳を軽く閉じるようにやや下を向き
隣を歩く少女に歩幅を合わせながらゆっくりと進む
歌は歌詞の内容は少しずつ違えどどの村にも伝わる有名な伝承曲
単純な旋律
素朴ば歌詞
小さな恋人達の物語
―少年の歌う歌詞は各地の歌詞が混ざっており、またところどころ不思議な歌唱法が見られる。恐らくこれは各地を巡業した際に聞き覚えたので地方独自の歌詞や歌唱法が混ざっている為だと思われる。
この歌は作詞者・作曲者共に不明。
*
昔々のお話です
銀色に光る鱗をもった 空を泳ぐ獣がおりました
恐ろしい姿の獣は いつも一人でした
ある日獣は一人の少女に会いました
少女は獣の銀色の鱗を褒めました
獣は少女に恋をしました
いつだってそばにいるから
そらをかけて きみにあいに
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昔々のお話です
獣は毎晩少女を想い 悩んだ末に決めました
銀の鱗氷霧の牙 その全てを捨てること
母なる月に祈りを捧げます
空を統べる力を捨てるため
ヒトへと姿を変えるため
いつだってそばにいるから
そらをかけて きみにあいに
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昔々のお話です
ヒトへと転じた獣が村へ 少女に会いに行きました
しかしそこに少女はおらず 風の爪がありました
獰猛な風が村を呑み少女を攫う
小さな少女は空に舞う
救うすべがなかったと
いつだってそばにいるから
そらをかけて きみにあいに
*
昔々のお話です
飛べない獣は空を見ます ヒトはなんて無力でしょう
哀しい獣は気づきます ヒトは涙を流すこと
獣であったなら救えたものを
どこまでも飛び少女を見つけ
獰猛な風を消し去ることも
いつだってそばにいるから
そらをかけて きみにあいに
*
昔々のお話です
ヒトから獣に戻る為 獣は月に祈ります
全てをかけてヒトになり 全てを戻すことは出来ぬこと
己の命を引き換えに
獣は一日限りの獣へと変わる
恐ろしい姿の獣は 銀の鱗を閃かせる
いつだってそばにいるから
そらをかけて きみにあいに
そらをかけて
*
「その歌。昔お母さんがよく歌ってくれたの」
少女が懐かしそうに、そして少し寂しそうに呟きました。
「優しい銀色の獣に会ってみたいなって思ってた」
「この歌が好きだった?」
少年が尋ねると少女はふわりと微笑んだ。
「うん、哀しい歌だけれど。……あれ…?この歌はこれで終わりだった?」
つづきがなかった?
少女はなにかひっかっかたものを思い出そうと眉を寄せました。
少年はこの歌が哀しい歌だと思っていなかったので少し驚きました。
一人ぼっちだった銀色の獣が少女の為にできることを精一杯して恐らく少女は助かったのことでしょう。
大好きなヒトを助けることができたならそれはきっと幸せであったのだろう と。
小さな疑問が二人の中に残ります。