変化
朝がちっぽけな世界に広がります。
家々から朝独特の匂いがしだし時間を問わず元気のよい子供達の声が聞こえます。
朝は村人にとっていつも新しいものです。
眠りにつき目覚めるといつでもそこにあるものです。
けれどもサーカスの舞台用テント横にある小さめのプレハブから眉間に皺を寄せ出てきた女にとって、朝とは夜の続きでありました。
◆
あんなにも奥ゆかしい夜が、どの瞬間からこんなずうずうしく遠慮の無い朝に変わってしまうのだろう。
灰色の瞳を細めほつれかかった襟足の後れ毛をかきあげます。
「なんだって朝はいつもあたしに敵意をむくのかしら」
「あたしが夜の住人なのはあたしのせいではないのに」
まるで子供のように女は呟きます。
光の強くなっていく太陽を浴びると身体中からアルコールが蒸発していきそうで恐ろしく感じました。
重い頭を軽く振り、視線を前方に投げると「あの少年」がひどくつらそうな様子で歩いていました。
◆
「ぼうやも二日酔い?」
甘いようでいてどこか低めのわざと軽薄に聞こえるよう発したような声。
「あ」
サーカスの中でフォーに声をかけてくる人間は極少数です。
その中でも異彩をはなっている人間。
「んふふ 歌姫が酒飲むわけないわね。 どしたの、辛そうじゃない」
灰色の瞳を細め朝の光をさえぎる為か手のひらをひさし代わりに額にあてています。
容姿に優れた人間を集めているサーカスの中でもとりわけ美しい美貌を誇る女。
けれども舞台にはあがらない。
初めて会った時彼女はあの気だるげでいてすべてを達観してしまったような口調で、また少し楽しげに言った。
『あたしはハル売りのアジェルよ』
その意味をフォーは知っていた。
恐らくアジェルもわかっていて教えたのだろう。
舞台には出ない女優
演じるのは大金を支払ったただ一人の為
毎夜毎夜かわるがわる偽りの睦言
褥の御伽草子
◆
…今朝は身体の痛みで目が覚めた
…背中や手足の関節がメキメキ音を出すように痛む
…昨日の打ち所か不味かったのかもしれない
その場ではそんな痛みはなかったのですが、次の日急に痛みだすこともあります。
「身体が…痛くて」
「あら、ころんだの?どこ痛いのよ」
アジェルがフォーの身体をじろじろと眺めます。
「怪我してるわけじゃないわよねぇ?」
「う…ん…、昨日木から落ちてきて…」
フォーが言葉を濁すとアジェルは怪訝な表情で尋ねます。
「『落ちてきて』?『落ちた』じゃないってことね?落ちてきたものを下で受け止めたってことかしら」
「…受け止められなかったけれど」
恥じたように顔を背ける少年を真面目に一瞬見つめると二日酔いの女はケタケタ笑い出しました。
「アハハハ なあに坊や、もしかして金髪のお嬢ちゃんが木の上からふってきたの?そりゃ無理よ、どう考えたって無理無ー理!」
「……」
「で?身体痛いのぉ?でも変ね打ち身にもなってないじゃない…。どの辺痛いの?」
「足とか背中…膝の辺りが…」
「ふぅん…」
女は左手を口元にあて考え込むように首を傾げました。
四本の指は長く、とても細く優美でした。
「もしかしてセイチョウツウじゃなぁい?」
「…?」
「成長痛、別名オスグッドとも言うのよ。普通夜足の関節が痛み次の日はケロっと治るとか成長期に運動をしすぎるとなるとか…色々言われているけれど発育期特有の痛みで骨の成長に筋肉の成長が伴わない時におこるみたい。ま 急激に背が伸びたりする前兆ってカンジ」
あんまり詳しく知らないけどね、と首を傾げたまま呟きました。
それは嘘だろうなと確信しつつフォーは頷きます。
アジェルは恐らく、見た目どおりの人間ではない。
医学に詳しいのかはわからないけれどもフォーやサーカスの人間、村人達が知りえぬ事を口に出さぬだけでその小さく形のよい頭の中に膨大な知識として納めてあるように感じた。
「ぼうや、大きくなりたいのね」
「え」
「今まで止めていた成長を一気に爆発させてまで大きくなりたいと思ったのでしょう?」
「…でも自分の意思で成長は」
「できるわ、あたりまえよ。人間は感情の生き物なのよ?強く想えば成長を止めるのも進めるのも出来て当然」
きっぱりと
それは彼女が口にするとさも当然の事実であるように聞こえました。
灰色の瞳は曇りなくフォーの翠色の瞳を見据えていました。
この手があと少し大きかったら
この身体がもう少し逞しかったら
誰かを支えてあげられるのだろうか
大人になれない自分には関係ないことだとあえて目を逸らしていたのかもしれない
永遠に子供であるのが運命だと、大きくなろうとする身体すら騙していたのかもしれない
「あんたはもっと強くなれるわ 坊や」
独り言のような囁き
助言とも予言ともつかぬ叙情詩
ふと表情をくずしニヤリと唇の端をあげ笑う
「じゃあ もう寝るわ。金色のお嬢ちゃんによろしくね」
◆
もし 自分が成長してしまったら
あの大岩をこしてしまったら
やっぱり
この身体はあの闇に消えるのだろうか
…自分がいなくなったらリノは悲しんでくれるのだろうか
…誰一人悲しんでくれる者などいないと思っていたから
…少し嬉しいような気もする
…けれど
…あの大きな空色の瞳が潤むのは
…想像するだけで息が苦しくなるほど辛い
ぎしぎしと痛みを訴える身体を無理やり動かしサーカス舞台の掃除を片付けます。
小さなテントに戻る途中、ふと上を見上げると薄い色の空が白い雲と溶けるように
伸びていました。
あたりまえのことですがこの空はフォーの生まれた村にも繋がっているということをまるで今発見したかのように少年は思い出しました。
血のつながりもない自分を愛してくれたあの老人の墓の上にもこの空は伸びているのです。
チリン チリリン
ハタハタ と服の裾をあおる風
亜麻色の髪があちこちに乱れ舞う
その小さな身体に覆いかぶさるように広がる薄い空
ぽつぽつと点在する簡易テント
ちいさな少年
チリン チリン
引き結ばれていた唇が離れすうっと自然に息を吸う
そうしながらもまだ少年は自分の行動が理解しかねているようで
風に鳴る鈴の音を聞きながらゆっくり瞳を閉じる
…不思議
…どうして突然
…謳いたくなってしまったのだろう
…鳥が謳うのは想いを伝える為
…言葉がない鳥は恋しいものに歌を贈る
そう教えてくれた人はもういない
教えてもらった時はその意味がよく理解できなかった。
『恋しいものに想いを伝える』
あの村で隔離された環境下に育った自分にはとうてい理解できるはずがなかった。
瞳を閉じたまま息を吐き出す。
そして同時に歌がうまれる。
フォーの知っている曲はとても少ない
だからその中でもできるだけ暖かい歌を謳う
言葉を知らぬ鳥のように
この後いっきに走ります