幸福な子供
フォーはテントに戻ると少し曇ったグラスに水差しから水を注ぎました。
夜公演の前座に出なければならないのです。
人前で歌を歌うことに抵抗はありません。
極端に狭い世界で生きてきたフォーは大勢の観客の中舞台に立つことにもちろん最初戸惑いを覚えました。
けれど けれども
結局は何もかわらないのです。
数え切れない人間の前で歌っていてもあの人の眠る小高い丘の上一人で歌っていても
本当に聴きたがってくれた人が
本当に聴いて欲しかった人が
そこにいないのなら
結局何もかわらないのです。
…この声が消えたら
…この命も終わるのだろう
大人になれない事を小さな頃から意識していたけれど、この細く頼りない身体が村の男達のように逞しく成長することを想像することは難しく
それに
『ゆっくり大きくおなり』
やさしくあたたかく、低いしわがれた声、慈愛に満ちたあの表情
けれども隠しきれぬ悲しみを湛えた
あの表情
…大人になりたいなんて思わない
…贄として生かされているのだってかまわない
…ただ
小さな手
頼りない身体
少女にような声
あの人はきっと 心配でならなかっただろう。
…大人になれたら この身体が成長できたら
…あなたよりも背が高くなって、力も強くなって支えてあげることができたのに
小さな頃背負ってくれたあの広い背中
年々痩せて腰が曲がり皺が増え最後は歩くことすらできなかったあの人
…恩返しもできなかった
…自分は最後まで「小さな子供」のままだった
テントの外から夕日が差込み、手に持ったグラスの水が赤く染まりまるでワインのように見えます。
サーカスのにぎやかな音楽がいっそう強く流れてきます。
もうすぐ団長が苛々した声で叫びながらフォーを連れにくることでしょう。
◆
「『神へ生贄』とはどういう意味?」
その言葉の衝撃を思い出し、リノは震える声を絞り出すようにして尋ねました。
「自分は神のモノなんだ」
その言葉の意味をきちんと尋ねなかったことが悔やまれます。
…でも
…私にはきっと尋ねることなんてできなかった
「お嬢ちゃん、いいえリノ。あなたは『イケニエ』の意味を理解っている?」
「…学校で聞いたことなら。たしか、誰か一人にすべて押し付けるようなそんな意味だったと」
「そう、そういうふうに思っているのね。フフフ ああこの村は穏やかですものね。それにお嬢ちゃん、大事に育てられていそうだわ。ひもじいことが無いように 凍えることが無いように 酷い話は聞かせないように。親はそうやって子供を守ろうとするもの。」
リノはカッと頬が熱くなりました。
もちろんそれは怒りではなく羞恥のために。
「大切にされたことを恥じるのは可笑しいわ。幸福は恥じるものではないの。不幸を誇ることの方が何倍も醜悪なのだから」
赤い唇を微笑の形にとどめたまま、けれどその瞳は驚くほど真剣にアジェルは言葉をつづります。
「いつかわかるわ。それは考えているよりもずっと恐ろしいほど早く」
まっすぐリノを見つめているはずのその灰色の瞳 けれどなにも映してはいません。
なにも見てはいない
でももしかしたらすべて見えてしまっているような
怖いくらい澄んだ
灰色の瞳
『また お話しましょ。』
夢から覚めたように瞳の焦点を合わせるとアジェルは唐突にそう言い呆然とするリノを振り返りもせず去っていきました。
辺りはすっかり日が落ち 少し肌寒く感じました。
◆
「遅かったじゃないかリノ。また遊んでいたのかい」
あきらかに不機嫌な様子の祖母がすっかり出来上がったスープをかき混ぜながら言います。
「まだ小さな女の子が暗くなっても家に帰らないなんて!恥ずかしいことだよ、わかっているのかい」
「近頃しょっちゅうじゃないか、悪い友達ができちゃいないだろうね」
…私は大事に大事に育てられた子供
…心配されて何不自由なく与えられて
…とても幸福な子供
「ごめんなさいおばあちゃん」




