第八章 蔡国の王 (9)
宴の準備が整ったとの知らせを受け、王と丞相は執務を終えて広間へと向かっていた。
寝殿を出て、中庭に沿って伸びる回廊の先が宴の会場となる大広間だ。中庭は山河を模した庭園になっており、緩やかな丘や池と小川がある。庭園の緑を茂らせた草木が、陽射しを浴びて心地よさげに揺れている。
それらに目を細めながら回廊を歩く二人の耳に、柔らかな音色が留まった。音色は風に乗り、木々をそよがせて庭園の中を駆け巡る。
王は足を止め、庭園の中へと音色の行方を追う。
池の畔に建つ亭の下、水面に映った二つの人影。陽射しを避けるように座して琴を奏でる男性と、隣りに控える侍女が彼を見守っている。
「素晴らしい、この目に風の流れが見えるようで……まさに心洗われる音色でございます。琴でギョクソウ様に勝る者はおりません」
丞相はうっとり目を閉じる。音色に誘われて庭園の木々の隙間を泳ぐような心地に、頬が緩んで僅かに紅潮している。
「あれだけが取り柄だ、琴などよりももっと武術の腕を上げろと言うのに、一向に聞く耳を持たず困るわ」
王の不機嫌な口調に引き戻された丞相は、はっとして礼をした。
普段からギョクソウが武術にあまり興味を示さないことに、王は相当不満を抱いているのだ。
「ギョクソウ様こそ、今や争いのない穏やかな、この今の蔡国を治めるのに相応しいお方でございます」
丞相が何とか取り繕うと、王は苦笑した。
「上手いこと言うな、あれはな、私に似ていない。あれはオウレンに似ているのだ。彼女も穏やかで……琴が好きだったであろう……もう十年経つのか」
王は庭園を見渡しながら、懐かしい思いを手繰り寄せる。オウレンとは今から十年前に亡くなった王妃のことだ。
「誠に……優しく美しかった妃殿下の御姿が、今も鮮明に思い出されます。この庭園に咲くかの花のように芳しい御方でございました」
丞相の言葉に、王は潤んだ目を静かに閉じた。言葉が漏れ出そうに震える唇を噛み締める。
ギョクソウの琴の音色は、彼の胸の奥に眠るオウレンの奏でる音色と重なり合う。
「ギョクソウは男、この国の王太子だ。私はもっと武術の腕を鍛えて、男らしくカレンを娶る決心を早くしてほしいのだ」
「有り難いお言葉、感謝致します」
深く頭を下げる丞相の肩を叩き、王は広間に向かって歩きだした。