第五章 憂心と現実 (10)
「リキ、どこへ行っていたの?」
母が驚いた顔で、リキに訊ねた。
リョショウの部屋を出てすぐの廊下の角で、リキは母と鉢合わせになったのだ。
いつも稽古場に居るはずのリキが、稽古場を通り過ぎた奥の廊下から出てきたことに母が疑問を感じるのも無理はない。
リキは動揺しながらも、咄嗟に答えを探る。
「いえ、考えごとをしていたら稽古場を通り過ぎてしまって……」
必死な言い訳だったが、食器などを持っていなかったのが救いだった。
母はくすりと笑うと、
「そうだったの、あなたを探していたのよ。話したいことがあるの」
と言って、リキを稽古場の縁側に促した。
腰を降ろすと、母は辺りを見回す。母がこれから話そうとすることが重要なことなのだろうと察して
、リキも周囲に目を配った。
「話って、何ですか?」
「手紙を送ろうと思うの」
母は声を潜めた。
そして懐から取り出した書簡を、リキの前に差し出した。そこには西都へ嫁いだ姉サイシの名が書かれてある。
「これを姉さんに?」
リキが問うと、母は頷いた。
サイシを通して西都の高官らに北都の現状を知ってもらい、何らかの手立てを講じてもらおうというのだ。西都都督から蔡王や東都軍への働きかけを期待している。
カンエイが燕と謀って東都都督を討ち、北都都督の座を乗っ取ったことは明らかに蔡王に叛くことだ。たとえ西都都督が武力行使に反対する立場を取っているといっても、蔡王に叛くこととなれば黙ってはいないだろう。
「でも、無事に届けられるのかしら……」
「きっと大丈夫。東都へ向かう者に対しては強く警戒しているでしょうが、西都に対してはさほど警戒はしていないようだから……何とかなるはずよ」
リキの不安を払拭するように、母は力強く言って微笑んだ。
母の笑顔がリキの胸を大きく揺らし、熱いものが込み上げてくる。
リキは確信した。母は決して悲観ばかりしているのではない。どんな小さなことでも、何か出来ることを探っていたのだ。
「私も、その時が来れば必ず……皆の力になることを約束する」
「ありがとう、でも決して無理はしないで。あなたが信じるように皆が信じているのだから」
母の言葉が胸に響いた。
皆が信じている。その言葉が、リキに確かな勇気を与えてくれたのだ。