今さら返してほしいと言われても、その子はもう私の手を離しません
私は、侯爵夫人アデーレ・コロンナ。その日も、夫の帰宅を玄関広間で迎える。
ルッジェーロ・コロンナ侯爵が私に笑いかけることは、もうほとんどない。けれど、侯爵家の夫人として客を迎え、使用人に命じ、親族への返礼を欠かさないことは、私の役目だ。
だから今日も、いつも通りに一礼する。
「お帰りなさいませ、ルッジェーロ様」
ルッジェーロは返事をしなかった。
彼の腕には、赤子がいた。
その隣には、絹の外套を羽織った若い女が立っている。オルシーニ伯爵家の令嬢イザベッラ。社交界では、ルッジェーロの愛人として名を知られた女だった。
私は、赤子を見た。
丸い頬。小さな手。泣き疲れたような赤い目。
ルッジェーロは赤子を抱き直し、当然のように言う。
「この子はマルコだ」
「マルコ様、でございますね」
「私の子、男児だ。コロンナ侯爵家の跡継ぎになる」
玄関広間にいた侍女達が息をのんだ。
イザベッラは少しも悪びれない顔で、羽扇を口元へ当てる。
「アデーレ様なら、子供の扱いがお上手でしょう? 私はまだ夜会にも出なければならないの。赤ん坊の世話ばかりでは、体が持ちませんわ」
赤子がむずがる。
ルッジェーロは眉を寄せた。
「泣くな。ほら、アデーレ。抱け」
命令だった。
妻に対する言葉ではない。
乳母へ渡す荷物のような扱いだった。
私は、ルッジェーロの腕から赤子を受け取った。マルコは一度、大きく泣きかけたが、私が背を軽く叩くと、喉を震わせながら泣きやむ。
「まあ」
イザベッラがつまらなそうに目を細めた。
「本当に泣きやみましたのね」
ルッジェーロは満足げにうなずく。
「よし。ならば、この子は君が世話をしろ」
私はマルコを抱いたまま、夫を見た。
「侯爵家の跡継ぎとして、でございますか」
「そうだ。君には子がない。ちょうどいいだろう」
その言葉に、腹を立てるより先に、腕の中の子が震えた。
この子に罪はない。
生まれる場所も、母を選ぶこともできなかった。大人の都合で屋敷へ連れてこられ、知らない腕に渡され、泣くことしかできない。
私は、マルコの頬にかかった髪をそっと横へよけた。
「承知いたしました。マルコ様は、こちらでお預かりいたします」
「物分かりがいいな」
ルッジェーロは笑った。私は笑えなかった。
乳母ではない。けれど、泣いている子を床へ置くような真似もできなかった。
それから一年、マルコは二歳になった。
最初の頃は、朝も昼も夜も泣いた。離乳食のスプーンを払い、知らない顔を見れば全身を反らせる。ルッジェーロが近づけば私の袖をつかんだ。
私は毎晩、抱いて歩いた。
熱を出せば額を拭き、食べられない日はパン粥を少しずつ口へ運び、眠れない夜は椅子に座ったまま朝を待った。
マルコは、少しずつ笑うようになった。
庭で花を見つけると、短い指で示す。
「あ、あ」
「赤い花ですね。マルコ様」
「あか」
「はい。赤です」
転べば泣く前に私を目で探す。
眠くなれば、私の膝へ額を寄せる。
そして、ある朝、マルコは両手を伸ばし、たどたどしく言った。
「おかあしゃま」
侍女達が顔を見合わせた。
私は、胸を押さえた。
マルコはもう一度、笑って言う。
「おかあしゃま」
その日から、マルコにとって母は私になった。
ルッジェーロは、その意味を分かっていなかったのだろう。
春の終わり、侯爵家の応接室に、ルッジェーロとイザベッラが並んで座った。私は正面に立つ。膝のそばには、マルコがぴたりとくっついている。
ルッジェーロは手袋を外しながら告げる。
「アデーレ。君とは離縁する」
マルコが私の衣をつかむ。
私は、毅然と彼の目を見た。
「理由を伺ってもよろしいでしょうか」
「イザベッラを正式に妻に迎える。マルコの実母だ。侯爵夫人の座には、彼女がふさわしい」
イザベッラは得意げに笑う。
「一年間、ご苦労さまでした。マルコもそろそろ手がかからなくなるでしょうし、あなたのお役目は終わりですわ」
お役目……。
その一言で、私の中に残っていた迷いが消える。
妻として見られていない。
母としての一年も、都合のいい預かり役としか思われていなかった。
ならば、ここに残る理由はない。
「承知いたしました」
ルッジェーロが目を瞬かせる。
「……ずいぶん早いな」
「離縁に応じます。エステ伯爵家へ戻ります」
「泣いてすがるかと思った」
「その必要がございますか」
私は初めて、夫へ笑みを向けた。
「侯爵様は、イザベッラ様を妻に迎えたい。私は、もう必要ない。ならば、話は済んでおります」
ルッジェーロの顔が不機嫌に歪む。
イザベッラは勝ち誇った顔で、マルコへ手を伸ばした。
「さあ、マルコ。こちらへいらっしゃい」
マルコは動かない。
私の足にしがみつき、首を横に振った。
「いや」
「マルコ」
ルッジェーロが、抑えた声で呼ぶ。
「お前の母親はイザベッラだ」
マルコは小さな顔をくしゃくしゃにした。
「おかあしゃま」
私の指を握る。
その声に、私の気持ちは揺れた。
しかし、マルコは侯爵家の跡継ぎだ。連れて行くことはできない。勝手に抱いて屋敷を出れば、誘拐になる。
私は膝をつき、マルコの目を見た。
「マルコ様。よく聞いてください。お母様は、少し遠くへ行きます」
「いや」
「でも、マルコ様は強い子です」
「いやあ!」
マルコが泣き出す。
私は抱きしめたかった。
けれど、抱きしめれば離せなくなる。
だから、小さな手をそっと外した。
「お健やかに」
私は立ち上がった。
荷物は少ない。持ってきたものより、置いていくものの方が多かった。宝石も、衣装も、侯爵夫人の名も、もう要らない。
玄関前に馬車が待っている。
私が乗り込もうとした時、屋敷の中から悲鳴のような泣き声が響いた。
「おかあしゃま!」
振り返ると、マルコが廊下を走ってきた。
短い足で必死に進み、何度も転びそうになりながら、私へ手を伸ばす。
「おかあしゃま! いかないで!」
ルッジェーロが後ろから追ってくる。
「止めろ。マルコを連れ戻せ」
使用人達は動けない。
誰も、泣き叫ぶ二歳の子を無理に抱え上げられなかった。
私は馬車の段に手をかけたまま、足を止める。
その時、門の外から別の馬車が入ってきた。
黒い馬車の扉が開く。
降りてきたのは、背の高い男だった。辺境伯チェーザレ・ゴンザーガ。王都へ滞在中の有力貴族で、妻を亡くした人物だと聞いている。
チェーザレは泣きながら走るマルコを見て、すぐに御者へ手を上げた。
「これは、どういうことですかな?」
控えめ声だったが、迷いがない。
マルコは私の足元まで来て、両腕でしがみついた。
「おかあしゃま、いや、いやあ」
私は動けなかった。
ルッジェーロが苛立った声を出す。
「ゴンザーガ辺境伯。これは我が家の問題です」
チェーザレはルッジェーロを一瞥し、それからマルコを見た。
「泣く子を置いて見過ごせるほど、冷たい人間にはなれなくてね」
ルッジェーロの顔色が変わる。
チェーザレは私へ向き直った。
「夫人。まずは、その子を抱いてやってください」
私は返事ができなかった。
ただ膝をつき、マルコを抱きしめる。
マルコは全身でしがみつき、何度も叫んだ。
「おかあしゃま」
その声を聞きながら、私は初めて思った。
離縁で終わるはずだった。
けれど、この子にまだ、答えを出せていない。
◇
離縁は、その日のうちに成立し、私は実家であるエステ伯爵家へ戻った。
父も母も余計なことは聞かなかった。ただ、帰ってきた娘を温かく迎え、好きなだけ休むよう勧めてくれた。
それでも、私の胸から消えないものがある。
二歳の子供が泣きながら伸ばした、小さな手だ。
◇
一方、コロンナ侯爵家では異変が起きていた。
「また食べないのか」
ルッジェーロが苛立った声を上げる。
食卓の前で、マルコは口を固く閉じたまま首を振る。
「いや」
「菓子なら食べるでしょう?」
イザベッラが笑顔で差し出しても、マルコは見向きもしない。
「おかあしゃま……」
その一言だけを繰り返した。
一日、二日……一週間。
食事はほとんど喉を通らず、夜も眠らない。
イザベッラが抱き上げれば泣き、乳母へ渡しても泣く。
医師を呼んでも首をかしげるだけだった。
「体に異常はございません」
「ならば、なぜ食べない」
「幼い子は大きな不安を抱えると、このような症状が出ることもございます」
ルッジェーロは机を叩いた。
「母親も父親もいるではないか」
医師は答えなかった。
部屋の隅では、マルコが小さな声で呼んでいた。
「おかあしゃま……」
イザベッラは眉をひそめる。
「まだあの女を忘れていないの?」
「二歳の子供だ。そのうち忘れる」
そう言ったルッジェーロだったが、その「そのうち」は来なかった。
十日が過ぎても、マルコは笑わない。
庭へ出ても花を見ず、お気に入りだった木馬にも乗らなかった。
窓の外ばかり見ている。
◇
エステ伯爵家へ、一通の手紙が届いた。
差出人はルッジェーロだった。
短い文だった。
『一度だけ来てほしい』
父は顔をしかめた。
「断ってよい」
母も、うなずく。
「あの家へ戻る必要はありません」
私は少し考え、ゆっくり首を振った。
「戻るつもりはありません」
「では」
「しかし、マルコ様に会いたいのです」
父はため息をつく。
「もう、お前がどうこう出来はしない」
「かもしれません」
私は微笑んだ。
「ですが、あの子は何も悪くありません」
◇
翌日、私はコロンナ侯爵家を訪れた。
門をくぐるだけで、胸が少し痛む。
使用人達は以前より疲れた顔をしていた。
その中の一人が目を潤ませる。
「奥様……」
「もう奥様ではありません」
「申し訳ございません」
「マルコ様は?」
「ずっと元気がありません」
部屋へ案内される。
小さな寝台の上で、マルコはぼんやり天井を見ていた。
頬が少し、こけている。
私は胸が締めつけられた。
「マルコ様」
私の声が届いた瞬間だった。
マルコの目が大きく開く。
一瞬だけ信じられないという顔をして、寝台から転がるように降りる。
「おかあしゃま!」
駆け寄り、勢いよく抱きついた。
その顔には、離縁の日以来初めての笑顔が浮かんでいたそうだ。
「会いたかったですね」
「うん!」
さっきまでの弱々しい姿が嘘のようだった。
ルッジェーロもイザベッラも言葉を失う。
私はマルコを抱いたまま椅子へ座った。
「今日は何を食べましょうか」
「ぱん!」
「いいですね」
厨房から焼きたてのパンと温かなスープが運ばれる。
私が小さくちぎって、スープにひたして差し出すと、マルコは素直に口を開いた。
「おいしい?」
「おいしい!」
止まらずスープも飲む、果物も食べる。
使用人達が思わず顔を見合わせた。
「召し上がっておられる……」
「何日ぶりでしょう」
食事を終えると、マルコは満足そうにあくびをした。
「ねむい」
「では、お昼寝しましょう」
私が背中を軽くたたく。
ほどなくして、小さな寝息が聞こえ始めた。
その寝顔を見ると、部屋全体が穏やかな雰囲気に包まれた。
◇
廊下へ出ると、ルッジェーロが待っていた。
「……すまなかった」
初めて聞く謝罪だった。
しかし、私の心は動かない。
「マルコ様がお元気になられて安心いたしました」
「頼む」
ルッジェーロは一歩近づく。
「もうしばらく屋敷へ通ってくれ」
「それはできません」
「子供が君しか受けつけない」
私は、答えた。
「私はもう、この家の者ではありません」
「マルコのためでもか」
「だからこそです」
私は眠るマルコの部屋を見た。
「今のままでは、私が帰るたびに悲しませてしまいます」
ルッジェーロは返す言葉を失った。
その時だった。
「なるほど」
よく通る声が廊下へ響く。
振り向くと、チェーザレ・ゴンザーガが立っていた。
王都滞在中だった彼は、ルッジェーロに頼んで様子を見に来ていたらしい。
チェーザレは、言う。
「母親とは、生んだ人ではなく、安心できる人なのでしょう。彼女が連れ帰るべきだ」
誰も反論できなかった。
眠るマルコの顔が、その答えだった。
チェーザレは私を見る。
「そう言って下さるだけで、救われます」
「私は当然のことを言っただけです」
「当然と思える人は多くありません」
その言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
チェーザレは、続ける。
「今日、私も大切なものを見せていただきました」
短い言葉だった。
けれど、その眼差しには、本物の母親に対する敬意があった。
私は一礼する。
「失礼いたします」
私は、侯爵家の門を出る。
その背中を、ルッジェーロは黙って見送るしかなかった。
ようやく理解し始めていたのかもしれない。
自分が失ったものは、妻だけではないと。
息子が向けていた、何より大切な笑顔だった。
そしてチェーザレは、私の背中を見送りながら言った。
「――あなたこそ、幸せになる資格がある」
◇
王都では、建国祭を祝う祝宴が王宮で開かれていた。
国王夫妻をはじめ、公爵家、侯爵家、伯爵家の当主達が一堂に会する、一年でもっとも華やかな夜である。
エステ伯爵家の令嬢へ戻った私も、父母とともに招かれていた。
「緊張しているのか?」
父が尋ねる。
私は首を横に振った。
「少しだけですが……」
「無理はするな」
「はい」
広間へ入ると、多くの貴族が一斉に視線を向けた。
離縁した元侯爵夫人、愛人へ夫を奪われた伯爵令嬢。
そんな噂は王都中へ広まっていた。
しかし、その視線はすぐ別の方向へ移る。
ルッジェーロ・コロンナ侯爵が姿を現したからだ。
隣にはイザベッラ。そして、乳母に手を引かれたマルコもいた。
私の心が乱されていく。
マルコは会場を見回していた。
まるで誰かを探すように。
やがてルッジェーロは広間の中央まで進み、大きな声で告げた。
「皆様の前で、お伝えしたいことがあります」
音楽が止まる。
貴族達の話し声も消えた。
ルッジェーロは私を真っすぐ見た。
「アデーレ」
名を呼ばれても、私は表情を変えるのを堪えた。
「君に戻ってきてほしい」
会場がざわつく。
イザベッラの笑顔が固まる。
ルッジェーロは続けた。
「私は間違っていた」
その言葉に、自分でも苦しそうな顔を見せる。
「マルコは君がいなければ笑わない。食事も眠りも、君がいないとままならない」
私は黙って聞いていた。
「だから頼む」
ルッジェーロは一歩踏み出す。
「侯爵夫人ではなくてもいい」
次の言葉に、多くの貴族が顔を上げた。
「母親として戻ってくれ」
それは妻ではなく、子育てだけを求める願いだった。
私は、溜息をつく。
「それが、お答えでしょうか」
ルッジェーロは意味を理解できない。
「どういうことだ」
「あなたは今でも、私を妻ではなく、子を育てる者として必要としているだけです」
ルッジェーロの口が止まる。否定できなかったのだろう。
イザベッラが慌てて口を開く。
「その子は私が産んだ子です!」
「ええ」
私は、うなずく。
「その事実は変わりません。あなたになついてくれるよう願って行かなかったのです」
「なら!」
「ですが」
私はイザベッラを責めなかった。
出来れば、彼女に母親に戻ってほしかったのは間違いない
そして、マルコを見る。
「答えを出すのは、私ではありません」
その視線を追うように、会場中がマルコへ注目する。
ルッジェーロは笑顔を作り、膝をついた。
「マルコ」
優しい声を作る。
「お母様のところへ行きなさい」
イザベッラが両腕を広げた。
「マルコ、いらっしゃい」
マルコは動かない。
小さな瞳が会場を見回す。
そして、私を見つけた。
「あっ」
顔がぱっと明るくなった。
次の瞬間、小さな足で走り出す。
イザベッラの横を通り過ぎ、ルッジェーロの前も通り過ぎる。
一直線だった。
「おかあしゃま!」
勢いよく私へ飛びつく。反射的に抱き留めた。
「マルコ様」
「おかあしゃま!」
首へしがみつき、満面の笑みを浮かべる。
その子供の笑顔は、誰の目にも疑いようがなかった。
広間中の者から安堵の息が漏れる。
「本当に……」
「子供が選んだのか」
「二歳の子が、あそこまで」
ルッジェーロは立ち尽くし、イザベッラも声を失う。
その時、チェーザレが席を立った。
ゆっくりとマルコへ近づき、優しく頭をなでる。
「答えは出ていますね」
誰も反論しなかった。
誰といると安心できるか、その答えを、幼い両腕で示していた。
ルッジェーロは力なく膝をつく。
「私は……」
言葉が続かない。
欲しかったのは跡継ぎ、そして理想の家庭だった。
そのどちらも、自ら手放してしまった。
「アデーレ」
かすれた声で呼ぶ。
「もう一度だけ……」
しかし、その願いは最後まで口にならなかった。
「失礼いたします」
穏やかな声が響く。
チェーザレ・ゴンザーガだった。
彼は私の隣へ進み、自然な距離で立つ。
それだけで、私達を守る意思が伝わった。
チェーザレはルッジェーロを見据えた。
「あなたは子供の母親だけを求めています」
ルッジェーロはうつむいたまま動かない。
「ですが、それは間違った考えだ」
チェーザレは、私へ向き直る。
その眼差しは真っすぐだった。
「私なら、母親としても、一人の女性としても、あなたを大切にします」
その言葉に偽りは感じられなかった。
私は驚きながらチェーザレを見る。
彼は微笑んだ。
「すぐに返事は要りません」
私は、頭を下げた。
「ありがとうございます。しかし、この子を勝手に連れていくわけには……」
腕の中では、マルコが安心しきった顔で私の肩へ頬を寄せている。
ルッジェーロは、その姿を見つめることしかできなかった。
あの日、泣きながら追いかけた小さな背中。
食事を拒み続けた幼い日々。
そして今、イザベッラ様ではなく私を選んだ子。
もう取り戻せないのだろうか?
その事実だけが、胸へ重く残り続けた。
◇
王宮の祝宴から、三か月が過ぎた。
春の終わりを迎えたある日、エステ伯爵家の応接室を一人の客が訪れる。
チェーザレ・ゴンザーガ辺境伯だった。
父と母が席を外し、部屋には私とチェーザレだけが残る。
チェーザレは、口を開いた。
「以前、お返事は急がないと申し上げました」
私は、うなずく。
「覚えております」
「今日は改めて、お伝えします」
チェーザレはまっすぐ私を見る。
「私と結婚してください。マルコは、あなたが育てる準備をしています」
その言葉には、余計なものはなかった。
しかし、私の一番望んでいるものが用意されている。
「私は亡き妻を大切に思っています。その事実はこれからも変わりません」
私は黙って耳を傾ける。
「ですが、思い出だけで生きていくつもりもありません」
彼は、続けた。
「あなたといると、人はもう一度幸せになってもよいのだと思えるのです。卑怯な言い方かもしれませんが、あなたはマルコと一緒にいるべきだ」
私の目に涙が浮かぶ。
離縁の日から今日まで、初めて自分自身を見つめてもらえた気がした。
母親としてだけではなく、都合のよい世話役としてでもない。
一人の女性として。
「……はい」
私は、微笑む。
「よろしくお願いいたします」
彼も笑った。
「ありがとうございます」
私達は、頭を下げ合った。
◇
婚約の知らせは王都を駆け巡った。
祝福する声が多い一方で、一つだけ気になる噂も流れていた。
「マルコ様は辺境伯家へ引き取られるらしい」
「侯爵家の跡継ぎではなくなるのか」
しかし、それは事実ではなかった。
チェーザレ自身がきっぱり否定した。
「マルコ様はコロンナ侯爵家の嫡男です」
集まった貴族達を前に、穏やかな口調で続ける。
「その立場を奪うつもりはありません」
誰もが耳を傾ける。
「子供には、生まれた家も大切です。大人の都合で変えてよいものではありません。しかし、我が家でお預かりして育てます。彼が望む母親の元で」
その言葉に、多くの貴族が感心したようにうなずいた。
チェーザレはマルコを利用しようとは考えていなかった。
ただ、あの子が笑って暮らせることだけを願っていた。
◇
それからさらに一か月。
辺境伯家の屋敷には、小さな声が響くようになった。
「おかあしゃま!」
私が部屋に入るなり、マルコが元気いっぱいに駆け出す。
私は笑顔でしゃがみ込む。
「いらっしゃい、マルコ様」
「きょう、おはな、みた!」
「どんなお花でしたか」
「あお!」
「それはきれいですね」
庭にはチェーザレもいた。
マルコは迷わず彼のほうへ走る。
「ちぇーざえ!」
まだ名前を上手に言えない。
チェーザレは笑って抱き上げた。
「今日は木馬を直したよ」
「のる!」
二人は庭へ向かう。
私はその後ろ姿を見つめながら笑った。
家族の形はいろいろある。
血のつながりだけでは決まらない。
安心して笑える場所も、家庭なのだと感じていた。
◇
ある日、辺境伯家へ一台の馬車が止まる。
降りてきたのはルッジェーロだった。
以前よりやつれた顔で、目の下には濃い疲れが残っている。
「アデーレ」
応接室で向かい合う。
ルッジェーロは深く頭を下げた。
「戻ってきてくれ」
私は、首を振る。
「そのお願いは、お受けできません」
「頼む」
ルッジェーロの声には、かつての傲慢さはなかった。
「私は全部失った。結局、彼女も出て行った……情けない男だと」
私は、答える。
「違います」
「何が違う」
「あなたが返してほしかったのは、私ではありません」
ルッジェーロは顔を上げる。
その時、庭から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
「もう一回!」
「それでは、しっかりつかまっていてください」
チェーザレと遊ぶマルコの声だった。
私は窓の外へ目を向ける。
「あなたが返してほしかったのは」
一度だけルッジェーロを見る。
「あの子が向けていた笑顔でしょう?」
ルッジェーロは黙したままだ。
何も言えず、否定できなかった。
マルコが笑わなくなった時になって初めて、自分が失ったものに気づいた。
けれど、その笑顔は命令では戻らない。
地位でも金でも買えない。
積み重ねた時間だけが育てるものだった。
「……すまなかった」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
私は、頭を下げる。
「どうか、お体を大切になさってください」
ルッジェーロは力なく立ち上がる。
その背中を、引き止める気はなかった。
◇
夕暮れ。
庭ではマルコが花冠を手に笑っていた。
「おかあしゃま!」
私が受け取る。
「ありがとうございます」
「ちぇーざえにも!」
チェーザレは少し照れたように受け取り、笑う。
「私の分まであるのですね」
「うん!」
マルコは私達二人の手を握った。
小さな手は温かかった。
私はチェーザレと視線を交わし、自然と笑みがこぼれる。
その光景を見れば、誰の目にも分かった。
家族とは、誰かに決められるものではない。
心が選び、時間を重ねて育まれるものだ。
マルコは今日も変わらず、明るい声で呼ぶ。
「おかあしゃま!」
その笑顔は、もう二度と失われることはなかった。
よろしければ、何点でも構いませんので評価いただければ幸いです。
時間がありましたら、お読み下さい。
【リブラノベル様より電子書籍化】「またあの子を優先するのですか?」と言うのをやめた日
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