邪悪な巫女ベスティアーナの、聖女に成り代わるための堅実な方法
ざくり、とツルハシの先端が岩盤に埋まった。
鋭い金属の掘削道具とは言え、見るからに固そうな岩肌を穿ったのだ。さぞ力自慢が振るったものと思いきや、その柄を握るのはほっそりとした優美な指先だった。
「あー、寿司食べたい……」
柄の先を覆うように重ねた手の上に顎を乗せ、万感の思いで呟いた言葉に反応するのは、こちらは無骨な掘削道具を振るうのに相応しいむさ苦しい男たちである。
「なんだ、スシって」
「食いもんか?」
「蒸した穀物の粒を固めて、生の魚を乗っけたやつ」
「はあ!? ゲテモンじゃねえかっ」
「聖女サマは時々とんでもねえモン食いたがるよな」
「ゲテモノじゃないし! あと、あたしは聖女じゃないって言ってるでしょうが!!」
確かに彼女は聖女ではない。
正確に言えば、聖女の座をめぐる争いに敗れた女である。
白皙の美貌と称えられた顔は汗と汚れでドロドロだし、かつてはその背に誇らしげになびかせていた艶やかな金髪も、今となっては土埃に塗れ白茶けてしまっている。邪魔にならないようきつく三つ編みに結いたその髪を背後に払って、彼女は自嘲する。
「聖女になれなかった以上、あたしは単なる巫女よ。……その巫女の力すら、封じられて碌に使えないけど」
「俺たちゃあ、学がねえから違いなんかよく分かんねえよ」
「学のあるなしじゃなくて、人の話を聞けって言ってんの!」
「そういや、聖女サマはこの間もナマズ食いてえとか言ってなかったか?」
「ナマズじゃなくて、鰻よ! うーなーぎ!」
「どっちも似たようなモンじゃねえか……」
果たしてそれは、どちらを指しての言葉なのか。
むくつけき炭鉱夫たちに遠慮なく怒っている彼女からすれば、それこそ大した違いはないのかも知れない。
この世界には、複数の神がおり、時折り人や物、場所に加護を与えてくれる。
それぞれ司るものが異なるとは言え、加護を頂く人間からすれば、どの神だろうが神は神でしかない。
なのでこの国では、神の啓示を受けた巫女の中から聖女を一人決め、聖女を通して国そのものに加護を与えてもらうのが習わしとなっている。
教会の枢機卿の半数の承認、議会の七割の賛成、そして王家の血を引く一人の推薦があれば、聖女に選ばれる。
任期はおよそ七年。
そして彼女ベスティアーナが、もう一人の候補者である巫女ミカとの聖女争いに敗れ、収賄やら脅迫やら犯罪教唆やらの諸々の罪で炭鉱窟に堕とされたのが、およそ一年前のことであった。
「ベスティアーナ」
「何よ」
ベスティアーナや炭鉱夫たちは、一人残らず砂まみれの土まみれで薄汚れているが、その中で小綺麗でいるのは、この炭鉱の監督者兼国からの監視役だ。
この監視役は、これまでベスティアーナがどれだけ泣いて同情を引こうが、媚びて誘惑しようが、がんとして冷たい態度を変えなかったので、ベスティアーナからの返事もいささかつっけんどんだ。
「仮釈放だ。迎えがいるから、地上に戻れ」
ベスティアーナは目を大きく見開いた。
「久しぶりだね、ベスティアーナ」
「ラウル!」
にっこりと微笑んで手を振る糸目の男に、ベスティアーナは満面の笑みで駆け寄る。そして、
「こんの、裏切り者がぁぁぁっ!!」
そのままの勢いでドロップキックをお見舞いした。慣性の法則のまま、そのまま背後に吹き飛んだ男は痛てて、と呻きながらも上半身を起こす。そして、へらりと笑う。
「裏切り者とは酷いなあ」
「裏切り者は裏切り者でしょっ! 最後の最後で、あたしを切り捨てた癖に!」
「それは仕方がないよ。僕まで捕まってしまったら、こうやってベスティアーナを助けることもできなかったし」
「一年も放っておきながら、いけしゃあしゃあと……!」
「ほとぼりが冷めるまでは、さすがにねぇ」
苦笑しながら肩をすくめるこの男は、ラウルという。祖母が降嫁した王女という、王族の血がながれる公爵家の子息であり、先の聖女選定の場においてはベスティアーナを推薦した協力者でもある。
「でも、思っていたよりも元気そうで、良かったよ。巫女の力を封じられた上に炭鉱送りになったんだ。酷いことになっていてもおかしくないと覚悟はしていたんだ」
ベスティアーナに差し出された手を取り立ち上がったラウルは、彼女の手の甲に刻まれた火傷痕を見て傷ましげに眉尻を下げる。
かつて、そこには聖印があった。
巫女が神から授けられた力を神力と呼ぶのだが、一年を掛けて身体のどこか一箇所に神力を集め、神の紋を浮かび上がらせる。そして、聖堂に据えられた神器に聖印を押し当てることで、神の加護を国に行き渡らせる。それこそが、巫女が聖女になるために必要な儀式である。
そんな聖女候補の証とも言える聖印を、ベスティアーナは焼き潰されていた。
通常であれば、聖女選定から漏れたとしてもそんなことはされないのだが、ベスティアーナは犯罪者として捕まったので仕方がないと言えば仕方がない。
ベスティアーナはフンと鼻を鳴らす。
「神力を封じられたとは言え、表に出せないだけだからね。体内に巡らせれば、自己治癒も筋力増強もできるわけ」
そして、本来の力からすれば微々たる物だが、喉に神力を集めることで、歌という形で治癒の力を他人に向けることもできた。
お陰でベスティアーナは、荒っぽい炭鉱夫たちの懐柔に成功したのだ。まあ、半分くらいは増強した筋力に物を言わせた部分も無きにしも非ずだが。
「それで、今更あたしを穴蔵から引っ張り出して、何を企んでいるの?」
「企むとは人聞きの悪い」
ジロリと睨みつけるベスティアーナに、ラウルはへろりと笑ってみせる。
だが、ベスティアーナが聖女に選ばれるために練った様々な策のうち半分は、紛れもなくラウルの発案だ。つまり、ベスティアーナが断罪された収賄やら脅迫やら犯罪教唆やらの諸々のうち半分は、本来であればラウルが裁かれるべき案件だったはずなのである。
「ベスティアーナは、聖女選定に敗れたことに納得している?」
「はあ?」
ベスティアーナはジロリとラウルを睨みつける。
納得なんてする筈がない。むしろ後一歩のところで票数を奪われたことには、忸怩たる思いを抱き続けている。
「今から状況を巻き返せるとしたら、ベスティアーナはどうしたい?」
「そりゃあ……」
本心を容易には窺わせない、ラウルの細い目。その糸目の奥に、なんとも形容し難い感情が潜んでいることに、ベスティアーナは気付いていた。
ラウルは利害関係の一致から手を組んだだけの共犯者であり、熱い友情で結ばれた仲間などではない。
それは聖女候補に選ばれる為に、己の望みに向けて暗躍を始めたベスティアーナの前にラウルが現れた時から承知していた。故に、一年前の選定の場で企みを暴かれ糾弾されるベスティアーナをあっさり見捨てた時だって『裏切り者ッ!』と憎らしく思いはしたものの、予想外とまでは思わなかった。
ラウルは公爵の息子であるが、正妻の子ではない。ラウル自身には公爵家の跡取りになりたいという思いはないようで、むしろ母方の一族の意向で始めた商売の方が面白いらしい。
しかしだからこそ、余計な横槍を入れられずに済むだけの力と、国内外への広い影響力を欲していると聞いていた。
「……あたしをなんだと思っているの?」
だがラウルがベスティアーナを使ってどんな計略を企んでいようと、千載一遇のチャンスを逃すなんてことを、ベスティアーナが出来るはずがなかった。
「なんだってやってやるわよ! あの女を引き摺り落とし、あたしが聖女に返り咲く為ならね!」
「うん、ベスティアーナなら、そう言うと思ったよ」
バシンと手のひらに拳を打ち付けるベスティアーナに、ラウルは笑って頷く。
「じゃあ早速、この状況を打開する為に欠かせない人物を紹介させて欲しいかな」
ラウルはそう言って、ベスティアーナを馬車に乗せる。
連れて行かれた先は郊外にある屋敷。過去様々な策を練るにあたって、同じようにラウルの用意した屋敷を拠点や隠れ家に使っていたが、そこはベスティアーナの知らない家だった。
当時は温存していたのか、あるいはここ一年で新たに用意したのか。
ともかく。その屋敷でおよそ一年ぶりに身だしなみを整えたベスティアーナは、応接室で紹介された人物を見て唖然としてしまった。
「久しぶりだな、ベスティアーナ」
「な、なんであんたがこんな所にいるのよ!」
思わず差した指の先が震えてしまうのも仕方がない。
彼の名前はエディナルド。教会関係者にして、この国の第四王子。そしてベスティアーナの宿敵、巫女ミカを擁立した聖女側の推薦者だった。
『意義あり! 彼女が聖女に選ばれる為に犯した罪は、この証拠が物語っている!』
『ふざけんじゃないわよ! いったいどこでそんなもの手に入れたっていうの!? まるで信用に値しないわ!』
『入手先は明かすことは出来ない。だが私が手に入れた物証、そして関係者の証言と照らし合わせれば、信憑性は充分だろう』
かつての聖女選定の場において、ベスティアーナを追い落としたのは巫女ミカだが、彼女をもっとも追い詰めたのは彼エディナルドだった。
近いうちに最年少の枢機卿となることが確実視されている彼は、聖職者とは思えないほどのがっしりとした体躯に常にしかつめらしい表情を浮かべているものだから、その場に佇んでいるだけでも威圧感は充分だ。
だが、ベスティアーナはそんな彼に臆することなく、エディナルドを睥睨する。
「あなたは聖女ミカの信奉者だと思ったけれど、どうしてこんな所にいるの? あの時あたしに言ったあれこれは間違いだったと、今更気が付いたの?」
「いや、貴様を糾弾したことに後悔はない」
エディナルドはニコリともせずに首を振る。淡々と返されたベスティアーナは憮然とした顔を作った。
聖女選定に赴くにあたって、なんの根回しもせずに挑む馬鹿はいない。
負けたベスティアーナだからこそ脅迫だとか裏工作だとか言われて罪を被せられたわけだが、同じようなことをもう一人の候補ミカがしていない訳がないのだ。
勝てば官軍とはよく言ったものである。
「じゃあ何なのよ。あたしが聖女になるってことは、ミカを失脚させるって事よ。分かってるの?」
「承知している」
重々しく頷くエディナルドの目は、濃い鼈甲色をしているが、それが暗く沈んで見えるのは何も光の加減などではないだろう。
「このままミカ様を、聖女にすえて置けない理由があるのだ……」
聖女候補に選ばれるだけあり、巫女というのは只人ではない。
神に選ばれた巫女だからこそ、持ち得る能力がいくつかある。
例えば、与えられた神力を使った特殊な技の行使ーー癒しの奇跡や結界の生成、中には神力を直接敵にぶつけて攻撃に使える巫女もいると言う。
天候を穏やかにしたり、豊穣など加護を分け与えることも、巫女の力の一部と言えるだろう。
そして特筆すべきなのが、ーー神下ろし。
巫女は、己に加護を与えた神を地上に降臨させることができる。
それゆえ民意高揚のパフォーマンスとして何年かに一度、供物を捧げて神にお越しいただくという儀式をこの国の教会は行っていた。
「その神下ろしを、ミカが乱用してるって?」
ベスティアーナは、不可解そのものという表情で首を傾げる。
巫女であるベスティアーナだからこそ分かるが、神を下ろしたからといって何か良いことがある訳ではない。
神を呼んだからといって、力が増すわけでも、加護が増える訳でもない。教師と面談を行なっても成績が上がる訳ではないのと同じだ。
「我々もそう主張しているのだが、ミカ様は神下ろしを止めようとしない。週に一度は神を呼ばれている」
神を呼ぶこと自体、問題はない。良い影響は無いが悪い影響もないからだ。だが、
「供物が、足りない」
重々しく述べるエディナルドに、ベスティアーナは首を傾げる。
「ミカの神の供物って何だっけ」
「死刑囚の手だ」
「とんでもなくコスパ悪いじゃん!」
コスパ? と首を傾げるエディナルドを無視して、ベスティアーナはため息を吐く。
命や心臓など一人につき一つしかないものに比べればマシだけど、それでも人間一人につきかっきり二つしかないものを延々と用意し続けるのには、流石に限界があるだろう。
供物など神に捧げられるものは、それぞれによって異なる。
だが、どの神であろうと国にもたらされる恩恵はほとんど変わらないし、何より何を欲するかによって人間が神の善し悪しを決めることこそが不敬であると言う考えで、この国では供物の中身で神を差別することは禁じられている。
それでも、供物を用意しやすいかどうかと言う目で見られるのは、人間を相手にしている以上仕方がないだろう。
ちなみに、ベスティアーナの神の供物は、罪人の生き血である。
「ミカ様は話の分からない方ではない。供物が足りないと言えば、無理に神下ろしの儀を強行しようとはしないだろう。だが、ミカ様の為に手を回す人間は必ず出てくる」
エディナルドは忌々しげに吐き捨てる。
確かにその懸念は、杞憂に収まるものではない。
大義名分さえあれば、何でもやるのが人間だ。点数稼ぎのために、供物の定期供給を考える輩が現れるであろうことは想像に難くない。
ミカの神の供物は死刑囚由来。冤罪であってはいけない、という条件はない。
「例えそれがミカ様の望みでなくとも、ミカ様が糾弾されることは免れないだろう。であれば、一度聖女の座を退いて頂くのが最も穏当だ」
「あたしがいる以上、二度と返さないけどね」
ベスティアーナは嘲るように笑うが、エディナルドも彼女の陣営に協力を求める以上それは承知しているのだろう。
思ったような反応が得られず、ベスティアーナはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「今更だけど、ミカには言ったの? 神下ろしを控えろって」
そもそもにおいて、聖女を辞めさせる以前に、ミカが神下ろしをしなければ解決する問題だ。
ベスティアーナにすればせっかくの共闘をふいにしかねない問いだが、これほどまでに大きい釣り針をあえて無視するのも馬鹿らしい。
「当然だ。お前とは違って、ミカ様は人の声をきちんと聞き入れてくださる方だ」
「そこであえてあたしを下げる必要はなかったわよねっ。あと、あたしだってちゃんと他人の意見は聞きますー」
「まあまあ」
お盆に茶を乗せたラウルが、ベスティアーナを取りなす。何処に行ったのかと思えば、茶を入れてきたらしい。
ラウルはエディナルドの話は半分も聞いてないが、恐らく男同士ですでにある程度の打ち合わせは済ませているのだろう。
「それで、話はどこまで聞けたのかな」
「ミカが人の話を聞かないってところまで」
「だからミカ様は、我々の要望を無碍にする方ではないっ!」
だが、とエディナルドは鎮痛な面持ちで視線を落とす。
「この件に関しては、何故か首を縦に振ってはくださらないのだ」
「そこにどんな理由があろうと、あたしの知ったこっちゃないわ」
ベスティアーナは鼻で笑う。半ば伏せた金のまつ毛が、彼女の蘇芳色の目に影を落とす。だが、その奥には煮えたぎるような野心と匂い立つ色気があった。
「だけど、ミカに隙があるなら全力でそこを突かせてもらう。悪く思わないで欲しいわね。油断する方がいけないのよ」
「さすがはベスティアーナ! その悪辣さが最高だね!」
「気が抜けるからその合いの手はやめて」
そのままパチパチと手を叩きそうなラウルをひと睨みして、ベスティアーナはばさりと髪をかきあげる。
「それで、これからどうするつもり? 叩き台くらいは練ってあるんでしょうね」
つまらない策だったら承知しないわよ、とベスティアーナは壮絶な笑みを浮かべた。
聖堂の中は、静謐に包まれていた。
立ち並ぶ木製のベンチには誰も居らず、ステンドグラスから差し込む光が、板張りの床に複雑な色合いの模様を描いている。
その光が僅かに届く祭壇の手前。床に広がる白いドレスの裾を虹色に染めながら、一心に祈りを捧げる女がいた。
黒檀のような黒髪の隙間から覗く首筋は雪のように白く、頸椎の僅かな隆起が彼女の嫋やかさをより強調しているようでもあった。
だが、そんな祈りと静けさが支配する空間を切り裂くように、硬い足音が聖堂内に響き渡る。
「ミカ様……」
「エディナルド様!」
ぱっと振り返った少女は満面の笑みを浮かべる。その表情はさながら無垢な幼子のようでもあり、慈愛に満ちた母のようでもある。
聖女ミカ。およそ一年前、祭壇に安置されている黒い石板ーー神器に聖印を押し当て、聖女となった少女だ。
「エディナルド様、どうされたんですか? 今日は特にお約束も、なかったように思うのですが……」
ミカはこてんと首を傾げる。
「もし、何かご用事があるようでしたら、お勤めの後にお時間を取らせて頂きますわ」
体格の良いエディナルドと小柄なミカでは、頭三つ分は背丈に差がある。首をそらして自分を見上げるミカに、エディナルドは沈鬱な表情を浮かべていた。
「その勤めとは、神下ろしの事でしょうか……? ミカ様、神下ろしの儀は聖女の勤めに含まれておりません。どうかこれ以上の神下ろしは、お控え頂けませんでしょうか」
「またそのお話ですか?」
ミカは柳眉を顰め、ため息を吐く。
「我が神に捧げる供物が足りないと言うのでしたら、儀式は延期しましょう。私に取り入る為に、有りもしない罪を捏造する者がいるならば、きちんと罰して、そのようなことが二度と起きないようにして下さい。ですがーー、」
優しげな焦茶の瞳が、ギロリと刃の鋭さでエディナルドを睨みつける。
「私の行動を制限することは、許しません」
「ミカ様……ッ」
慈悲を乞うように、エディナルドはミカの足元に膝をつく。
「ミカ様、何故ですか! 何故そのように頑なに、儀式に執着なされるのですか!?」
「それはこちらの台詞です」
ミカはうんざりとした表情で、頬に掛かった黒髪を耳に掛ける。
「毎度毎度、鬱陶しいのです。大した力も持たない只人の分際で、私の邪魔をしようなどと、烏滸がましいにも程がありますわ」
「じゃあ、あたしが邪魔してあげる」
はっとしたミカが振り返るよりも早く、甘えるようにしなやかに、その首に繊手が絡みつく。
だが細く華奢な腕は、そこからは到底信じられないような力で、ミカの首をギリギリと締め上げた。
ミカは苦しげに顔を歪めるが、後ろ足で相手の足を払うと同時に、己の首を絞める腕を無理やり掴んで前方に放り投げる。
「きゃあっ!!」
ズガシャアンーーッと、酷い音を立ててベンチの群れを薙ぎ倒していった相手は、「あいたたた……」と呻きながらもあっさりと身を起こした。
「もう、酷いじゃない」
「あら、どこの下手人かと思えばベスティアーナ様ではありませんの」
ミカはそんな暴力を行ったとは思えないような、おっとりとした優しげな笑みを浮かべている。
「炭鉱窟で逞しい炭鉱夫たちと仲良くされていると聞いておりましたが、お元気そうで何よりですわ」
「ええ、その通りよ。気の合う友人が沢山できたの。あんたにも紹介してあげようか」
「遠慮しておきますわ」
気軽く立話でもしているかのような調子だが、その間も掴み掛かろうとするベスティアーナの手をミカが弾き、白いドレスの陰から跳ね上がる鋭い蹴りを数本の金髪を犠牲にしつつも紙一重で避けるなど、互いに激しい攻防が続いている。
巫女、そして聖女に何かを強制したいならば、話し合いが決裂したら最後、物理的に無力化する以外に方法はない。
巫女をどれだけ有するかによってその国の武力が決まるほどに、巫女とは特異な存在だ。
そんな巫女を無力化する唯一の方法が、封印である。
教会の封印は呪いに近い。神力に楔を穿ち、じわじわと巫女の力を阻害するが、瞬時に効力を発揮するものではない。
この度の作戦の要は、エディナルドによる封印だが、それでも一度聖女を拘束する必要があった。
ミカの小さくて愛らしい拳が、素早くベスティアーナの薔薇色の頬を掠める。
赤い線が真っ直ぐ一文字に走るが、跳び退さったベスティアーナが親指でグイッと拭った時には、元の通りの陶器のような滑らかな肌に戻っている。
癒しの奇跡ではない。体内に神力を巡らせることによる自己治癒だ。
「やるじゃない」
ベスティアーナは、真っ白なドレスに汚れひとつ付けていないミカを睨みつける。さすがは聖女に選ばれるだけはあって、一筋縄ではいかない。
一方ミカは、不思議そうに首を傾けた。
「ベスティアーナ様とエディナルド様が手を組まれるとは、意外でしたわ」
「ミカ様! 俺は常にミカ様の味方です! ですが、これには事情がありーーっ」
「そういうの、いいから」
慌てたように弁明を行うエディナルドを、ベスティアーナはあっさりと切り捨てる。
「ですけれど、私に敵対するというのであれば、ベスティアーナ様では少々役者不足ではございませんの? 教会の封印は、そう簡単には解けませんわ。巫女の力の大半を封じられた状態で、私に勝とうなどと言うのはいささか無謀ではないかしら」
「そんなの、やってみないと分からないわよ」
ベスティアーナは、再度ミカに接近する。鮮やかな薔薇色に塗られた爪が貫手となってミカに迫るが、ミカはそれを難なくいなす。それでもベスティアーナは攻撃の手を緩めない。ミカはベスティアーナの猛勢を捌いていくが、その勢いに押されて二歩三歩と後退った。
「威勢が良いのは結構ですけど、それだけでは私に勝てなくてよ」
「大きな口を聞いていられるのも、今のうちだわ」
再び、ミカのドレスが虹色に染まる。ステンドグラスが彩る光の柱を踏み越えて、二人が祭壇の前に躍り出たーーその時だ。
響き渡る轟音が、聖堂の中を幾重にも反響する。鋼の弾が鋼の筒から発射される音、即ち銃声だ。
だが、火薬の匂いが周囲に立ち篭めるよりも早く。火線を辛うじて読んだミカが真白いドレスの肩口を真紅に染めながらも、二階回廊へとその手のひらを向ける。
カトラリーより重い物など、持ったこともなさそうな白く柔らかな手から放たれた神力が、真白い光となって二階回廊を破壊する。
「ラウルっ!!」
悲鳴と共に落下した狙撃手ーーラウルの元に、ベスティアーナは咄嗟に駆け寄る。落下の際にぶつけたのか、紫に腫れた手首がおかしな方向に折れ曲がっていたが命に別状は無さそうだった。
「ごめん、外しちゃった」
痛みを堪えているのか、或いは悔しいからか、ラウルは眉根を寄せながらベスティアーナに謝る。ベスティアーナは黙って首を振った。
そんな二人を見ながら、ミカは驚いたように目を見張る。
「その武器、聞いたことがありますわ。確か鍛治神の加護を受けたドワーフの国で、最近開発されたと言うものですわね。流石はラウル様。そんな希少な武器を手に入れられるなんて、国の流通を牛耳る商会の会長に就任された方なだけありますわ」
急所に当たっていれば、私とてただでは済まなかったでしょう、とミカは己の傷口に手を当てる。柔らかな光が癒しの奇跡を施した。
「ですが、どうしてラウル様がベスティアーナ様の味方をされていらっしゃるのかしら。だって」
口調だけは不思議そうに、しかしミカの焦茶色の目は確かに愉悦の光を宿している。愛らしいとも言える整った顔が、心底楽しげに、嘲りに歪む。
ラウルの顔に焦燥の色が走った。
「ミカ、やめろっ!」
「聖女選定において、ベスティアーナ様の不利になる情報を私たちの陣営に沢山提供してくださったラウル様は、裏切り者ではありませんの」
「はああっ!? なによ、それ!!?」
こんな場合にも関わらず、いや。こんな場合だからこそ、ベスティアーナは傍らのラウルを睨み付ける。
あの時、余りにも向こうに都合の良く情報が漏れており、一体どこからと怪しんでいたのだ。それが、こんな所で漏洩元を知ることになるとは。
仲良しこよしの間柄ではないと思っていたし、自分を見捨てたことにすら最後は納得していた。だが、まさかずっと自分を裏切っていたなんて。
ベスティアーナは衝撃冷めやらぬまま、己の思いを吐露する。
「これだから、糸目は信用できないのよ……!」
「違うんだ。ベスティアーナ! 僕はずっと君の味方だ。だけど、あれには事情があって……」
「あらあら、虫の良い話ですわね」
その細い目をかっぴらく勢いで、慌てて弁明しようとするラウルをミカはころころと笑いながら切り捨てる。
ぐしゃぐしゃと整えた髪を掻き乱しながらも、ラウルはミカを問いただす。
「それよりも、ミカ。君がそうやって神下ろしに拘る理由を、いい加減教えてくれないか」
「呼び捨てにするとか、ホント仲良いんですねー」
「違うから、ベスティアーナ! 僕はずっと君一筋だから!」
そもそもベスティアーナが事前に決めていた場所にミカを誘導し、ラウルが狙撃すると言うのが当初の作戦だ。そして、狙撃が失敗した場合には、どうにかしてラウルがミカの隙を作る、と言うのが次善の策となっていた。
今にも仲違いしそうな状況下で、果たしてどこまで有効な作戦かは分からないが。
「そうやって私に矛先を向けることで誤魔化そうとしてませんこと? でもいいわ。邪魔をされることにうんざりしてましたもの。教えて差し上げるわ」
ミカは堂々と己の真の目的を宣言する。
真っ直ぐに前を向き、神なるものへ己が身と心を捧げる誇りが、彼女をより美しく輝かせる。
それはまさしく、聖女の鑑とも言える立ち姿だった。
「私が神下ろしを行う理由。それはーー、推しに会う為ですわ!」
ベスティアーナもラウルも、きょとんとした顔のまま耳を疑う。だが、ミカは止まらない。むしろ頬を上気させ、どんどんとヒートアップしていく。
「魔神バルサダール様こそ、我が神! 私の唯一! ホント無理!」
黒い瞳孔の奥をギラギラと輝かせ、ミカは思いの丈を叫ぶ。
「巫女は聖女になったらご褒美に願い事をひとつ聞いて貰えるけど、バルサダール様には結婚して欲しいと言う願いも恋人にして欲しいと言う願いも却下されてしまったわ! そんな塩対応なところも素敵なんだけど!」
ミカはその時のことを噛み締めるように、自身の身体を強く抱きしめ、くねくねと身じろぎする。
「だけど、デートして欲しいと言うお願いに関しては、了承してくださいましたの! だから私はなるべく沢山神下ろしを行い、バルサダール様にお会いするのですわ!」
爛々と輝く目は、ここまで来ると聖女というよりもいっそ狂信者と呼んだ方が近い。
その告白に、戦闘に巻き込まれないよう離れた所で気配を消していたエディナルドが驚きも露に声を張り上げる。
「まさかそのような事のために……っ!? お願いですから、ミカ様! 正気に戻ってください!」
「五月蝿い」
振り返りもせずに雑に放たれた神力は、直撃こそしなかったものの吹き飛ばされたベンチに押し潰され、エディナルドは悲鳴を上げる。
「私は元より正気よ。ううん、狂気とか正気とか、関係あるのかしら。私は聖女である以前に、魔神の巫女。巫女が己の神を信奉するのは、当たり前のことではないかしら」
だからね、と続けるミカの声は聖女に相応しく優しく慈愛に満ちたものだった。それが、己の神だけに向けられたものであったとしても。
「彼の方との逢瀬を邪魔される事に、いい加減うんざりしているの。私の邪魔をする者はみんな死ねばいいのに」
そう言って、ミカは腕を持ち上げる。ベスティアーナが気付いた時には、最大限に溜め込まれた神力が真っ白な閃光となって迫っていた。
「ベスティアーナ!!」
悲鳴は爆音に掻き消された。
ラウルは公爵家の次男だった。
母は第二夫人だが、純愛ではなく政略によって結ばれた婚姻である。母方の家系は商家だった。
なので、ラウルは公爵家を継ぐのではなく、商会を拡大させることを求められた。
その事については、ラウルも特に否はなかった。そもそもラウル自身には、特段やりたいことはなかったのだ。
ラウルは頭が良かったが、それ以上に大変要領の良い男だった。母方の一族の特徴を色濃く継いだ糸目は美男子というほどではなかったが、人の内側に潜り込むのを特に得意としていた。
愛嬌もあり、察しが良く、マメに動けると言う性質は商売上有利に働いたし、それなりにモテもした。もっとも女遊びに興じるよりは、商売の方がまだ面白いと感じたが。
七年に一度の聖女交代は、商売人にとっても大きなイベントだった。
国全体が盛り上がる時は、人も物も金も動く。それに合わせて商売を動かしていたが、せっかくならひと勝負するのも良いかなと思った。
聖女を擁立する事にしたのだ。
目星を付けた巫女は、聖女候補に選ばれるべく、ちまちまと裏工作に励んでいた。
何をやっているのだと、若干呆れた。
やるならもっとバレないように、効率的に、出来る方法があるだろう。
相手はどうやら下級貴族の娘のようで、そう言った根回しには慣れていないのかもしれない。
それならそれで好都合だと、人の良さそうな顔をして近付く。
向こうも、聖女になるために欠かせない、王族の血を引く推薦者は、喉から手が出るほど欲しいだろう。自分では少し血が薄いが、それも持っていきようでなんとかなる。
巫女は初めは毛を逆立てた猫のように警戒していたが、裏工作の仕方を手解きするとパチクリと大きく目を見開いていた。
「べ、別に感謝してやらない訳じゃないんだからね!」
ちょろ過ぎて、手を組むのが不安になった。
聖女候補として推薦して、やりたい事を助けて、たまに裏から手を回し、必要な助言を行う。
だいぶ自分に慣れてきたと思った所で、紙の束を渡された。色々と助けて貰っているから、そのお礼だと言う。
「言っておくけど、ウィキもないしチャッピーもいないし、クグレもしないから、それ以上はさっぱりだからね! あたしの記憶力の無さを舐めないでよね!」
何のこっちゃと思いながら、紙に目を落とす。彼女が妙な事を口にするのは、今に始まった事ではない。だか、そこに書かれている内容を理解した途端、頭が真っ白になった。
そこに書かれていたのは、これまで存在しなかった新しい仕組みや、珍しい料理法、画期的な道具の発明、の大凡の概要。
中にはすでに存在している物もあったし、アイデアの断片としか呼べないものもあった。だが、これらをうまく利用すれば、かなり大きな商売に発展するのは間違いないだろう。
だが、いくら何でも、彼女一人に思い付ける内容ではない。それは彼女の頭がさして良くないから、という理由だけではない。一人でこれら全部を思い付けるなら、それは稀代の大天才に他ならないからだ。
驚きを隠せず、思わず茫然と彼女を凝視してしまっていたからか、彼女は自分が考えた事ではないと慌てたように首を振り、続けて言ったのだ。
「あたし、前世が異世界人だったのよ」
頭がおかしくなっちゃったのかな、と素直にそう思った。
とは言っても、そうとでも考えなければ今渡された情報に、理由がつかない。
最大の秘密を暴露したことで大分気が緩んだのか、今までの鬱憤を晴らすように盛大に彼女は愚痴を溢していく。
曰く、この世界の衛生観念は最悪である。人権の軽視は我慢ならない。特に主張していたのは食事の事で、この国の食文化の貧弱さには耐えられないと本気で嘆いていた。
どうやら彼女の前世の世界は、随分と恵まれていたらしい。
自分に加護を与えている神にも納得がいかないらしく、何やらブツブツと文句を言っているのだが、そうなると何故彼女は聖女になりたがっているのか。違和感が頭をよぎった時、はたとその理由に閃いた。
『巫女は聖女になると、己の神からひとつ願いを叶えてもらえる。』
まことしやかに囁かれている噂だが、王女であり聖女候補だった祖母を持つラウルは、それが真実であると知っていた。
彼女は、聖女に選ばれたら前世の世界に帰るつもりなのではないだろうか。
動揺のあまり、持っていた紙の束をぐしゃりと握り潰してしまう。
いや、それは駄目だろう。
この世界を、自分を捨てて何処に行こうと言うんだ。
そこでようやくラウルは、自分がこのどうしようもない聖女候補に惹かれていることに気付く。
とんだ物好きだと我ながら思うラウルだが、グダグダと思い悩む前に動くと言う商売人として鉄則に従う。
すなわち、考えるべくはこの聖女候補を捕まえておく為の手筈だ。
まず、聖女にならせるのは駄目だ。この段階で願いを叶えられてしまえば、手の届かないところに逃げられてしまう。
だが、無理やり手元に置いておくと言うのも出来ない。相手は神の加護を得た巫女だ。
いざとなれば、どんな手段であってもラウルの元を飛び出すだろう。
となれば、出来る手段はひとつ。神に頼らずとも、彼女の願いをなんでも叶えられるようになること。
幸いなことに彼女の願いは、人間にも充分叶える余地があるものだった。清潔な家に住まわせ、人として尊重し、美食を用意する。
自分の財力なら叶えられない事もないだろうが、万全を期すなら一族の商会を手中に収めるのが良いだろう。
一族を掌握するのに必要な時間は、およそ一年ほど。
ならば、それまで彼女には大人しくしていて貰おう。
彼女の信に背くことになるけれど、彼女曰く糸目は裏切るものらしいからきっと許してくれる。
そしてベスティアーナを囲い込む為の準備を着々と整えて、ラウルは一年ぶりに彼女の前に姿を見せたのだった。
「ラウル! なんであたしを庇ったの!? 馬鹿じゃないの!?」
ベスティアーナは倒れるラウルを懸命に揺り動かす。
ミカの神力による攻撃。ベスティアーナに向けられたそれの前に立ちはだかったラウルは、当然直撃を受けた。
「あたしだったら肉体強化も出来たし、自己治癒だってできたのに!」
「……それでも、結界や癒やしの奇跡が使えない以上、急所に当たったらタダでは済まないでしょう?」
痛みに顔を顰めながらも、ラウルは笑う。
だがベスティアーナは、それどころでない。血の溢れる傷口を手で押さえながら首を振る。癒やしの奇跡がが使えたら、こんな傷はすぐに治してあげられる。だけれど、巫女の力の殆どを封じられたベスティアーナに出来ることはない。
「ベスティアーナ……。前世の事なんて忘れて、この世界にいなよ。スシも鰻も、なんだって、僕が用意してあげるからさ、だから……」
「は……? なんであんたがそのこと……あっ、炭鉱の監督者ってあんたの!?」
国からの監視だと思っていたが、そこにもラウルは手を回していたらしい。つまり炭鉱窟での出来事は、全部ラウルに筒抜けだった。
「さすがに、ベスティアーナが心配だったから、ね……」
折れた肋骨が内臓を傷付けているのか、咳き込んだ跡に血が混じる。
ジャリっと、床の砂埃を踏みにじる音がする。そんな二人を前にして、勝者らしい悠然とした態度でミカは楽しげに笑っていた。
「あらあら、随分と情熱的ですわね。でも、このままだとせっかくの恋物語も悲劇で終わってしまいますわ」
ミカは良いことを思いついたとばかりに、ポンと手を叩く。
「ねえ、ベスティアーナ様。私に頭を下げて謝って下さい。そして邪魔は二度としないと、あなたの神に誓って下さいませ。そうすれば、ラウル様に癒やしの奇跡を授けて差し上げますわ」
たっぷりと慈悲を滲ませた声で、ミカは提案をする。神に誓うことは、巫女にとって絶対的な制約となる。誓いの解釈によっては、それは相手への絶対服従を強いるものにすらなる。
ベスティアーナ静かな目で、ミカを見上げる。
「そうね……。確かにこの状況下では、それが最善の方法かもしれないわね」
「ええ、そうですわ。私はこの国の聖女として、偽りなく彼を癒して差し上げます」
「だけどあたしは……、この世に生まれる前から、他人に頭を下げるのが大っ嫌いなのよね!」
そう宣言して立ち上がったベスティアーナは、一目散に走り出す。逃げ出すのかと思いきや、彼女が向かったのは聖堂の奥、祭壇だった。
「どうなさるおつもりかしら、ベスティアーナ様。神器の石板を人質代わりにする? 私は困りませんわ。それとも、ベスティアーナ様も聖女になられる? ベスティアーナ様には、聖印がないのでしたわね」
ベスティアーナの行動を意味のない時間稼ぎと断じて、余裕たっぷりにミカは首を傾げる。
だが、石板の前に立ったベスティアーナはニヤリと笑った。
「あたしが一年間、ただ黙々と石炭を掘っていただけだと思う?」
馬鹿にするように、あっかんべーと舌を出す。
ミカはギョッとして目を見開いた。
教会の封印の効力は、神力を表に出せなくなること。だから、体内における神力操作までは制限できない。そして、ーー口の中は体内に含まれる。
ベスティアーナは指の皮膚を噛みちぎり、血を流す。
罪人として炭鉱窟に堕とされたベスティアーナの血は、神への供物として充分使えるだろう。
「我が神、邪神ゼフィール! 聖女となるあたしに、祝福を!」
ベスティアーナは、舌に浮かんだ聖印を石板に押し付けた。
前世のベスティアーナは、大した人間ではなかったのだと思う。
彼女自身、前世のことはろくに覚えていないけれど、面白みのない生き方をして、そのまま死んだのだろう。
だけど、そんなつまらない人生の唯一とも言える拠り所が、食事だったことはしっかりと記憶している。
寿司に鰻に焼き肉にスィーツ。
美食だけが、日々の彩りだったのだ。
『ベスティアーナ。貴女と直接会話をするのは、貴女を巫女に選んだ時以来ですね』
真っ白な空間は、恐らくは現実の世界ではないのだろう。
目の前にいる人型のシルエットは、認識できるようで脳内でうまく像を結べない。
邪神ゼフィール。
ベスティアーナに加護を与えた、この世界の神だ。
「ゼフィール、聖女になったら願いを一つ叶えてくれると言うのは嘘じゃないわよね」
『そうですね。自分の巫女が出世をしたんですから、お祝いのひとつはしてあげますよ』
「じゃあ御託はいいから、願いを叶えて」
この世界のことは、本当はあまり好きではなかった。
清潔感はないし、あっさり人が死んでおっかないし、何よりもご飯が美味しくない。
だからベスティアーナは、元の世界の美味しいものをもう一度食べたいと、ただそれだけを願って頑張ってきた。だけどーー、
「あたしの願いは……」
ベスティアーナは顔を上げると、自分の神に向かってはっきりと願いを口にした。
聖堂の中は静まりかえっていた。
ステンドグラスから差し込む日の光が、誰もいない床を虹色に染めている。
張り直されたばかりの床材は、木の香りがしそうな程に真新しい。二階回廊と一緒に、修繕が終わったばかりなのだ。
神器の黒い石板のある祭壇より、いくらか下がったベンチの一列目。まるで祈るように組んだ手の上に顎を乗っけて、万感の思いを呟く女がいた。
「お腹、空いたわ……」
そんな彼女の元に、足取りも軽やかに近付いてくる姿がある。
「ベスティアーナ!」
「……あらわれたわね、裏切り者」
「それ、いい加減許してくれないかなあ」
ラウルは、元からの糸目をさらに困ったように細めて、肩を落とす。
「それよりも、聖女就任おめでとう」
「そうね」
ベスティアーナはさして熱を感じさせない声で、あっさりと頷く。それよりも、と改めてラウルを見上げた。
「怪我の具合はどう?」
「お陰様ですっかり」
ラウルは軽く肩をすくめる。
ラウルの酷い怪我を癒したのは、他ならぬベスティアーナだった。
あの時ベスティアーナは神に、己の封印をミカに移し替えることを願ったのだ。
ベスティアーナと入れ替わりに巫女としての力の大半を封じられたミカはその場で拘束され、聖女の役割を果たせないものとして引退になった。今は、エディナルドの元で保護されているらしい。
「……エディナルドにとっては、それが一番の目的だったろうしなあ」
「なんか言った?」
「ううん、何にも。でも、本当に良かったのかい?」
「文句でもあるの」
ラウルの質問に、ベスティアーナは眉間に皺を寄せて聞き返す。
ミカを無力化し、自身の力を取り戻す為にはあれが最善手だったはずだ。
「そうではなくて」
ラウルは何処か困ったような顔で視線を落とす。
「ベスティアーナには、叶えたい願いがあったんだろう?」
いつも異様なほど朗らかなラウルにしては、珍しい表情だ。ベスティアーナは溜息をつく。
確かに聖女になることは、ベスティアーナにとっては目的ではなく手段だった。そして、それが分かっていて彼女の邪魔をしたのはラウルだろうに、何故今さらそんな顔をするのか。
「別にいいのよ」
衛生問題については炭鉱窟での生活で強制的に慣らさせられたし、自分を選んだ邪神という存在についても、聖女を争った相手が魔神の巫女だったこともあり、そう言うものなのかとようやく納得がいった。
何より、
「美味しいものは、あんたが食べさせてくれるんでしょ?」
「うんっ」
ぐいっと襟首を掴んで引き寄せると、ラウルはひどく嬉しそうな顔をする。
「スシについては、南国から輸入した米の品種改良と職人の技術力向上にもう少し時間が掛かるけど、君の言っていたしょーゆと言うソースが見つかったから、鰻の方はそろそろいけると思うよ」
「ほんと!? そしたら絶対にあたしのいた炭鉱窟に差し入れしてよね。あたしのこと、ゲテモノ好き呼ばわりした連中を、絶対にぎゃふんと言わせてやるんだから」
にんまりと笑って手のひらに拳を打ち付けるベスティアーナを、ラウルはいささか心配そうに見る。
「ベスティアーナ、まさかあそこで恋人とか作ったりしてないよね……?」
「そんなわけないじゃない。そもそもあんた、監視役に手を回してあたしのこと見張ってたんでしょ」
「その監視役にも粉掛けてたし……」
「それは早く炭鉱を出たかったからであって、あそこに送り込まれる原因を作ったあんたには言われたくはないわよ」
「それは確かに僕が悪かったけど……。ベスティアーナ、待ってよ。お願いだから!」
ぷりぷり怒って聖堂から出ていこうとするベスティアーナを、ラウルは慌てて追い掛ける。
「あーあ、早くお寿司も食べたいな」
しみじみと、だけど何処か嬉しげに呟く聖女の声が、静かな聖堂に厳かに反響する。
ステンドグラスから差し込む虹色の日の光を、黒い石板が鈍く反射していた。
おまけの裏設定
国
任期制で主神を決める国は結構珍しい。
他所では善性の神しか認めないとしている国も、当然ある。
ちなみに以前の主神は、争いの神。
国民はその加護でちょっとだけレスバが強くなっていた。
ミカ
異世界召喚されたとかではなく、普通にこの世界出身。
善性の神しか認めない国で魔神の巫女に選ばれた為、亡命してきた。
それなりに良い身分だったが、本名と共にすべて捨てている。
彼女が聖女だった間、魔神の加護で国民は微妙にささくれが剥けにくかった。
ベスティアーナ
異世界転生した巫女。
寿司はいっそ自分で握ったほうが早いのではと思い始めている。
邪神の加護の影響で、国民は少しだけ鼻血が止まりやすい。
作中強さランキング
前任聖女(争いの巫女) > 魔神の巫女 >= 邪神の巫女 >(越えられない壁)> エディナルド >ラウル
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