史的な夜話 其の二十三
ヨ:あのぉ。
ト:はいはい。
ヨ:今日は、なんでしょうか?
ト:以前、確か十四回目の史的な夜話で秀吉の話をしたやないですか。
ヨ:なんか、そないな記憶ありますね。
ト:秀吉の実子と養子に秀勝という名前の人が合わせて三人居るって言う話、覚えてる?
ヨ:言われたら、思い出しましたよ。
ト:思い出してくれて良かったよ。
ヨ:それが、今回に繋がるんですね。
ト:あの後、もう一回、調べてみたんですよね。
ヨ:そうなんや。それで、なんかわかりましたか?
ト:最初の秀勝、石松丸秀勝なんですけど、唯一の肖像画が残っていたお寺が、長浜市の妙法寺って言うお寺なんですけど、このお寺は日蓮宗なんですよ。残念ながら肖像画本体は焼けてもうて、今は写真しか残ってないんですけどね。
ヨ:また、日蓮宗出てきた。
ト:これが重要なんですよ。秀吉のお姉さんの智さんは日蓮宗の熱心な信者さんで、文禄五(一五九六)年には瑞龍寺というお寺を建てるんですね。その後には慶長五(一六〇〇)年に善正寺って言うお寺も建てるんですよ。
ヨ:息子三人に先立たれてはったんですよね。
ト:瑞龍寺も善正寺も日蓮宗のお寺なんですよね。だから、石松丸秀勝もあるいは智さんの子では無いか、その様にも言われてるんですよ。
ヨ:そう言えば、今更やけどこの石松丸秀勝って人、生まれた年とか正確なことはわからへんねやろ。なんか可哀想な気ぃするよね。
ト:当時の人らは皆知ってたんやろうけど、
誰かが紙に書き残さんやったら、永遠の謎になるんよ。うちらかてそうやで、百年後、二百年後の人らからすれば、存在すらしてなかったことにされる可能性大やからな。
ヨ:そないなもんかねぇ。
ト:そないなもんよ。
ヨ:他になんか、面白い話でもあるんですか。
ト:織田信長の家臣団に木下さんが何人か居るんですね。
ヨ:秀吉って、木下藤吉郎でしたよね。
ト:織田信長の家臣団には木下雅楽助、木下助右衛門、木下祐久、木下太郎と少なくとも四人の木下さんが居ったことはわかってるんやな。他にも居たやろうけど、記録が残っとるんはこの四人なんよ。それで最初の木下雅楽助は織田一族と言われてるんよ。だからあるいは秀吉の家も由緒のある家やった可能性もあるわけなんよ。
ヨ:秀吉が織田一族やったら、歴史変わってまうやんか。
ト:まぁ、可能性としてはかなり低いとは思うけどね。
ヨ:低いんかい!
ト:まぁ、でも、木下という苗字が珍しいわけでも無いし、元々名のある武士の家だった可能性も残るわけよ。
ヨ:なんか、秀吉って貧乏な農家の出って言うイメージがもの凄くあるんやけど……
ト:でもさ、自腹で大坂城建てたんやで。あの天守閣に昇って、最上階から世間とか見たら、若い頃は貧しかったなぁ、そうなるよ。本来ならばお公家さんにしか回ってこない摂政、関白という役職まで登り詰めたんやから。
ヨ:今の大坂城って、周りに大きなビルが建ち並んどるから、なんか実感湧かんよ。
ト:面積も今の三倍か四倍かあって、そこに建てもんが一杯並んどったんよ。家臣の屋敷もあったやろうし、日本のほぼ全てが秀吉の思うままやってんから、若い頃に貧しかったというても、額面通りに受け取ってええのかどうか、わからへんところよ。
ヨ:今で置き換えたら、田中角栄さんが自腹であべのハルカスとか、東京スカイツリーを建てたような感じやろうか。
ト:まぁ、そないな感じやろうなぁ。多少、違うような気ぃもするけど。
ヨ:秀吉が貧乏農家の出ぇでも、貧乏侍の子でも、どうでも良うなってきたよ。
ト:次の話はですね、なんで秀吉は若いときに、数年とは言え他所の家へ仕官したか、その点ですね。
ヨ:そう言えば、信長に仕える前って松下加兵衛に仕えてたって、有名な話よね。
ト:実は松下加兵衛之綱って秀吉と同じ天文六(一五三七)年に生まれて、同じ慶長三(一五九八)年に亡くなってはるんよ。
ヨ:仲良かったんやな。
ト:それは知らんけど、秀吉が仕えたんは加兵衛や無うて、加兵衛のお父さんの長則さんや無いか、そうも言われとるんよ。同い年でも使いっ走りとして仕えていたかもしれへんし、どっちが正しいかは、秀吉と加兵衛さんだけが知っとる話やろうな。
ヨ:それが気になってはるんかいな。
ト:この話も気になるけど、なんで秀吉は東を目指したのか、そこが気になったんよ。例えば北に行けば斎藤道三の領土である美濃国があるし、西へ行けば近江国、京都もあるわけやん。なんで尾張国から三河国を越えて遠江国の松下さんところに就職したんか、これも一つの謎と言うか、あんまし具体的な説明が無いんよ。
ヨ:そうなんかいな。
ト:少なくとも秀吉が松下家に仕えたんは事実で間違い無うて、後々、松下さんは秀吉に誘われて、家臣団に加わるんよ。加藤清正や福島正則みたいな、秀吉の周りを固める大物の扱いでは無いけど、若い頃にお世話になった人って言う、そのことは周りにもしっかりと伝えてたみたいやで。
ヨ:ふぅ~ん。
ト:それで松下加兵衛の長男は地元に残って屋敷を継いで、次男は大名にはなったけど、二代ぐらい後で一悶着あって旗本へと降格になるんよ。
ヨ:ありゃまぁ……
ト:それでも松下家は残って明治時代を迎えるんよ。
ヨ:大河ドラマの主人公にはならんでも、それぞれにドラマがあるんやね。
ト:そうなんよ。大河ドラマが続いていったら、百年先、二百年先には松下加兵衛を主人公にしたドラマが制作されるやもしれへんよ。
ヨ:秀吉の幼なじみというか、若い頃を知っとる人の視点で秀吉を描くのも新しいかもしれんよね。
ト:脇役から主人公を「視る」みたいな感じかな。
ヨ:そう言えば、松下加兵衛さんはどこに住んどったんです?
ト:今の浜松駅から東南に少し行ったところに頭陀寺というお寺があるんですよ。そこに頭陀寺城って言うお城があって、そこの城主やったんですよ。管轄としては浜松城の城主に従う立場なんですよ。
ヨ:お城って聞くと、どうしても大きな建物を思い浮かべるけど、それは間違いなんやろ。
ト:信長以前には、立派な天守閣も無いし、平屋の木造住宅を思い浮かべるのが普通ですよね。今でも城下町が綺麗に残っている土地も有りますし、武家屋敷がほぼ手つかずで残っているとこもありますが、そう言う武家屋敷を思い浮かべた方が早いかもしれませんよ。ヨ:あぁ、なるほど、ね。
ト:この時代はまだ浜松城や無うて引馬城って呼ばれてたんですよ。面倒やったら浜松城で押し通しても怒られはしませんよ。
ヨ:ほんまかいなぁ。
ト:引馬城は曳馬城、引間城とも表記されますが、基本的には曳馬城が正しいようですよ。
ヨ:試験に出てきたら曳馬城って書かな罰点か?
ト:どうなんやろ?わしが先生やったら、浜松城でも○にするけど。
ヨ:ほな、浜松城って書いとくし。
ト:減点!
ヨ:え~っ!
ト:冗談はさておきまして、今でも頭陀寺と同じ敷地に頭陀寺城の跡があったり、近くに松下屋敷跡があったり、地方の一武将の痕跡が辿れるようですよ。
ヨ:確か、浜松城って出世城で有名でしたよね。
ト:江戸時代に入ってからの話ですけどね。でも、徳川家康も浜松城に入ってから、天下を獲りましたから、皆さん、縁起を担がはったんでしょうね。
ヨ:それで、なんで秀吉は浜松城や無うて、頭陀寺城の松下さんの処に仕えたんやろうか。
ト:そこが謎なんですよね。この時代、いきなり見ず知らずの土地に行って、採用して下さいって頼んで採用して貰えるのか、そこも疑問やし、松下さんにコネでもあったんかもしれんですよ。
ヨ:ほんまに謎だらけやなぁ。
ト:浜松城の城主は飯尾さんって言うて、今川家の直接の家臣で、松下さんはその飯尾さんに仕える立場やな。今川さんからすれば地方の侍ぐらいの扱いになるんやな。いつ、戦争が起きるかわからへん時代やし、とりあえず頭数を増やす意味でも雇ったんやろうか、そないも思とるんよ。
ヨ:なるほど。
ト:秀吉が信長に仕えたんが天文二十三(一五五四)年と言われとって、それ以前の三年ぐらいを松下さんに仕えとったと言われてるんよ。秀吉は天文六(一五三七)年の生まれやから、十四歳とか十五歳ぐらいで地元を離れてはるんよ。
ヨ:今やったら中卒で働きに行く感じやろか。
ト:それはわからへんけど、この時期に何があったんか、そこは気になったんよ。
ヨ:それで、なにかわかったんですか?
ト:まず、秀吉が生まれた翌年に那古野城が織田家に奪われるんですよ。
ヨ:いきなり那古野城ですか?
ト:前に、史的な夜話の九回目で今川さんを扱うたと思うけど、覚えてる?
ヨ:さっぱり忘れた。
ト:まぁ、ええねんけど、那古野城、今の名古屋城と同じ場所に那古野城があって、そこに今川義元の身内の氏豊さんが城主として居ってんけど、いい加減目障りや言うて、信長のお父さんの信秀さんが追い出したんやな。
ヨ:ありゃまぁ……
ト:幸い追い出されただけで、後に駿府へ戻ったらしいねんけど、考えたいのはここで、氏豊って一人だけで那古野城を守っていたわけでは無くて、当然、部下とか、一般の足軽雑兵も含めて色んな人が今川家から派遣されてたと思うんよ。地元で採用された人も居るやろうけど、自分の周りには今川家に代々仕えている人で固めてた、と。
ヨ:うんうん。
ト:だから、秀吉のお父さんが実は今川家の家臣とか、もしくは松下さんと同じぐらいの立場やったんやないかって考えたんよ。信秀さんが那古野城から氏豊を追い出す時、当然ながら血ぃも流れとるから、信秀によって殺された可能性もあるよ。あくまでも個人的な推理やけど。
ヨ:はぁ、なるほど。
ト:それで、秀吉のお母さん、仲さんって言うねんけど、この仲さんの生まれが今の名古屋市昭和区にある御器所村と言われとって、秀吉なんかが生まれたのは那古野城を挟んで反対側の中村区にある中中村って言われとるんよ。だから那古野城に勤務する武士と仲さんが結婚して、中中村に新居を構えたとか、そないに考えてんけど、なんか説得力に欠けるなぁ、とも思うんよ。どない思う?
ヨ:どない思うって聞かれても、知らんがなって言うたるよ。
ト:前にも言うたか知らんけど、仲さんの姉妹には福島正則のオカンが居ったり、小出秀政の嫁と、青木秀以のオカンも仲さんの妹で、従姉妹に加藤清正のオカンが居ったりもするやん。
ヨ:身内に福島正則と加藤清正が居るってだけで凄いとは思うけど、青木さんと小出さんは初めて聞くよ。
ト:今は面倒やから省略してかまへんか?
ヨ:うん。
ト:個人的には仲さんが実はある程度の財力を持っていたか、それとも土地の有力者か、地主みたいな感じやないか、そないも思とるんよ。
ヨ:女性の地主ってあるんかいな。
ト:女性の城主もこの時代、何人か居たんですよ。大河ドラマにもなりましたけど、井伊直虎もその一人ですし、さっき出てきた曳馬城の城主である飯尾さんが亡くなった後、お田鶴の方って言う嫁はんがしばらく城主として頑張ったりしたんよ。戦国時代やから、夫が戦場に出たりしたら、嫁が留守を守らなあかんやろうし、行ったきり帰って来うへんかったら、嫁が家族や財産を守らなあかんやろうし、大変やったと思うで。
ヨ:なんか肝っ玉母ちゃんを思い浮かべるよ。でも、行ったきり帰って来うへんって言うんは、辛いよぉ。
ト:まぁ、そうやねぇ。でも、肝っ玉母ちゃんて言うのは、上手いこと言うとるやもしれんよ。
ヨ:そうかね。
ト:なんて言うんか、秀吉が信長に仕えた後にさ、色んな場面で人数が必要な時ってあるやん。地主とかやったら、集まれって言えば済むやん。
ヨ:済むんかい!
ト:村の若者集めて、信長に軍団に加わって褒められる、的な。
ヨ:福島正則や加藤清正にも親戚が居ったやろうし、それだけでも十人、二十人って人が集まるんやろうな。
ト:戦争になれば、人数多い方がええに決まっとるやん。中中村の仲さんが、村の若者に声掛けて、秀吉がその若者を引き連れて戦争に行くとか、そう言う場面もあったやもしれへんよ。
ヨ:あんまし想像でけへんよ。
ト:まぁ、仮説やから、なんとでも言うてくれ。
ヨ:それで、話は続くんですね。
ト:仲さんが再婚した相手、織田家の茶坊主って言われてる筑阿弥さんにも苗字があったと思うんやけど、それもわからへんやん。
ヨ:ほんまに、謎だらけやん。
ト:もしかすると仲さんが持ってる財力とか、もしくは中中村の若者全部を取り込みたくて筑阿弥が婿にきたとか、そないな推理を立ててるんよ。
ヨ:ふぅ~ん。
ト:そもそも貧しい家に茶坊主が婿に来るって、なんかおかしいやん。思わん?
ヨ:わからんよ。貧しいもん同士仲良くしようとか、そないな感じやったかも。
ト:話が行ったり来たり、跳んだり跳ねたりで申し訳ないんやけど、秀吉が松下さん家に仕えた頃って、今川家が少しずつ尾張へ近付いていた時期なんよね。
ヨ:まだ続いとったんかいな。
ト:天文十八(一五四九)年十一月に三河国の安祥城が今川家によって落とされて、翌年の八月には知多半島の水野信元が今川に降服して、さらに天文二十年の十二月には鳴海城の山口教継って人まで今川に付きはって、織田家が不利になる一方やってんな。しかも天文二十一年の三月には信秀さんも亡くなるし、織田家に賭けてもしゃぁないって思て、秀吉は今川家に仕えたい、そない思て東を目指した可能性はあるよね。
ヨ:ところで、鳴海城ってどの辺り?知多半島はわかるけど。
ト:名古屋市緑区に今も鳴海って言う駅もあるし、城跡もあるよ。
ヨ:そうなんや。あとで地図でも見てみるよ。でも、秀吉は帰ってきて、信長に仕えたんやろ。
ト:信秀さんは天文十八年の秋冬辺りから病んではったみたいなんよね。信秀さん、斎藤道三とは相性が悪かったみたいで、何回か負けて、道三と和睦して、天文十七年に信長の嫁さんとして道三の娘を迎えるんよ。
ヨ:負けとるのに、娘さん迎えられるって凄くない?
ト:等価交換の原則やないけど、信秀も相当な対価を支払ったんやないやろか。
ヨ:対価ねぇ……
ト:信秀さんが亡くなって一年後ぐらいに信長は道三と会見してるんですよね。
ヨ:どこかのお寺でしたよね。信長が長柄の槍と鉃炮で武装して、道三がビックリしたんですよね。
ト:変なことだけよう覚えてはるし。
ヨ:そない褒めんでも……
ト:褒めとりゃぁせんよ。
ヨ:それで、なんの話でしたっけ?
ト:秀吉が松下さんの所を離れて、実家へ戻って信長に仕えるんですよ。
ヨ:それは何故?
ト:信長の強さみたいなのを知ったのか、それとも信長と道三の会見を知って、信長に賭けてみようと思ったのか、なんでしょうね。
ヨ:結局、なんもわからへんままなんやな。
ト:そうですね。
ヨ:それで終わり?
ト:ぃゃぃゃ、もう少し続くんですよ。
ヨ:続くんかい!
ト:どこから話そうか?
ヨ:なんでもかまへんよ。
ト:以前、随分と前なんやけど、図書館で姓氏事典かなんか読んどって知ってんですけど、山形県にも羽柴って苗字の人が居るんですね。橋間勘十郎さんって言う武将が居って、武勇に優れてたって書いてあったんですよ、確か。それで秀吉が橋間勘十郎さん、別名羽柴勘十郎さんの武勇にあやかって羽柴藤吉郎を名乗ったのでは無いかって言う仮説を立ててみたんですけど、この橋間勘十郎さん、弘治四(一五五八)年の生まれで亡くなったんは天正十二(一五八四)年なんですね。秀吉が羽柴を名乗り始めたのは元亀三(一五七二)年の八月と言われていて、羽柴勘十郎の武勇にあやかるには、ちょっと合わないと気ぃ付いたんですよ、最近ね。
ヨ:秀吉が有名なんにあやかって、橋間勘十郎が発音も近いし、羽柴勘十郎に変えた可能性があるわけやな。
ト:そうなんよね。それで最近、「はしば」か「はしば」に近い発音の土地が、どこかにないかって探したら、浜松駅から東へ一駅、天竜川駅で電車を降りて北へ徒歩十分ちょい歩くと橋羽っていう地名があるんですよ。
ヨ:JR東海ですな。
ト:今は浜松市中央区天龍川町って言うことで、住所表記としての橋羽は消えてもうてんけど、郵便局とかバス停には橋羽って名前が残ってるんよ。これを「はしわ」と読むか、「はしば」と読むかでも変わるんやろうけど、橋羽の藤吉郎が丹羽長秀、柴田勝家にあやかって羽柴藤吉郎へと変わったのではないか、その様に考えとるんよ。また秀吉の父親や父方の親族が出てこないのは、今川の人間だったからとも言えるんやけど、説としては弱いかな。
ヨ:そう言えば、筑阿弥の親族も出てこないよね。
ト:可能性としては京都辺りから流れてきて、尾張国の周辺に身内が居なかったとも考えられるけど、説としてはこれも弱いかな。
ヨ:筑阿弥一家が秀吉と相性悪かったとか?
ト:そう言う可能性もあるよね。
ヨ:柴田勝家も仲悪かったって言うやん。
ト:喧嘩別れしたって言う話もあるけど、実際にはそこまで仲が悪かったわけでは無いみたいよ。
ヨ:そうなんや。
ト:最後に一つ、宜しいですか?
ヨ:もぉ、なんでも言うて下さい。
ト:橋羽にさ、妙恩寺って言うお寺があるんですよ。
ヨ:まさか、日蓮宗のお寺とか言わんよね。
ト:日蓮宗のお寺なんですよ。
ヨ:それ、秀吉となんか関係有るんですか?
ト:無いんですけどね。三方原の合戦の時、家康が武田信玄に負けて逃げるんですけど、その時、浜松城までもうちょいってところで妙恩寺に逃げ込むんですよ。住職の日豪って言うお坊さんなんですけど、この人が家康を天井裏に隠したと伝わってるんですね。
ヨ:それで家康は無事やったんやな。
ト:無事やってんですけど、この日豪さん、実は武田信玄二十四将の一人、馬場美濃守信春の末っ子で本来なら、家康を突き出さなあかん立場やのに、かくまって武田の兵が捜しに来ても読経を続けたとか、そう言う伝説が残ってるんよ。
ヨ:なんでそこで家康を突き出さんやったんやろうなぁ。
ト:そないなことしたら、歴史変わってまうやんか。
ヨ:言われたらそうやな。
ト:伝説なんで、気にせんでええですよ。
ヨ:そないなこと言うんやったら、最初っから話し無いや。
ト:すんまへんな。
ヨ:ところで……
ト:なんでしょ?
ヨ:本能寺の変は?
ト:さぁ……
ヨ:さぁ、や、あらへんがな。どないすんのよ。
ト:そない言わんでもその内なんとかしますがな。
ヨ:その内……ねぇ……
ト:最後にもう一つ、宜しいか?
ヨ:なんでっか?
ト:羽柴って言う苗字は今でも使われてるんですよ。
ヨ:そうなんや。
ト:秀吉の奥さん居ますやん。
ヨ:ねねさんでしたっけ。
ト:漢字表記やと「於寧」や「寧子」に「寧々」とかあるんですけど、この件については、興味があればWikipediaでも読んで下さい。
ヨ:それで?
ト:大坂夏の陣が終わった後、ねねさんは自分のお兄ちゃん、木下家定さんの孫に利次って子が居ってんけど、その利次を養子に迎えて羽柴利次を名乗らせるんよ。でも、ねねさんが亡くなった後、幕府から羽柴を使うことを禁じられて、旗本木下家として存続を許されるんよ。
ヨ:あれまぁ……
ト:後は社稷を相続って言うから、豊臣家の位牌とかを守っていけ的な意味でしょうね。
ヨ:ひっそりと豊臣家の供養を続けなさいってことやな。
ト:そうでしょうね。でも、これで羽柴家が消えたわけでなく、明治になってから復活するんですよ。
ヨ:旗本木下さんが復活させたんですね。
ト:残念!家定さんの子孫で別系統があるんですけど、その家の人が羽柴の苗字を復活させるんですよ。
ヨ:へぇ~
ト:交替寄合木下家って言うのがあるんですけど、そこの人が羽柴の苗字を使うんですね。
ヨ:当然ここで、なんでって聞かなあかんねやろ?
ト:簡単に言うと豊臣秀頼の子供に国松って言う子が居ったらしいねんけど、この子が九州まで逃げ延びて、大分県の日出町にいた木下さんの家に隠れて、そこから独立して交替寄合として江戸時代を生き延びたとか、そう言われてるんよ。
ヨ:上手い具合に落ち延びたんやなぁ。
ト:あくまでも伝説なんやけど、一方で伝説という一言で済ませても良いのか。、そう言う事件もあるみたいで、謎は残ってるみたいですよ。
ヨ:具体的には?
ト:ご家老が自害しなすったり、延由さんって言う殿様の位牌にちゃっかり豊臣って記してあったり。
ヨ:それこそ徳川家に見付かったら、怒られる奴やん。
ト:そうなんですよね。でも、豊臣氏であることを否定する必要も無かったみたいで、幕府が制作を命じた系図類には豊臣氏って書いていたらしいし、無駄に謎が残るんですよね。
ヨ:結局、今回も謎が残るままに終わるんですね。
ト:申し訳ないねぇ。
ヨ:ところで、最後に一つ聞いてもよろしいか?
ト:なんでしょう。
ヨ:交替寄合って……
ト:はいっ、自分でWikipediaを読んでね!




