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追放令嬢ジェルジの山あい行灯店 ――宵闇の村でもふ獣人と灯す、ぬくもりごはんと旅の夜――  作者: 乾為天女


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第6話 山ごはんと小さなキャンプ

 作業小屋の骨組みが見えるようになると、宿の裏手の空気まで少し変わった。


 朝から木を削る音が響き、昼には湯の匂いが流れ、夕方になると誰かが自然に立ち寄って柱の具合を眺めていく。まだ壁もない、床も半分しか張れていない。それでも「何かが始まっている場所」には、人の足が向くものらしかった。


 その日も、ジェルジは食堂の卓へ工具を広げ、折り畳み式の焜炉の図を引いていた。宿で出す汁物や焼き物を、そのまま裏庭や山道の休憩地でも扱えるようにしたい。重い鉄鍋を毎回運ぶのではなく、持ち運びしやすく、火の回りだけ安定させる小型の火床があれば、旅人はもっと長くこの村へ留まる。そう考えて、昨日の夜から形を練っていたのだ。


 「脚が開いて、ここで止まる。火皿は浅すぎると炭がこぼれる……」


 独り言を落としながら、紙の上へ線を引く。金具を増やせば丈夫になるが重くなる。軽さを優先すれば、熱で歪みやすい。王都で舞台灯を組んでいたころにも似た悩みはあったが、舞台の装置と山道の火床では、耐えてほしい乱暴さが違う。


 「また難しい顔してるね」


 帳場の向こうで銅貨を数えていたアリーが言った。


 「顔に出ていますか」

 「出るとも。額の真ん中に『あと一つ決まらない』って書いてある」

 「それは消したいですね」

 「消したきゃ、誰か別の手を借りな」


 ちょうどそのとき、裏口のほうで賑やかな声がした。聞き慣れない男の声だった。笑っているような、歌っているような、鍋の蓋が鳴る音まで混ざっている。


 「着いたぞーう! 誰か腹の空いた顔をしていないか!」


 アリーが片眉を上げる。

 「したね」

 「何がですか」

 「祭りみたいな男が、宿の裏へ一人流れ着いた音が」


 戸が勢いよく開いた。


 入ってきたのは、大きな背嚢を背負った男だった。髪は風に煽られたまま結び損ねたように後ろで跳ね、外套の裾には煤がついている。背には鍋、腰には木杓子、肩からは干した肉と香草の束。荷物だけ見れば荷駄屋と料理人と旅芸人をひとまとめにしたようだった。


 「よう、宿の人。沢向こうで荷車がひっくり返ってな。手伝った礼に茸と根菜を山ほどもらった。だが一人じゃ食い切れん。だから来た」


 言い終える前に、男は背嚢を卓へ下ろし、中から本当に山ほどの食材を出した。小振りの茸、曲がった人参、丸い根芋、燻した肉、乾いた豆、それに包み紙へくるまれた黄白色の脂。


 ジェルジは目を瞬いた。

 「来た、の理由が大胆ですね」

 「食えるものは勢いのあるうちに食うのが一番だ」

 「名乗りは」

 「アラシュ。鍋一つで寝床代を稼ぐ男だ」


 そう言って胸を張る姿があまりにも迷いなく、アリーは肩を揺らした。


 「確かに顔は売ってるね。去年の秋祭りで、広場の端に勝手に鍋を置いていた料理人だろ」

 「勝手じゃない。村長が『端ならいい』と言った」

 「言い方を変えただけだよ」


 アラシュは気にした様子もなく食堂の竈を覗き込んだ。目の動きだけは真剣だ。火床の高さ、鍋を掛ける金具、薪の太さ、換気の抜け道を一息で見ている。


 「悪くない。直したのはあんたか」

 彼はジェルジのほうを見る。

 「竈は皆で。灯りは主に私です」

 「じゃあ、火をいじれる人だな」

 「いじるというより、保たせるほうです」

 「同じことだ」

 「違います」


 間髪入れずに返すと、アラシュは豪快に笑った。


 「いい。そういう顔で違うと言う人は信用できる」


 そこへ、木屑を肩へつけたモフャが裏口から戻ってきた。外の作業から入ってきたばかりで、前掛けの胸元はまだ白い。アラシュは一目見るなり、口笛を吹く。


 「おお、山の木工番。似合うな」

 「またそれ」

 ジェルジが思わず言うと、モフャは眉を寄せた。

 「まだ続いてるのか」

 「続いてるとも。だって本当に似合うからねえ」

 アリーが平然と茶を注ぐ。


 モフャは半ば諦めた顔で前掛けの端を払った。

 「客か」

 「まだ客かどうかは決まっていません」

 ジェルジが答える。

 「だが食材は持ってきた。しかも旨そうだ」

 「旨くするのはこれからだ。で、あんたら、裏庭を使う気はあるか」


 アラシュの視線が、宿の裏手と作業小屋のほうへ向く。


 「あります」

 ジェルジは即答した。

 「ちょうど考えていたところです。山道の休憩や、宿の外で温かいものを出せる形を」

 「なら話が早い」


 アラシュは卓の上へ広げてあった図を覗き込み、焜炉の線を指でなぞった。


 「折り畳みか。悪くない。だが脚が細い。この角度だと鍋を掛けたとき傾く」

 「やはり、そう思いますか」

 「思う。あと、炭を寄せる場所がほしい。煮る火と炙る火は別だ」


 口調は軽いのに、見ている点は真っ当だった。ジェルジはすぐに紙を引き寄せ、指摘された箇所へ印をつける。


 「炙る火、ですか」

 「そう。汁だけじゃ旅人の記憶に残らん。鼻先をくすぐる匂いがいる」


 言いながらアラシュは、持ってきた脂の包み紙を開いた。燻した獣脂だった。指先で少しつまみ、竈の熱い鍋肌へこすりつける。じゅ、と音がして、すぐに香ばしい匂いが立つ。


 「あ」

 とジェルジが漏らす。


 「だろ」

 アラシュがにやりとした。

 「腹は理屈より早い」


 昼を少し過ぎたころには、宿の裏庭で試しの食事会をやる話がまとまっていた。宿の者だけで確かめるつもりだったが、アリーが「どうせ匂いで人が来る」と言い切り、だったら最初から少し多めに作るか、という流れになった。


 ジェルジは即席の焜炉を組み、火皿の高さを変えられるよう仮の金具を留める。モフャは土台になる平板を据え、ぐらつきが出ないよう足元を削る。アラシュは鍋と串の配置を見ながら、どの火をどれくらい生かすか決めていった。ソフィーは湯に入れる香草を選び、ティットマンは人が立つ場所と動線を板へ描き起こした。


 「ここに行灯を掛ければ、鍋の手元も見えます」

 ジェルジが言う。

 「高い。もう少し下」

 モフャが返す。

 「湯気で曇りませんか」

 「曇っても火の位置は分かる」

 「でも食べるものの色も見せたいんですよ」

 「なら二つ掛ける」

 「二つ」

 「片方は手元、片方は客の顔」


 ジェルジは少し考え、頷いた。

 「……そのほうがいいですね」


 客の顔が見える灯り。言われてみれば、その発想が抜けていた。火床だけ良くても、食べる側の表情が暗ければ、あたたかさは半分になる。


 日が傾き始めるころ、宿の裏庭には小さな支度が整っていた。折り畳み焜炉が二基。浅鍋ひとつ。炙り用の串台ひとつ。携帯行灯が四つ。薬草茶を保温する箱がひとつ。まだ試作品ばかりで、見栄えが完璧とは言えない。けれど、宿の裏手が確かに一つの場になっていた。


 最初に匂いへ釣られてきたのは、宿へ薪を届けに来た老人だった。


 「なんだい、今日は祭りか」

 「違います。試しです」

 ジェルジが答える。

 「試しでこんな匂いを出すなら、本番は困るねえ。腹が先に来る」


 そのあとも、犬を連れた子ども、洗濯帰りの娘、荷を降ろした御者が、ひとり、ふたりと足を止めた。皆、最初は遠慮していたが、アラシュが「食ってから考えろ」と鍋をよそい始めると、遠慮はだんだん湯気の向こうへ溶けていく。


 鍋の中身は、茸と根菜を脂で炒めてから煮込んだ塩仕立ての汁だった。そこへ最後に香草を一つかみ落とす。炙り台では、燻し肉を薄く削って串へ巻きつけ、表面だけをぱりっと焼く。ソフィーの薬草茶は、甘すぎず、しかし冷えた喉へ柔らかく残る配合になっていた。


 ジェルジは携帯行灯の火を見回りながら、紙の張りと芯の燃え方を確かめる。裏庭に張った灯りは、食堂の中より風の影響を受けやすい。だが宵霧用に改良した芯は、日が落ちて気温が下がっても、思っていたより安定していた。


 「火、いいな」

 背後でアラシュが言う。

 「鍋の湯気に負けてない」

 「そこを狙いました」

 「なら当たりだ」


 その一言は、料理人の合格印みたいに聞こえた。


 人が増えるにつれ、裏庭のざわめきも変わっていく。寒い寒いと言いながら椀を両手で包む者。炙り串の脂に目を丸くする者。行灯のそばで湯気越しに顔を見合わせ、自然に笑う者。旅の話を始める者。宿の中で席に着いて食べるのとは違う緩さがあった。立ったままでも、外でも、同じ火を囲めば食卓になる。


 「このまま山道の休憩地へ持っていけたら、夜でも助かるねえ」

 御者のひとりが言う。

 「荷馬車を止めて、冷えた手を温められる」

 「携帯行灯と組にして貸し出せます」

 ジェルジが応じる。

 「返却場所は宿と、沢向こうの休み場にも一つ」

 「お、もう商売の顔をしてる」

 アリーが笑う。


 だが冗談ではなく、ジェルジの頭の中ではすでに並べ方が見え始めていた。宿泊する者向けの夕食。通りすがりの旅人向けの温かい軽食。山道へ持ち出すための簡易焜炉。携帯行灯とのセット。薪より炭のほうが軽いなら、小袋で売る手もある。食事と灯りが組になれば、宿は「寝る場所」以上になる。


 「顔がまた難しくなってるよ」

 アリーが言う。

 「今度は何が書いてあるんだい」

 「『組み合わせが増えた』、でしょうか」

 「それは良い顔だ」


 笑いながら答えたとき、モフャが大きな鍋を持ち上げて位置をずらした。火の回りを見ていたのだろう。


 「そっちは強い」

 彼が短く言う。

 「煮る鍋はこっち、炙るのは奥」

 「分かりますか」

 「熱の返り方で」


 彼はそう言ってから、串台の脚へ石を一つ噛ませた。ぐらつきが止まる。ジェルジが行灯の位置を直すと、今度は鍋の照りまでよく見えた。


 「これなら、色が出ますね」

 「客の顔も見える」

 「覚えていたんですか」

 「言ったのは僕だ」


 当たり前みたいに返されて、ジェルジは少しだけ口元をゆるめた。


 そのころには、宵霧がまた谷へ下り始めていた。昼には遠く見えていた山肌が、夕暮れとともに白く薄れ、村外れの道は輪郭を失っていく。けれど裏庭の灯りは消えなかった。紙張りの行灯がひとつ、またひとつと霧へ丸い輪を作り、その中心に鍋の湯気がのぼる。


 「こりゃあ、本当に寄りたくなるね」

 誰かが言う。

 「道の途中でこれが見えたら、絶対来るよ」


 その言葉が、ジェルジの胸の奥へ静かに沈んだ。来る。立ち寄る。ここを目当てに足を向ける。王都で灯りを扱っていたころ、彼女の火は大広間を飾るためのものだった。誰かの栄えある一夜を縁取るための光。だが今、目の前で役立っている火は、寒い者を座らせ、空腹の者を呼び、道に迷いそうな者へ「ここにいる」と知らせるためのものだった。


 同じ火でも、意味が違う。


 その違いは、思っていたよりずっと大きかった。


 しばらくして、旅人らしい男が二人、裏庭の端へ立った。背嚢に泥がつき、靴は湿っている。谷へ入る前に道を見失いかけたのだと、ひと目で分かった。


 「まだ、食えるか」

 片方が遠慮がちに言う。

 「食えるとも」

 アラシュが即答する。

 「その代わり、食ったらうまいと言え」


 男たちが椀を受け取り、行灯のそばへ立ったとき、顔色が目に見えてほどけた。温かい汁を一口飲み、炙り串へ噛みつき、無言のままうなずく。旅の途中の人間が見せるあの顔を、ジェルジは王都ではあまり見たことがなかった。泊まる場所も食べるものも整っている町では、温かさは「あるのが当たり前」になりやすい。だが山の中では、温かい火と鍋は、時にそれだけで救いになる。


 ソフィーが二人へ薬草茶を渡しながら、穏やかに言った。


 「喉の奥が冷えてる。ゆっくり飲みな」


 旅人の一人が、茶の香りに驚いたように目を上げる。


 「これ、湯だけじゃないのか」

 「湯だけでこんなに落ち着くなら、私の仕事が減って助かるよ」


 その返しに、周りが笑った。笑いが広がると、はじめて来た旅人の肩の力もほどける。宿の外なのに、もう食堂の続きみたいだった。


 夜が深まる前、裏庭の試し会はようやく終わった。鍋はきれいに空になり、串台には焼けた脂の匂いだけが残る。使った椀を集め、灰を寄せ、火の始末を確かめていく。後片づけの手つきまで、皆どこか満足そうだった。


 アラシュは鍋底を覗き込み、にやりとした。


 「空だ」

 「ええ、空です」

 ジェルジが答える。

 「初めてにしては上出来でしょうか」

 「上出来どころか、次が欲しくなる出来だ。匂い、火、湯気、座る場所。全部あと一歩ずつ良くできる」

 「褒めながら注文も多いですね」

 「良いものには次がある」


 それはたしかに、その通りだった。


 皆が片づけに散ったあと、モフャは裏庭の端で、消えかけの炭を棒で静かに寄せていた。行灯の火が低くなり、白い霧がまた足元へ薄くたまっている。ジェルジは空になった保温箱を抱えたまま、その隣へ立った。


 「疲れましたか」

 「少し」

 「少し、で済みますか」

 「鍋が空だからな」


 それが彼なりの満足の言い方だと、もう分かるようになっていた。


 しばらく黙って炭の赤を見ていると、裏庭の向こうで、アラシュがまだ何か歌っている声がした。片づけまで騒がしい男だと思い、ジェルジは少し笑う。


 「山の外へ出る旅人って、ああいう人が多いんでしょうか」

 「多くない」

 モフャが即答した。

 「よかった。毎回だと体力が持ちません」


 返すと、彼は珍しく先に笑った。喉の奥で短く鳴るような笑いだった。


 それから、しばらくしてぽつりと言う。


 「僕は前まで、山の外に出る気はなかった」


 ジェルジは横顔を見る。火を見ている目は静かだ。


 「そうなんですか」

 「山道と木と雪の具合が読めれば、それで足りると思ってた。ここで運ぶ、直す、狩る。それで終わると思ってた」

 「今は違うんですか」


 モフャは棒の先で炭を寄せ、火の赤を一つにまとめた。


 「……外から来る人が、何を持ってくるか気になる」


 あまりにも率直で、ジェルジは返事を少し失った。


 「アラシュみたいな鍋も、あんたの灯りも、前は知らなかった」

 彼は続ける。

 「知らないままでも生きられる。でも、知ったあとだと、前と同じで足りるとは思いにくい」


 その言葉は、山の外から来たジェルジにとって、思いがけずやさしかった。ここへ来た当初、自分は余所者で、いずれ帰るか、いずれ消えるか、そのどちらかに見られているのではないかと怖かった。けれど今、彼の口から出たのは「外から来るものを知りたい」という声だった。拒まれていない。少なくとも、彼の中では。


 「私も、知らなかったことが多いです」

 ジェルジはゆっくり言う。

 「山の水の味も、霧の出る早さも、火を囲んで外で食べる楽しさも」

 「楽しんでたか」

 「……少し、かなり」


 認めると、モフャの耳がわずかに動いた。嬉しいときの癖なのか、まだよく分からない。


 「なら、次はもっと良くする」

 「ええ。焜炉の脚も、灯りの位置も、保温箱の持ち手も」

 「鍋の匂いも」

 「そこはアラシュ任せですね」


 また少し笑う。湯気の消えた裏庭で、火だけがまだ小さく生きていた。


 片づけを終えて部屋へ戻る前、ジェルジは湧水を汲みに井戸のそばへ寄った。夜の水はひどく冷たい。桶へ落ちた水面が、行灯の光を受けてかすかに揺れる。その揺れの底が、一瞬だけ不思議な色を返した。


 青とも銀ともつかない、淡い光だった。


 「……今の」


 思わず桶を覗き込む。気のせいかと思ったが、もう一度、行灯を少し傾けると、水の中でほんのかすかに光がほどけた。昼間に沢で見た石の色に似ている。けれど石ではなく、水そのものが何かを含んでいるようにも見えた。


 後ろから近づいたモフャが、桶の中を覗く。


 「見えたか」

 「あなたは知っていたんですか」

 「湧き口の近くは、ときどきこうなる」

 「なぜ」

 「分からない。昔からだ。子どものころ、夜の水汲みで怖がる子もいた」


 ジェルジは息を浅く吸った。沢で拾った淡青色の石。夜の桶の底で返る薄い光。火の燃え方を変えた湧水。全部が別々の話ではなく、ひとつながりの手触りを持ち始めている。


 「この水、ただの飲み水ではないのかもしれません」

 彼女が低く言うと、モフャは横目で見る。

 「武器になるか」

 「ええ。灯りにも、宿にも、たぶん」


 その答えに、彼は短くうなずいた。驚きもしない。無理だとも言わない。ただ、そうか、と受け取る顔だった。


 その夜、帳面を開いたジェルジは、焜炉の改良点をびっしり書き込んだ。脚部補強。炙り台の火寄せ。保温箱の持ち手変更。携帯行灯の吊り位置。薬草茶の配り方。旅人向けの簡易夕食案。さらに、ページの右端へ細い字で加える。


 ――夜、湧水に微弱な返光あり。淡青色。沢石と同系統の可能性。火との相性、要観察。


 そこまで書いてから、ペン先を少し止めた。


 火と食事が合わさると、人が寄る。

 人が寄ると、道が生きる。

 道が生きると、宿はただ泊まるだけの場所ではなくなる。


 今日の裏庭で見たのは、その始まりだった。


 窓の外には、宵霧の白さがまた宿の周りを包んでいる。それでももう、ジェルジはその白さを、ただ道を隠すものとしては見ていなかった。霧の向こうから、腹を空かせた旅人が来るかもしれない。冷えた手を擦りながら、行灯の光を探す誰かがいるかもしれない。そのとき、この宿の裏庭の火が、その足を止められる。


 そう思うと、胸の奥で何かが静かに熱を持つ。


 王都で奪われた場所とは別のところに、手を動かして作る居場所がある。しかもそれは、一人分では終わらない。鍋を囲む人数だけ広がっていく。


 ジェルジは帳面を閉じ、行灯の火を少し絞った。


 今日は疲れているはずなのに、不安だけが先に立つ夜ではなかった。木の匂い、鍋の湯気、薬草茶のやわらかな香り、そして霧の中でも消えなかった灯りが、まだ服のどこかに残っている。


 眠る前、彼女は小さく呟いた。


 「次は、もっと寄りたくなるように」


 その言葉に応えるように、行灯の火が一度だけ細く揺れ、それから安定した。



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