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追放令嬢ジェルジの山あい行灯店 ――宵闇の村でもふ獣人と灯す、ぬくもりごはんと旅の夜――  作者: 乾為天女


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第2話 行灯を一つ、台所を一つ

 朝、目が覚めたとき、ジェルジは自分で驚いた。


 眠れない夜は、ただ長いだけでは終わらない。頭の奥へ砂を詰められたような重さを残し、朝の光まで濁らせる。いつもならそうだった。だが、この朝の体は違った。深く眠ったとは言えない。それでも何度かは確かに意識が落ちていた。


 窓の外は薄い銀色だった。山肌に残る雪が、朝の光を弱く返している。昨夜の裂け目から吹き込む風はまだ冷たいが、夜更けほど荒れてはいない。


 ジェルジは寝台を下り、まず枕元の行灯を確かめた。油はぎりぎり、芯は少し短くなっている。火を落として胴を開けると、燃え方は悪くなかった。置き場所を変えただけで、ここまで安定する。悔しいが、モフャの指摘は正しかった。


 「ちゃんと火を置け、ですか」


 独り言が、少しだけ柔らかい声音で出た。


 顔を洗う水は井戸から汲まねばならなかった。庭へ出ると、朝の空気が頬を刺す。霧は夜ほど濃くないが、谷の奥にまだ淡く溜まっている。壊れた看板の下に立つと、古宿は昼の光の下でも十分にくたびれて見えた。昨夜の応急修理の跡まで加わって、むしろ惨めだ。


 けれど、戸口の脇へ新しく揃えられた木材が立てかけてあるのを見て、ジェルジは目を瞬いた。長さの違う板が数本、縄で束ねられている。昨夜のうちに置いたのだろうか。


 板の上に、木炭で一言だけ書いてあった。


 『梁の添え木。触るな。 モフャ』


 勝手だ、と呆れたはずなのに、口元が少しだけゆるんだ。


 宿へ戻ると、昨夜のうちに見きれなかった場所を一つずつ確認した。帳場の引き出し。台所の棚。食堂の隅の樽。壊れた椅子のぐらつき。まだ使えるものと、すぐには無理なものを分けていく。


 帳場の引き出しからは、古い宿帳のほかに、替え芯に使えそうな麻紐の束と、煤けた油皿がいくつか見つかった。台所の棚には乾いた豆が少し、塩の壺が半分、ひびのない土鍋が一つ。食材は心細いが、まったく空ではない。


 そして、食堂の壁際で昨夜モフャが選り分けていた灯具を改めて調べると、本当に一基だけ、きちんと直せば使えそうなものがあった。


 胴は真鍮。煤を落とせばまだ艶が戻りそうだ。底皿に焼けの偏りはない。取っ手の片方が外れかけているが、針金で補えばしばらく保つ。何より、ガラスの筒に大きな罅が入っていない。


 ジェルジは袖をきっちり折り上げた。


 作業は単純なようで、少しずつ手間がかかる。煤をぬるま湯で柔らかくし、布で拭う。錆びた箇所を削る。芯押さえの歪みを戻し、油皿の縁をならす。取っ手は細い針金で留め直し、ゆるみを何度も確かめる。


 王都では、使い込まれた灯具より新しい灯具のほうが好まれた。華やかな舞台の裏で、古いものは表へ出ない。だが、手の中のこの行灯には、誰かが何度も持ち上げ、何度も置き、長い夜を越えてきた癖が刻まれている。その癖を直しながら、ジェルジは妙に落ち着いた。


 昼近くになって、玄関先でごとりと音がした。


 戸を開けると、モフャが板束を肩から下ろしたところだった。今日は灰色の前掛けをつけている。昨夜より明るい場所で見ると、髪は少し青みがかっていて、耳の内側だけ薄い白だった。


 「勝手に物を置いていかないでください」

 「置いとかないと、朝いちで触るだろ」

 「失礼ですね」

 「間違ってない」


 言い返そうとして、ジェルジは黙った。否定しづらい。


 モフャは宿の中を一目見ると、昨夜の裂け目へ向かった。梯子もないのに卓を寄せて、するすると上へ手を伸ばす。無駄な動きがない。


 「朝飯は」

 「まだです」

 「食べろ」

 「あなたに言われたくありません」

 「倒れると困る」


 誰が困るんですか、と聞き返しかけて、やめた。聞けば、きっと面倒くさそうな顔で宿が困るとか火が困るとか、そういう返事が来る。


 代わりにジェルジは台所へ向かい、昨夜の残り湯で豆を煮る支度を始めた。鍋へ水を張り、火床へ薪をくべる。乾いた木がよく鳴り、竈が少しずつ熱を持つ。


 そのとき、宿の裏口が勢いよく開いた。


 「うわ、本当に煙が出てる!」


 元気のいい女の声だった。振り向くと、腰へ前掛けをきっちり巻いた女が立っていた。年はジェルジより少し上だろうか。髪を高く結い、片腕に買い物籠を提げている。目つきは強いが、口元が先に笑う顔だ。


 「誰ですか」

 ジェルジが身構えると、女は籠を卓へ置いた。

 「こっちの台詞だよ。宿に煙が上がったって聞いて見に来たの。あたしはアリー。前はこの宿の帳場と台所を手伝ってた」


 言うなり、アリーは鍋の中をのぞき込んだ。


 「豆だけ?」

 「今あるもので煮られるのが、それくらいです」

 「駄目駄目。朝の匂いが弱い」


 強引な理屈だった。アリーは持ってきた籠から、干しきのこ、萎びかけた玉ねぎ、少しの干し肉を取り出した。


 「どこから」

 「うちの台所。宿が本当に動くなら、最初の一鍋くらい出す」


 そう言うと、アリーは勝手知ったる手つきで包丁を探し、まな板を見つけ、玉ねぎの皮を剥き始めた。刃がまな板へ当たる小気味いい音が台所に戻ってくる。


 「ちょっと」

 「嫌なら追い出しな」

 「そういうことではなくて」

 「じゃあ水、足して。あと塩はどこ」


 指図されているのに、不思議と腹は立たなかった。アリーの動きには、ここを生かしたい者の迷いのなさがあったからだ。


 鍋へ具が入ると、匂いが変わった。豆だけでは頼りなかった湯気に、きのこの土っぽい香りと玉ねぎの甘さが混ざる。干し肉の脂が浮きはじめると、冷えた台所が急に人のいる場所らしくなった。


 アリーは鼻を鳴らした。

 「うん、これで外へ流れる」

 「外へ?」

 「匂いは呼び鈴みたいなもんだよ。黙ってても腹をすかせた人が来る」


 半信半疑のまま、ジェルジは食堂へ一基目の行灯を運んだ。今朝から直していた真鍮の行灯だ。胴はまだ古びているが、煤は落ち、弱いながらもしっかりした火が立っている。


 食堂の中央の卓へそれを置いた瞬間、空気がわずかに締まった。昼間なのに灯りが必要なほど宿は暗い。だからこそ、一つの火でも印象が変わる。


 昨夜のような、頼りない黄色ではなかった。芯の高さを整え、油皿の角度を合わせた火は、静かでまっすぐだ。曇った室内へ、小さな居場所を作るような光だった。


 「へえ」


 上から降りてきたモフャが、それだけ言った。


 ジェルジは胸の中で小さく鼻を鳴らした。

 「これは雑じゃないでしょう」

 「今日は、ちゃんと置いてる」


 ほめられているのに、相変わらず言い方が悪い。


 そこへ、表の戸が遠慮がちに叩かれた。


 開けると、鼻を赤くした子どもが二人、戸口に立っていた。兄妹らしい。下の子は鍋の匂いに目をまるくしている。


 「ここ、もう食べられるの」


 兄のほうが聞いた。言葉の端に警戒がある。潰れた宿へ期待しすぎて失望したくない、そんな顔だった。


 ジェルジは一瞬だけ迷った。まだ準備中だと言うべきか。代金も決めていない。器も揃っていない。


 だが、背後からアリーが答えた。


 「食べられるよ。熱いから、そこ座んな」


 もう決まってしまった。兄妹は顔を見合わせ、そろそろと卓へ着いた。行灯の光が、二人の頬を淡く照らす。


 続いて、杖をついた老人が一人。次に薪を背負った若者。さらには「煙が出てると聞いて」と近所の女がのぞきに来る。驚くほど次々に人が集まった。


 匂いは本当に呼び鈴だった。


 ジェルジは慌てて器を洗い、卓を拭き、足りない匙を並べた。アリーは大鍋をよそいながら、来た者の顔と腹具合を見て量を変える。子どもには少なめにしてすぐおかわりを出せるようにし、老人には豆を多めに、若者には肉の欠片を惜しまない。


 「ほら、ぼーっとしない。塩と水」

 「はい」

 「『はい』が早いのはいいね」


 台所と食堂のあいだを何度も往復するうちに、ジェルジの手は自然と動いていた。客の前へ器を置く。空いた皿を下げる。行灯の火が揺れていないか視界の端で確認する。


 宿が宿らしく動く。


 たった一つの鍋と、たった一つの行灯しかないのに、その光景は驚くほどあたたかかった。


 兄妹の妹が、匙を握ったままジェルジを見上げた。

 「おいしい」


 たったそれだけの言葉に、喉の奥が熱くなった。王都で称賛を受けたことがないわけではない。だが、それは舞台がうまく回ったとか、夜会が華やいだとか、もっと離れた場所の言葉だった。今ここで返ってくる「おいしい」は、湯気の温度を持っている。


 食堂の端では、老人が行灯を見ていた。

 「この明かり、前より落ち着くな」

 「芯を替えました」

 ジェルジが答えると、老人はうなずいた。

 「目が痛くならん。こういうのは助かる」


 光ひとつで、人の顔つきまで和らぐ。


 昼が過ぎるころ、大鍋はきれいに空になった。器を返しながら、誰かが「また明日も煙を上げてくれ」と言い、別の誰かが「夜はやらないのか」と聞き、アリーは当然のように「そのために宿を起こすんだろ」と返した。


 人が引いて食堂が静かになると、ジェルジは卓へ手をついて、しばらく動けなかった。疲れた。足も腕も重い。だが、それと同じだけ、胸の内に奇妙な明るさがある。


 「ここはまだ終わっていない」


 ぽつりと漏れた声を、アリーが聞きとがめた。

 「今ごろ気づいた?」

 「……ええ」

 「遅いけど、気づかないよりまし」


 言いながら、アリーは空になった鍋を眺めて笑った。気の強い顔なのに、その笑い方は火のそばの湯みたいに丸い。


 片づけが一段落したあと、アリーは帳場の椅子へ腰を下ろした。

 「で、あんた。帳簿は読める?」

 「読めます」

 「金勘定は?」

 「苦手ではありません」

 「よし。じゃあ続けられる」


 何の話かと思えば、アリーは卓へ指をとんとん打った。


 「宿を開けるなら、灯りと鍋だけじゃ足りない。何がいくつ残ってるか、誰に何を頼むか、いくらで出して、どこまでなら村の人間が無理せず回せるか。そこを決めないと、三日でつぶれる」


 現実の言葉だった。夢を見させるための柔らかさが一つもない。だが、その厳しさがむしろありがたかった。ジェルジは頷き、古い帳簿を開いた。


 数字は傷んでいても、嘘をつかない。売った数。仕入れた量。泊まった人数。止まった年。細い記録の積み重ねの向こうに、この宿がかつて確かに息をしていた時間が見える。


 夕方になる前に、アリーは立ち上がった。

 「今日はここまで。あたしは明日、鍋をもう一つ持ってくる」

 「毎日来るつもりですか」

 「嫌?」

 「……助かります」

 「なら素直でよろしい」


 そう言って帰りかけたアリーは、戸口でふと思い出したように振り返った。

 「夜、また眠れなかったらソフィーのところへ行きな。宿の裏道を上がった先の石壁の家。香草の匂いがするから分かる」


 「薬師の方ですか」

 「産婆もやるし、寝つけない人間を黙らせるのも上手い」

 「それは褒めてるんですか」

 「効くって意味では褒めてる」


 アリーが去ったあと、宿はふたたび静かになった。


 だが、昨夜の静けさとはまるで違う。卓の上には洗って伏せた器。火床には昼の熱。帳場には開いた宿帳。食堂の中央には、一基の行灯が灯っている。


 たった一つでも、火があるだけで人は寄ってくる。鍋があるだけで、腰を下ろす。ここはもう、追放された者が一人で震えるだけの場所ではないのかもしれない。


 日が落ちる前に、ジェルジはアリーに教えられた石壁の家を訪ねた。宿の裏手の坂を少し上がったところに、その家はあった。軒下へ乾かした草束が下がり、戸の前に小さな鉢が並んでいる。近づくだけで、青い香りと苦い香りが混ざって鼻へ入った。


 戸を開けたのは、白に近い薄茶の髪を後ろで結った女だった。年齢は読みにくい。若く見えるのに、目元だけが長い夜をいくつも越えた人の静けさを持っている。


 「宿の新しい人」

 開口一番、そう言われた。

 「アリーから聞いてた。入りなさい」


 ソフィーの家の中は、あたたかかった。派手な明るさではない。土の壁に灯る小さな火と、薬草を煮る鍋の熱で満ちた、体のこわばりをほどく暖かさだ。


 ソフィーはジェルジを椅子へ座らせると、手首を軽く取った。脈をみる。次に、肩の位置を見て、靴のまま立たせ、歩かせる。余計なことは聞かないのに、見ているところは鋭い。


 「眠れないのは、頭だけが原因じゃないね」


 静かな声だった。


 「足先が冷えてる。肩も固い。噛みしめる癖がある。あと、眠ろうとするほど怖くなる顔」


 言い当てられて、ジェルジは苦笑いもできなかった。


 ソフィーは棚から小さな袋を三つ取り出した。乾いた葉、細い茎、白っぽい花びら。


 「香草茶にする。苦いけど、飲めないほどじゃない」

 「苦いのは平気です」

 「平気だと思って飲む人ほど、最初に顔をしかめる」


 その予言は当たった。湯呑みに注がれた茶は、最初に甘い草の匂いがして、口に含むとじわりと苦かった。舌の奥へ残る苦みのあとから、喉のあたりがゆるむ。


 ソフィーは向かいへ座り、自分も少しだけ茶をすすった。


 「眠れない夜は、無理に寝ようとしないほうがいいときもある」

 「でも、明日は動かなければ」

 「だからこそ。寝なくてはと思うほど、体は身構える」


 ソフィーの言葉は慰めではなかった。現象の説明に近い。だから聞きやすかった。


 「宿はどう」


 問われて、ジェルジは少し考えた。


 「壊れています。でも、思っていたより残っています」

 「あなたも?」


 茶の湯気の向こうで、ソフィーがそう言った。


 ジェルジはすぐには答えられなかった。壊れている。でも、思っていたより残っている。


 否定できない。


 帰り際、ソフィーは小さな包みを渡した。

 「三晩分。飲んで、足を温めて、行灯の火を低くして寝る」

 「火を低く?」

 「明るすぎると、頭が起きたままになる人がいるから」


 宿へ戻ると、夜が下り始めていた。霧が谷を満たし、外はもう薄青い。食堂の中央で、一基の行灯が静かに燃えている。その光が見えた瞬間、胸の奥に小さな安堵がともった。


 ジェルジはソフィーにもらった香草茶を淹れ、昨夜より少しだけ早く二階へ上がった。行灯の火を低くする。足元へ湯を入れた壺を置く。毛布へくるまる。


 王城のことを思い出さないわけではなかった。けれど、その記憶のすぐ隣に、今日の食堂の匂いがある。豆の湯気。玉ねぎの甘さ。子どもの「おいしい」。老人の「目が痛くならん」。


 それらが、昨夜の炎に押し負けず並んでくれる。


 行灯の火は低く、やわらかく、まぶたの裏まで追いかけてこない。


 ジェルジは毛布の中で指先を握り、ゆっくりひらいた。


 今夜も完璧には眠れないかもしれない。それでも、昨夜よりはきっとましだ。


 そう思えたこと自体が、もう小さな前進だった。



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