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追放令嬢ジェルジの山あい行灯店 ――宵闇の村でもふ獣人と灯す、ぬくもりごはんと旅の夜――  作者: 乾為天女


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17/17

第17話 今夜は眠れそう

 それから十日、カラモリの朝は少しずつやわらかくなった。


 谷の端に残っていた雪は、陽の当たる場所から順に薄くなり、宿の裏手では黒い土が顔を出しはじめていた。屋根から落ちる雫の音も、前より長く続く。寒さが消えたわけではないが、夜明けの色がもう真冬の刃のようではない。


 吹雪の夜に宿へ転がり込んだ旅人たちは、数日かけてそれぞれの道へ戻っていった。見張り所の記録と夜会の油の照合、沢筋の不純物の採取、押収された荷札の確認――面倒で地味な作業は山ほどあったが、今度は一つずつ、きちんと積み上がっていった。宿場役人の男は思った以上に骨を折ってくれたし、峠番所の記録もジェルジたちに有利に働いた。王都からも追って使いが来て、夜会の火事が偶然ではなかったこと、発光鉱石の精製屑が混ぜられていたこと、そして商会とリセラの周辺がその流れに深く関わっていたことが正式に認められた。


 それでも、ジェルジの暮らしは急に豪華にはならなかった。


 朝は薪を割り、昼は帳場へ立ち、夕方は行灯の硝子を拭く。アリーと一緒に在庫を数え、ソフィーの頼みで香草を乾かし、ティットマンの描いた地図を見ながら新しい道標の位置を決める。アラシュは相変わらず「春一番の山菜は油で揚げるのが正義だ」と言い張り、台所で騒ぎを起こした。モフャは騒ぎの最中だけ驚くほど素早く手を出し、片づくと何事もなかったように木札へ数字を書きつけていた。


 宿は忙しかったが、慌ただしさの中にちゃんと芯があった。


 吹雪の夜を越えてから、旅人の数は目に見えて増えた。橋が無事だと聞いて立ち寄る者、宵灯りの宿の噂を頼りに来る者、山水を汲むついでに湯を飲んでいく者。行灯の貸し出し札は足りなくなり、保温箱は二つでは回らなくなり、獣毛の寝具は日に何度も干し直した。


 忙しさに追われるほど、ジェルジはよく眠れるようになっていた。


 最初の数日は、自分でも気づかないうちに夜中の物音へ肩を強ばらせていた。風が鳴るだけで、王城のざわめきが耳の奥へ戻ってきそうになることもあった。けれど、今は違う。戸の向こうで聞こえるのは、見知らぬ誰かの噂話ではなく、アリーが階下で鍋をずらす音や、モフャが外で雪割りの棒を片づける気配だ。音の意味が分かるだけで、夜はずいぶん変わる。


 春の祭りをやり直すと村長が決めたのは、吹雪から五日後のことだった。


 「去年も一昨年も、しけた顔で終わったからな」と村長は杖をつきながら言った。

 「今年ぐらい、胸を張って火を入れたい」


 火、という言葉に、その場の空気がほんの少しだけ止まった。


 ジェルジも黙った。だが村長は、わざと間を置いてから続けた。


 「お前さんが嫌なら、やり方はいくらでも変える。ただ、祝いの灯りまで奪われるのは違うと思う」


 その言葉を聞いたとき、ジェルジは胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じた。


 祝いの灯りまで奪われるのは違う。


 王都の夜会以来、ずっとそこに触れずにいた気がした。火は怖い。けれど、本来の火は誰かを焼き払うためではなく、夜を越えるためにある。温めるためにある。帰ってこられるように、そこにある。


 「……やります」


 そう答えると、村長の皺の深い顔がゆっくり緩んだ。


 祭りまでの数日は、宿中がてんてこ舞いになった。


 ジェルジは新しい行灯の芯を巻き、硝子を一枚ずつ点検し、灯油の配合を見直した。霧の中でも色が沈まないよう、発光鉱石はごく薄く砕いて底へ仕込み、燃え広がらぬよう受け皿の縁を高くした。ティットマンは広場から橋、橋から沢、沢から宿までの導線を描き直し、誰がどの持ち場へ立つかを木札で整理した。ソフィーは転んだ子どものために塗り薬を準備し、アリーは普段の三倍の粥と汁を見込んで乾物を積み上げる。アラシュは祭りなのだから外で炙る台も必要だと騒ぎ、モフャと一緒に屋台用の組み台まで組みはじめた。


 「宿だけで祭りをやる気?」

 と呆れたアリーに、アラシュは胸を張った。

 「違う。祭りをちゃんと祭りに戻すんだ」


 その大げさな言い方に、皆が笑った。


 祭り当日の朝、空はよく晴れた。


 まだ冷たい風は残っていたが、谷の上には雲ひとつなく、洗った硝子を並べると陽がきらきらと反射した。宿の裏ではソフィーが山花をより分け、子どもたちが花輪を編む手伝いをしている。薄紫、白、淡い黄。どれも王都の温室で咲く豪奢な花ではない。けれど、山の風の匂いがして、触れると指先へ小さな張りが返ってくる。


 ジェルジはその花を見下ろして、ふと最初の夜会を思い出した。


 あの花冠も、祝福のためのものだった。けれど祝福の形は、もう王都の大広間だけにあるわけではない。井戸端で笑い合う声にも、湯気の立つ椀にも、靴をそろえて土間へ置く癖にも、ちゃんと宿っている。


 「手、止まってる」


 背後から声がした。


 振り向くと、モフャが木箱を抱えて立っていた。中には、整え終えた小型行灯が六つ並んでいる。彼は一つずつ置きながら、いつものように必要なことだけを言う顔をしていた。


 「硝子の縁、こっちは問題ない。こっちの留め具だけ、もう一度締めたほうがいい」

 「分かった。ありがとう」

 「あと、広場の北側、風が回る」

 「屋台の火が煽られそう?」

 「いや。君の花が飛ぶ」


 そう言って、モフャはジェルジの髪へ引っかかった小さな花弁を摘まんだ。あまりにも自然な動きだったので、ジェルジは一瞬言葉をなくした。彼も気まずくなったのか、摘まんだ花弁を見て、それから妙に真面目な顔で言った。


 「落ちると踏まれる」


 「……そうですね」


 笑いをこらえきれず、ジェルジが肩を震わせると、モフャは少しだけ耳を伏せた。照れているのだと分かるようになったのは、いつからだろう。


 夕方、祭りの灯りが一つずつ入った。


 広場の四隅に大きな行灯。橋へ向かう道には足もとを照らす低い灯り。宿の軒先には淡い金色の列。沢筋へ続くほうには青みのある印灯を並べ、霧が出ても境目が分かるようにした。まだ春浅い空気の中で、灯りは夏のように明るくはない。むしろ控えめで、だからこそ人の顔をやさしく見せた。


 子どもたちが走り回り、村の女たちが湯気の立つ鍋を運び、男たちは橋板の具合を確かめてから杯を手にした。旅人も混ざっている。吹雪の夜に助けられた若者は、足の具合も良くなったらしく、今度は荷を下ろす手伝いまでしていた。老婆は「この宿の粥は忘れられないよ」と言って笑い、宿場役人の男は珍しく肩の力を抜いて汁をすすっている。


 にぎやかなのに、耳障りではなかった。


 誰もが、自分の足でここへ立っている音だった。


 祭りの半ば、村長が咳払いをして人々の前へ出た。大げさな演説ではなく、短い言葉で済ませる人だ。


 「今年の春火は、やり直しだ」


 皆が静かになった。


 「吹雪の夜を越えた者も、ここで冬を越えた者も、よく残ってくれた。火は怖い。だが、使う手がまっすぐなら、火は夜を渡す。今夜の灯りは、そのためにある」


 そう言って、村長は脇へどいた。


 代わりにアリーが、山花で編んだ花冠を持って前へ出る。


 ジェルジは思わず目を見開いた。


 白い花を土台に、淡い黄の花がところどころ差し込まれている。輪の内側には火はない。代わりに、小さな銀糸が星屑のように編み込まれていた。夜会で燃えた花冠より、ずっと素朴で、ずっと丁寧だった。


 「これは、宵灯りの宿の分」

 とアリーが言う。

 「本当は皆で何か言おうと思ったんだけどね。長くなるからやめた」


 広場のあちこちで笑いが起きる。


 アリーは花冠を持ったまま、いつもの気安い口調で続けた。


 「王都でどんな名前をつけられたかは知らない。でも、ここじゃあんたは、夜に灯りを残す人だよ。だから受け取りな」


 ジェルジは一歩前へ出た。


 受け取ろうとした指先が、少し震えていた。


 アリーはその震えに気づかないふりで、花冠をそっと乗せる。山花のひんやりした感触が髪へ触れた瞬間、ジェルジの胸の奥へ、あの夜会の熱とはまるで違うものが広がった。焼ける熱ではない。じんわりと、凍えていたところへ湯が戻るような熱だった。


 拍手は大きくなかった。


 けれど、あちらこちらで頷く人の顔が見えた。湯気の向こう、灯りの向こう、笑い皺の間。どれも見覚えのある顔になっていた。


 ジェルジは喉が詰まりそうになったが、どうにか息を吸った。


 「……ありがとうございます」


 それしか言えなかった。


 でも、その短い言葉で十分だと、皆の顔が教えてくれた。


 夜が深まるにつれ、広場の賑わいはゆっくりとほどけていった。子どもから先に眠そうになり、旅人は宿へ引き上げ、村人たちは鍋や椀を運んでいく。最後まで騒いでいたアラシュも、ソフィーに「片づけまでが祭りです」とぴしゃりと言われて肩を落としていた。


 ジェルジは宿の軒先で、最後の行灯の火加減を確かめていた。


 広場の喧騒が少し遠くなり、谷へ薄い夜気が降りる。灯りは揺れているが、不安な揺れではない。人の息と同じ速さで、静かに明滅している。


 後ろで木靴の小さな音がした。


 振り返ると、モフャが立っていた。いつもの無骨な上着のままだが、髪だけは祭り前に水で撫でつけたのか、少し整っている。そういうところだけは妙に律儀だ。


 「片づけ、終わったんですか」

 「アリーに追い出された」

 「珍しいですね」

 「君に渡せって」


 差し出されたのは、小さな木札だった。磨かれた薄板へ、焼き鏝で不器用な文字が入っている。


 宵灯りの宿。


 その下に、細い線で、小さな行灯の印。


 ジェルジは目を丸くした。


 「看板の下げ札。仮のやつ」

 とモフャ。

 「古い看板、まだ直し切れてないから」


 確かに文字は少しいびつだった。けれど、そのいびつさまで含めて、いかにも彼の手らしい。


 「ありがとうございます。これ、すごくうれしいです」


 そう言うと、モフャは視線をそらした。褒められるのに慣れていない顔だった。


 少し黙ってから、彼は宿の軒先に並ぶ灯りを見た。


 「……王都へ戻りたいか」


 夜気よりも、その問いのほうが不意打ちだった。


 ジェルジは木札を抱えたまま、しばらく答えなかった。戻りたいかどうかだけなら、答えは簡単ではない。失った名を正したい気持ちはある。濡れ衣を着せられたまま終わりたくはない。だが、今の自分を作っているものは、もう王都で奪われた傷だけではなかった。


 「戻る用事は、たぶんあります」


 そう言ってから、ジェルジは続けた。


 「でも、帰る場所はここです」


 モフャが息を止めた気配がした。


 ジェルジは少しだけ笑う。


 「宿がありますから。帳場も台所も、行灯も寝具も、まだまだ直すところがたくさんあります。保温箱も増やしたいし、橋のところの風除けももう少し考えたい。沢筋の印灯だって、今のままだと霧の濃い日に見落としが出るかもしれないし」


 途中から、半分は自分へ言い聞かせるように並べていた。けれどモフャは、その一つずつを黙って聞いたあと、やがてぽつりと言った。


 「……よかった」


 それだけなのに、胸の奥へまっすぐ落ちてきた。


 ジェルジが瞬きをすると、モフャは珍しく逃げなかった。耳は少しだけ伏せられているが、足はその場に留まっている。


 「僕が一番落ち着く場所は」


 言いかけて、彼はほんの少し息をのみこんだ。


 遠くで誰かが笑っている。鍋の蓋が鳴る。春先の沢が低く流れている。その全部の音のあいだで、モフャの声だけが、ひどく真面目に響いた。


 「……君の灯りが見えるところだ」


 ジェルジは返事を忘れた。


 王都では、もっと飾った言葉を山ほど聞いた。立場のための美辞麗句も、夜会を彩るだけの甘い文句も。けれど今、目の前の人がやっと押し出したこの短い言葉ほど、まっすぐなものをジェルジは知らなかった。


 笑うべきか、泣くべきか分からなくなって、結局どちらも混ざったような顔になったのだと思う。モフャが少し困った顔をし、だが逃げる代わりに、行灯の一つへ手を伸ばして火の傾きを直した。


 「……それ、告白ですか」


 やっとのことでそう言うと、モフャは耳まで赤くしてから、諦めたように小さく頷いた。


 「たぶん」


 「たぶん」


 ジェルジが繰り返すと、二人で同時に吹き出した。


 夜の谷に、笑い声が軽く跳ねる。


 そのときジェルジは、ふと気づいた。祭りの終わりの夜だというのに、胸の奥が妙に静かだった。火の記憶も、追放の日の痛みも、なくなったわけではない。けれど、もうそれだけが夜の形を決めてはいない。


 軒先に並ぶ灯り。

 土間へ揃えられた靴。

 片づけの終わらない鍋。

 木札の焦げた匂い。

 山花の輪の重み。

 そして、隣に立つ人のぬくもり。


 眠れない理由より、眠ってもいい理由のほうが、今は多い。


 ジェルジは空を見上げた。山の端は黒く、その上に遅い春の星がいくつも出ている。王都の空より狭いのに、不思議なくらい息がしやすい。


 「モフャ」


 呼ぶと、彼がこちらを見る。


 ジェルジは笑った。


 「私、今夜は眠れそうです」


 モフャは何も言わなかった。ただ、いつものように不器用な顔で、けれど確かにうれしそうに目を細めた。


 宿の灯りは、夜更けまで消えなかった。


 それは誰かを裁くための火ではなく、帰る場所を示すための灯りだった。


 山あいの村カラモリで、宵灯りの宿は今夜も静かに夜を渡していく。


 そしてジェルジは、ようやく自分の夜を取り戻したのだった。



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