第10話 嘘であってほしい
青い石と湧水の試しがうまくいった翌々日、宿の朝はいつもより少しだけ落ち着かなかった。
原因は、坂の下から聞こえてくる車輪の音だった。旅人の荷馬車にしては重い。乾いた木箱が何段も積まれているような、低くて硬い響きである。アリーは帳場で顔を上げ、ティットマンは地図へ引いていた線を止めた。アラシュだけが平然としていて、鍋をかき回しながら言う。
「いい音じゃないな」
「あなた、車輪の音で分かるんですか」
ジェルジが尋ねると、彼は真顔で頷いた。
「うまい客は腹をすかせた音をさせる。面倒な客は、箱の角で来る」
意味が分かるような分からないような言い方だったが、すぐに表道へ現れた一行を見て、誰も反論しなかった。
濃紺の外套を着た男が二人。その後ろに、帳面箱と測量具らしい棒を載せた馬車が続く。さらに、油紙で巻いた長い筒を何本も抱えた使用人がいる。役人だ、と分かる格好だった。王都の紋章を控えめに縫い込んだ帯留めが、朝の光を鈍く返している。
ジェルジの胸の奥が、ひやりと冷えた。
王都から来る者の足音には、どうしても身体が先に反応してしまう。理屈ではない。夜会の火、断罪の声、弁明を切り捨てられたあの硬い空気が、骨の裏へ残っている。
けれど彼女は深く息を吸い、表へ出た。逃げるように見えるのだけは嫌だった。
先頭の男が一礼する。
「カラモリ村の宿、こちらで間違いありませんか」
「ええ。宵灯りの宿です」
「我々は山間水利と地質の確認に参りました。通達は届いているはずですが」
ジェルジはアリーを見る。アリーは眉をひそめた。
「村長のところには来てるのかもしれないね。うちへは聞いてないよ」
男はそれを責めるでもなく、平板な口調のまま紙を示した。村の湧水、山肌の石質、旧道沿いの地盤などを確認する、とある。文面だけ見れば珍しいものではない。山道の維持や橋の補修前には、こういう調べが入ることもある。
だが、ジェルジの目は文末の印へ吸い寄せられた。提出先に、王都の土木局だけではなく、聞き覚えのある商会名が添えられていたのだ。
ディグラ商会。
王都で灯油や金具を大きく扱い、劇場や夜会の飾りにも出入りしていた商会。表向きは何でも屋だが、利益になるものへ手を伸ばすのが早い、と実務方の間では知られていた名だった。
「どうかしましたか」
役人の男が言う。
「……いえ」
声を平らに戻すのに、ほんの一拍かかった。
男たちは宿へ泊まるつもりはなく、日中だけ谷を回って夕方には村長宅へ戻るという。だが、昼の湯と簡単な食事だけは頼みたいらしかった。アリーが値段を告げると、男は迷わず前払いを出した。気前がいいのではない。手続きをさっさと終わらせたいだけの払い方だ。
彼らが去ったあと、食堂に妙な静けさが残った。
アラシュが鍋の蓋をずらしながら、鼻を鳴らす。
「山の水を見に来る顔じゃないな」
ティットマンも小さく頷いた。
「棒の長さが測量用にしては揃いすぎています。地図を写すだけなら、あんなに要りません」
モフャは戸口の柱へ寄りかかったまま、一行の去った道を見ていた。
「石を見るなら、旧道へ行く」
「青石のほうですか」
ジェルジが聞く。
「たぶん」
その短い返事の中に、警戒が混じっていた。
午前の仕事を一通り終えると、アリーが古い帳場の引き出しを荒っぽく閉めた。
「嫌な感じがする」
「同感です」
「じゃあ、嫌な感じの正体を探ろうか」
彼女はそう言って、食堂の奥に積んであった古い帳簿束をどさりと卓へ乗せた。宿だけでなく、昔この建物で受け渡していた荷運び賃、道の手入れ代、村の共同井戸の修繕費まで混じっている。紙は湿気で波打ち、紐は何本か切れていた。
「前から気になってたんだよ。客足が減っただけじゃ説明がつかない金の流れがある」
ジェルジはすぐ隣へ座った。
「見ます」
「あなたは新しい売上表があるだろう」
「その前に、昔の壊れ方を知っておきたいんです」
アリーの口元が、ほんの少しやわらいだ。
昼前から、二人は帳簿の山に潜った。
最初はただ、読みにくいだけだった。墨が滲み、書き手も何代か変わっている。宿泊代の横に干し肉何束、荷馬の飼葉何袋、冬道の見回り何回。昔のカラモリが中継地として本当に動いていたことが、数字の細かさから分かった。
だが、三年前を境に流れが変わる。
宿そのものの客数が減るより早く、道の補修費が細くなっていた。橋板の取り替えが後回しになり、夜の道標の油代が急に削られ、見回り賃も減っている。旅人が来なくなったから維持費が払えなくなった、という順番ではない。維持を止めたから通る人が減った、と見たほうが自然な崩れ方だった。
「これ……」
ジェルジは紙の端を押さえた。
「ね。いやらしい減り方だろう」
アリーは別の帳簿を開く。
そこには地代の覚え書きが綴じ込まれていた。本来なら宿の帳場に置くようなものではない。たぶん村長家から預かった写しだろう。空き家の賃、薪置き場の地代、放棄された畑の値付き。見ていくうちに、ジェルジは背筋が寒くなった。
「安すぎます」
「だろう?」
「この谷で、湧水の近い区画がこの値段はありえません」
王都で土地台帳を直接見たことは多くない。それでも灯具倉庫の賃料や、水場に近い工房の価格くらいは知っている。水のある場所、運びやすい場所、火を扱う作業に向く場所は、どこでも価値が落ちにくい。ましてこの村は、今まさに湧水と青石の性質が手仕事へ繋がりそうな土地だ。
それが、まるで「何も生まない辺鄙な場所」として値を付けられている。
アリーが鼻で笑った。
「村の連中は字より雪を読むほうが得意だろ。そこへ王都仕込みの紙が来て、『今はこんなものです』って言われりゃ、ああそうかって顔になる」
「いつから」
「少なくとも、あなたが来るより前だね」
ジェルジは唇を噛んだ。
自分が追放される前から。自分がこの村へ送られるより前から。土地の値が下げられ、道が痩せ、宿が潰れかける方向へ静かに押されていた。
偶然、では済まない気がした。
そのとき、扉ががらりと開いた。村長ではなく、ティットマンだった。息を切らし、帽子へ雪解けの水をつけたままである。
「旧道に印がありました」
「役人たちですか」
ジェルジが立ち上がる。
「はい。青石の場所へ、赤い杭を打っています」
モフャがすでに外套を取っていた。
「行く」
ジェルジも羽織を掴んだが、アリーが帳簿の上から鋭く言う。
「見るだけにしな。今、真正面からぶつかって得する相手じゃない」
「分かっています」
そう答えながらも、胸の内側は落ち着かなかった。
旧道へ向かう途中、沢沿いの風が妙に冷たく感じた。冬の名残りだけではない。知ってしまった数字が、肌へ張りついている。道を痩せさせ、土地を安くし、価値がないように見せる。そうしてから買い叩く。王都では珍しくもないやり口だ。けれど、それがこの谷へまで伸びていたと思うと、吐き気に似たものが込み上げた。
青石の場所へ近づくと、確かに赤い杭が立っていた。人の背ほどもない細い杭だが、土の色の中でやけに目立つ。さらに少し先の岩陰にも印がある。二つ、三つ。点ではなく、線で押さえる打ち方だった。
木立の向こうで、役人たちが何か話しているのが見える。測量具の棒を伸ばし、紙へ数字を書き込んでいた。使用人のひとりが、青石の表面へ布を当てて何か拭っている。
ジェルジは息を潜め、木の陰からその手元を見た。
青石が淡く光を返す。
「……やっぱり」
彼女は呟いた。
「知ってる」
モフャが低く言う。
「ええ。あの石が何でもない道端の石じゃないと、最初から分かっている人の手つきです」
役人の一人が、脇の紙へ何か印をつけた。風でめくれかけたその紙の端に、商会の記号が見えた。王都の公印より小さい、だが確かに、ディグラ商会の箱へ焼き印されていたものと同じ形だった。
ジェルジの指先から熱が引いていく。
これは村のための調査ではない。
価値を見極め、押さえるための調べだ。
しかも、王都の商会が絡んでいる。自分の知っている名前が。夜会の仕事でも何度も見た、あの商会が。
その瞬間、記憶の奥で、ひとつの光景が急にはっきりした。
夜会の前日。飾り灯の油壺が足りず、急きょ別口で入った補充品があった。帳場の若い者が、いつもの納入先ではない商会名を読み上げ、珍しいですねと言ったのだ。忙しさに追われ、ジェルジは「検品だけは確かに」と返した。箱の側面に焼き印があった。あの形だった。
ディグラ商会。
喉の奥が、からりと乾いた。
モフャが振り返る。
「戻るぞ」
彼の声で、ジェルジはようやく自分が息を止めていたことに気づいた。頷き、足を引いたが、帰り道の半分ほどは景色がうまく見えなかった。枝の影、雪解けの泥、沢の音。全部が遠い。
宿へ戻ると、ソフィーが何も聞かずに温かい湯を差し出した。ジェルジは両手で椀を包み、その熱でようやく指先の感覚を取り戻した。
アリーは帳簿の山をそのままにして待っていた。
「どうだった」
「商会の印がありました」
「どこの」
ジェルジは一度だけ目を閉じた。
「ディグラ商会です」
食堂の空気が、わずかに固まった。
アラシュが口笛を吹きかけてやめる。
「王都の大手じゃないか」
「灯油も金具も鉱物も扱います」
ジェルジは椀を置いた。
「何でも噛める商会です。夜会の飾りにも出入りしていました」
アリーの目が鋭くなる。
「夜会って、あなたが――」
「はい」
そこまで言ってから、ジェルジはしばらく言葉を継げなかった。
食堂の隅で、小型行灯の火が小さく揺れている。レオのために作った、あの丸い火だった。見ていると落ち着くはずなのに、今は逆に胸の痛いところへ届く。
「……あの夜の油も」
声が思ったより低くなった。
「補充で入った箱が、たしかその商会でした」
ティットマンが息を呑む。
「では」
「まだ繋がったとは言えません」
ジェルジは自分で自分を止めるように言った。
「でも、偶然にしては重なりすぎています」
アリーが帳簿を閉じた。
「村の値を下げて、道を痩せさせて、青石と湧水の場所を押さえる。その途中で、王都から追い出されたあなたがここへ来た」
「ええ」
「できすぎだ」
できすぎている。
その言葉が、いちばん痛かった。
理不尽な断罪は、誰かの悪意だけで十分起こる。王都ではそういう話を何度も耳にした。気に食わない者を社交から弾くため、責任を押しつけるため、派閥の椅子を一つ空けるため。だからジェルジも最初は、自分が巻き込まれたのはその程度の嫌がらせなのだと思いたかった。
だが、もし違うのだとしたら。
自分の失脚と、この村の衰退と、青石の道標と、湧水の価値と、その全部が最初から一本の線で結ばれていたのだとしたら。
それはあまりにも、都合がよすぎる。
都合がよすぎて、悪い。
ジェルジは椀を持つ手に力をこめた。熱いはずなのに、冷える。
「嘘であってほしい」
気づくと、口からこぼれていた。
誰へ向けた言葉でもなかった。願いに近い。これが全部、自分の考えすぎであってほしい。夜会の火も、村の紙も、青石の調査も、ただの嫌な偶然で、一本の線などどこにもないと言ってほしい。
けれど、言葉が食堂へ落ちたあと、誰も安易に否定しなかった。
ソフィーだけが静かに言う。
「嘘なら、確かめれば消えるよ」
ジェルジは顔を上げた。
ソフィーはいつもの通り、声を張らない。
「本当なら、確かめても残る」
「……はい」
「どちらでも、今やることは同じだ」
その通りだった。
泣き崩れても何も進まない。ここは王都の断罪の場ではない。声の大きい者が勝つ広間でもない。宿には鍋があり、帳場があり、道の地図があり、青石の場所があり、見たものを書き留める紙がある。自分の手元にあるものを並べ、順に確かめていくしかない。
ジェルジは深呼吸し、帳場へ移った。
白紙を開く。
まず書いたのは、感情ではなく事実だった。
――王都より、山間水利と地質確認の名目で役人来訪。
――提出先にディグラ商会名。
――旧道の青石へ赤杭設置。
――宿保管の古帳簿にて、三年前以降の道補修費・道標油代の不自然な減少を確認。
――地代写しにて、湧水付近区画の不自然な低評価を確認。
――夜会前日補充油の納入元に、同商会名の記憶あり。
書いていくうちに、頭の中の霧が少しだけ晴れていった。
まだ証拠ではない。だが、印象だけでもない。見たこと、触れたこと、読んだ数字がある。そこから先へ進める。
モフャが向かいに腰を下ろした。
「何をする」
「まず、宿だけの問題にしません」
ジェルジは紙へ次の行を書く。
「村長にも見てもらいます。アリーさんの帳簿の写し、ティットマンさんの地図、青石の場所。全部」
「いい」
「それから、青石と湧水を使った灯りを形にして、外から来た人にも分かるようにします。ここに価値があると、向こうが言う前に、こっちが暮らしの形で示します」
モフャの耳が、わずかに前を向いた。
「守ってくれって言うだけじゃなく」
「はい。守る理由を、仕事にします」
それは、言いながら自分へ言い聞かせるような言葉でもあった。
追われて来た身だ。権力も後ろ盾もない。ならばせめて、ここで生きる人たちの手に乗る言葉で戦うしかない。宿が必要だと。旧道の灯りが命を救うと。湧水と青石が、誰かの金儲けの材料ではなく、この谷で眠り、歩き、食べる人々の暮らしを支えていると。
夕方になるころ、役人たちは再び宿へ寄った。湯と遅い昼食を取るためだという。ジェルジは平然と応対した。外から見ればいつも通りの宿である。アリーは値段を一文もまけず、アラシュは鍋をうまそうに見せ、ソフィーは無駄口を叩かず、ティットマンは地図を壁へ掛け直した。
その地図を、役人の一人が長く見ていた。
「見やすいですね」
「道に迷う方が多いので」
ジェルジが答える。
「旧道もありますか」
問い方が、あまりにも自然すぎた。
「ありますよ」
彼女もまた、何でもない調子で返す。
「ただ、今は道標が足りません。昔はもっと夜道に手が入っていたようですが」
男の目が、ほんの一瞬だけ細くなった。
「そうですか」
それだけで終わったが、互いに何かを量った気配があった。
役人たちが去ったあと、空は早くも暮れ色へ傾き始めた。山の夕方は短い。ジェルジは食堂の行灯へ順に火を入れながら、今日一日を胸の中で並べ直した。朝の車輪の音。帳簿の数字。赤杭。商会の印。喉へ落ちた「嘘であってほしい」という言葉。紙へ書いた事実。
火を入れたばかりの行灯は、最初だけ少し不安定だ。芯の先が油を十分に吸う前は、火が小さく揺れ、頼りない。それでもすぐに丸く落ち着く。湧水で整えた金具は、たしかに戻りが早い。
ジェルジはその火を見て、ふと思った。
自分も今、たぶん同じなのだろう。朝の段階では、また足元から崩れる気がした。王都の影に引きずられ、この宿でようやく掴みかけたものまで奪われるのではないかと怖かった。だが、怖いと分かったなら、次は揺れから戻る仕組みを作ればいい。
灯りにも、宿にも、村にも。
夜の配膳が終わるころ、アリーが帳場へ新しい紙束を置いた。
「写しを作る。明日、村長のとこへ持ってくよ」
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い。面倒ごとはこれからだ」
そう言いながらも、彼女の手つきは速かった。
ティットマンも古地図と今の地図を重ねて、青石の旧道に別の印をつけはじめる。アラシュは「じゃあ外から来るやつにも分かる飯を考える」と勝手に燃え、ソフィーは「眠れない顔をしてる人が増える前に香草を刻んでおくよ」と薬草箱を開いた。
ジェルジはその様子を見渡した。
誰も、大きな言葉を口にはしない。村を守るだの、商会へ立ち向かうだの、そういう勇ましい言葉はひとつもない。ただ、それぞれが自分の持ち場へ戻り、できる手を先に打っている。
それが、どうしようもなく心強かった。
夜更け前、ジェルジはもう一度、白紙の下へ書き足した。
――守ってください、では弱い。
――宿の灯り、地図、湯、食事、寝具、薬草、旧道。
――村の暮らしを、見える形にする。
筆先が、さっきより迷わず進む。
帳場の向こうでは、モフャが小型行灯の枠を削っていた。薄い木屑が膝へ積もり、耳は仕事の音へ静かに向いている。彼はふいに顔を上げ、ジェルジを見た。
「今日、怖かったか」
飾りのない聞き方だった。だから、誤魔化す気が起きなかった。
「怖かったです」
「うん」
「でも、前みたいにはしません」
モフャはしばらく黙り、それから削りかけの木枠を卓へ置いた。
「前は一人だった」
それだけの言葉なのに、胸の奥へまっすぐ届いた。
王都で断罪された夜、自分は確かに一人だった。助けを求める前に切り離され、説明する前に罪を着せられた。だが今は違う。帳簿を開く手があり、地図を描く手があり、鍋を混ぜる手があり、薬草を刻む手があり、木を削る手がある。
ジェルジは小さく笑った。
「そうですね」
「だから、次をやる」
「はい」
外ではまた、宵霧が谷へ降り始めていた。けれど宿の窓には灯りがあり、廊下には継ぎ灯りがあり、帳場には明日のための写しが積まれていく。嘘であってほしいと願った気持ちは、まだ消えていない。それでも、もし本当だとしても、今夜の自分はもう、立ち尽くすだけでは終わらない。
ジェルジは帳面を閉じ、次の紙を引き寄せた。
明日やることを書くために。




